3話 死の恩寵
死の騎士の巨体が、前のめりに傾いた。
踏みしめていた床を離れ、重音を立てて崩れ落ちる。衝撃で部屋全体が大きく揺れた。遅れて、焦げた嫌な匂いが鼻を突いた。
偉大な勝利であったが、壁に寄りかかったままのアタシは指一本動かせなかった。
先ほどの魔法は全身の威力を使い切り、なんとか捻り出したものだ。体力が少しでも回復するまでは、こうして動かないでいるしかなかった。
倒れた騎士は、もう動かない。剣を握っていた手も、闇を見下ろすだけだった眼窩も、完全に沈黙している。
――勝った。
「……は、はは……」
乾いた笑いが唇から漏れた。
エミリアは、ゆっくりと視線を騎士の足元へと向けた。
崩れた騎士の足元。その深い影の中。
――そこに、ルーサがいた。
いや。『あった』。
原型を失った四肢。血に濡れた床。動かない肉塊。
エミリアの口から、すべての音が途絶えた。先ほどまで噛み締めていた勝利の実感が、急速に冷たく縮んでいく。
死の騎士は倒せた。
しかし、その代償はあまりにも大きすぎた。多くの部下を失い、手に入れたものは何一つない。
それでもエミリアは、大きく息を吸い込み、冷めてしまった勝利の味を惨めに噛み締めていた。
――――トン……トン。
ふと、小さな足音が地下室に響いていることに気づいた。
生き残りがいたのだろうか? いや、そんなはずはない。これほど強力なアンデッドだ。ここへ来るまでに部下は皆殺しにされているはずだ。万が一生き残りがいたとしても、先ほどの戦闘に加勢しないような臆病者は、うちの盗賊団には置いた覚えがなかった。
(――となると、術師か)
それしか考えられない。あれほどの怪物を放ち、倒されたのだ。こちらの様子を伺いに来たに違いない。
アタシは振り絞るようにして残った魔力を練り、「火炎の矢」を構成した。
大した威力は付与できないが、それでも人間の一人や二人は焼き殺せる。あれほどのアンデッドを使役する術師だ、油断はできないが、あのレベルを何体も連れているわけがないはずだ。
近寄ってくる足音が、扉の真前で止まった。
そして、静かな開閉音と共に、その『術師』が姿を現した。
――――ハッ?
間抜けた声が漏れた。
頭に描いていたのは、偏屈そうなババアの術師か、いかにも凶悪そうな中年の男だったからだ。
しかし、扉の前に立っていたのは、どちらでもない存在――幼い少年であった。
その少年は、あまりにも整いすぎていた。
金色の髪は柔らかく光を含み、白い肌は地下室の闇の中でも浮き上がるほどに透き通っている。
血の気の薄いその色合いは、生者というより、神が人間に似せて作らせた精巧な人形を思わせた。
中性的な顔立ちは妖しく、美しい。
長い睫毛に縁取られた瞳は穏やかに細められているのに、底が知れない。
微笑んでいるはずなのに、そこには情も熱も感じられなかった。
細く華奢な身体つきは庇護欲を誘う。
だが、視線を合わせた瞬間、その甘い印象は一変する。
この少年は、見る側を選別している。人を、同じ人間として見ていないのだ。
美しく、妖艶で、そして圧倒的に危険。
近づけば魅入られ、触れれば壊される――『傾国』。そんな言葉すら頭をよぎる存在であった。
「……まさか死の騎士がやられるなんて思わなかったよ」
鈴の鳴るような、妙に耳に残る高めの声が聞こえてくる。
その声はどこか官能的で、あの少年の声を聞くためならどんなことでも差し出してしまいそうな狂気すら秘めていた。
アタシは目の前の現実に圧倒され、声すら出せない。
そんなアタシを置き去りにして、目の前の少年は死の騎士の足元に転がっているルーサの死体へ視線を向けた。
そして、小さく美しい片手を、血溜まりの中のルーサへと掲げる。
死体を見下ろす少年の姿は、まるで一枚の美しい絵画のようだった。
――しかし、真の絶望はその直後に訪れた。
「死の恩寵」
小さく呟かれた言葉を皮切りに、掲げられた少年の手からドロドロとした黒い泥のようなものが溢れ出した。
その泥がルーサの死体へと降り注ぎ、ゆっくりと全身を覆っていく。泥は少しずつ膨らみ、人型を形成していった。
やがて泥が溶けるように消え去った時――そこにルーサの姿はなかった。
そこに立っていたのは、二メートルの巨体にナイトソードを携え、乾いた皮膚を顔に張り付けたあの怪物だった。
「――――」
倒したはずの怪物が、目の前で再び産み落とされたのだ。
これほど強力な存在をいとも容易く錬成してみせる。それはまさに、常理を越えた『魔法』であった。
(……男が……魔法……!?)
