34話 ターニングポイント①
夜風が、鐘楼の石壁を冷やしていた。
私は一人、鐘楼の上で、星を眺めていた。
礼拝堂には当然ご主人様の姿はなかった。多分、地下の実験室にいるのだろう。
地下に降りて、ご主人様に話を聞く。
いつもやっていることだったのに、今日はそれが出来なかった。だから、地下へは降りずに、梯子を上って、鐘楼に来た。
高い場所は、好きだ。
風が、考えを遠くへ運んでくれる。嫌なことを忘れられる。そんな気がしていた。
石の縁に、両手を置く。
廃教会の屋根の向こうから見えるエバンスの街の灯りが、小さく散らばっていた。あの灯りのどこかに、宿がある。
お師匠様は、まだ、あの部屋にいるだろうか。
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お師匠様に、手を、差し出された。
「アタシと、逃げよう」
大きな手だった。指の節が太くて、皮が硬い。毛布を掛けてくれた手と、同じ手である。
私は、その手を、取らなかった。
取れなかった、のではない。取らなかった。
そう、考えたい。
けれど、あの手を、見ていたとき。
胸の真ん中が、じんと、した。
「じんとする」という言葉は、お師匠様に教えていただいた。
悲しい、という言葉も。
ご主人様は、悲しいという気持ちを、教えてくださらなかった。
教えてくださらなかったのではない。たぶん、私が、尋ねなかっただけだ。尋ねる必要が、なかったから。
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人形たちのことを、思い出す。
ご主人様に、逆らった方々だ。敵対した方々だ。頭に手を入れられて、静かになって、言われたことだけをするようになる。
最初に見たとき、私は、それに恐ろしさを感じた。
あれだけ悪態をつき、ご主人様を嫌っていた人たちが、一瞬で、ご主人様に逆らわなくなった。
まるで、人が変わった様に。
二度目に見たとき、私は、何も感じなくなっていた。
それ以外に、ご主人様が酷いことをしているのは知っていたので、慣れてしまった。
三度目からは、お手伝いもした。器具を渡して、押さえて、終わるのを待った。
ご主人様の敵を倒すことは、ご主人様を守ることにつながる。
それは、わかっている。
あのデビュタントの夜、ご主人様の敵を倒し——殺した時から覚悟を決めていた。
いや、そう思おうとしていた。
けれど、人を斬ったあとの、手の震えを、私は、止められない。
好きではない。ずっと、好きではなかった。感触が手にこびり付いて離れなかった。
だからだろう。お師匠様の問いに私は、答えられなかった。
答えられなかったのは、気持ちがなかったからではない。その気持ちを、言葉にしてよいのか、本当に私の気持ちだったのかわからなかったからだ。
(……ご主人様の隠し事)
私が斬ったあの化け物。
あれの頭巾の下に、人間の顔があった。
あの日の、手の感触を、まだ覚えている。
骨ではなく、肉でもない、柔らかい何かを、断った感触。
あれを、私は、「魔物」だと思って斬った。
しかし、その感触は私が嫌悪する人間の感触であった。
(本当に、ご主人様が作られたのかな?)
お師匠様はあの化け物について、私の戦いぶりを記録するために、ご主人様が作られたと仰っていた。
私には、内緒で。
お師匠様の仰った『本人には伏せる』の一行が、頭の中で、何度も、響いている。
ご主人様は、私のために全てをしてくださっている。私に嘘や隠し事はしない。
そう、信じていた。そう、信じることが、私の足場だった。
その足場に、小さなひびが、入っている。
ひびの隙間から、冷たい風が、吹き込んでくる。
お師匠様のところへ戻れ、と、誰かが、言っている気がした。
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そのとき、ふと誰かが後ろにいる気がした。
「悩んでいるのでしょ?エテルニティ」
「……!?」
私は素早く後ろを向き、剣に手をかける。見ると、そこには背の高い女が立っていた。
その女は夜だと言うのに、真っ白なワンピースを着ていた。
しかし、瞳は赤く透き通っており、どこか荘厳な美しさを身に纏っていた。
「……何者だ」
「……ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだ。……覚えてはいられないだろうけど、自己紹介するね。僕は———って言うんだ。」
名前の部分だけが、耳の奥で、砂が擦れるような音になった。
「やっぱり、聞こえないか。ごめんね。気にしないで」
女は、困ったように笑った。
その瞳は赤い。