あり得ない。アタシの中の常識が、激しい音を立てて崩壊していく。
男は女の下位互換。それがこの世界の絶対的な法則のはずだ。それなのに、男でありながら魔法を行使する存在が目の前にいる。聞いたこともない。
しかし、目の前に佇む少年には、そんな世の常識すら易々とねじ伏せてしまうだけの異様な説得力があった。
「……さて、お姉さんは生きているみたいだし、これから色々と手伝ってもらおうと思うよ」
少年は、にっこりとアタシに微笑みかけた。
その笑顔のあまりの美しさに見入ってしまい、集中力が切れたアタシの『火炎の矢』は儚く霧散した。
「……アタシに、何する気だ……ッ」
「研究に行き詰まっていてね。動物での実験は一通りやり尽くしちゃったから、そろそろ人間を使って色々試してみたくなったんだ」
そう言って、少年はゆっくりとアタシへ近づいてくる。
小さな足音が近づき、目の前で立ち止まった。少年の後ろには、先ほどまでルーサだった死の騎士が、彼を護衛するように佇んでいる。
小さく冷たい手が、アタシの頬を優しく撫でた。
次の瞬間、少年の手に握られていた細い針が、アタシの首筋へと深く刺し込まれる。
チクリとした小さな痛みと共に、身体の力が急速に抜けていく。
視界が暗くなり、瞼が重くなっていく。
アタシは、抗う術もなく意識を手放した――。
――――――――
――――――――
僕は、血と硝煙でぐちゃぐちゃになった部屋を淡々と見渡した。
元々はこの周辺で暴れる盗賊がいると聞きつけ、屋敷を抜け出して街道周辺を《《お散歩》》していたのだ。
その途中で怪しい集団が豪華な馬車を襲撃しているのを見かけ、後をつけてみたら、この洞窟のアジトに行き当たったというわけだ。
盗賊達はそこそこの規模だったらしく、小さな洞窟が蟻の巣のように広がっていた。
おかげで色々と物資を手に入れることはできたのだが。
(まあ、肝心の《《人体実験の材料》》は全然確保できなかったけど)
そう思いながら、僕は部屋の隅で倒れている死の騎士を見つめる。
抵抗されるようなら殺していいと命じてはおいたが、予想以上に殺しすぎてしまったらしい。回収できたのは、目の前に倒れている威勢の良かったお姉さんと、数人の部下の女だけだった。
リスクを冒して忍び込んだ割には、少し寂しい成果だ。
(まあいいか。魔法の試験運用だと思えば)
そう思考を切り替え、散らかった部屋の物色を再開する。
とは言っても、大したお宝はなさそうだったが――。
「……ん? ……うわぁ」
部屋の奥で、一つの大きな鉄の檻が目に留まった。
中を覗き込むと、小さな少女が丸まって横たわっていた。
しかし、その状態は凄惨を極めていた。一体どんな異常者がここまで痛めつけたのか、理解に苦しむほどの傷だらけだった。
「……これじゃあ、息があるのも不思議なくらいだね。可哀想に、僕が楽にしてあげるよ」
僕はそう呟き、従者である死の騎士にトドメを刺すよう命令を出そうとした。
――その時だった。
「……け…………たす……」
檻の奥から、かすかな掠れ声が漏れた。
先ほどまで動かなかった少女の口から、こぼれ落ちるような必死の音が聞こえてきたのだ。
正直、驚いた。
明らかに今すぐ死んでもおかしくない状態なのに、この少女は泥にまみれながら、必死に命にすがりつこうとしている。
その姿を見た瞬間、僕の胸の奥で何かが強く脈打った。
「……ふうん。助かりたいの?」
僕は微笑みを浮かべ、檻の前に屈みこんで語りかけた。
少女は殴られて腫れあがった眼窩をこちらに向け、歪んだ顔を精一杯上げて僕を見つめ返してきた。
荒い呼吸音だけが地下室に響く中、彼女は小さく、しかし確かな意志を込めて呟いた。
「……たすけ…………て……しにた…………くない……っ」
――その瞬間、僕は嗤った。
醜く破滅に瀕しながらも、生へと狂おしく執着する姿。
その往生際の悪さ、命への汚らしいまでの執着が、僕にはたまらなく美しく見えたのだ。
――彼女は、僕と同じだ。
「わかった。君を助けてあげるよ。一人で研究を進めるのも退屈していたところだったしね」
そう言うと、僕は檻を開け、彼女をそっと抱き上げた。
少女の身体はやけに小さく、驚くほど軽かった。
後ろに控える死の騎士に「使える死体と生き残りを回収するように」と命じ、僕は哀れな少女を腕に抱いたまま、暗い洞窟を後にしたのだった。
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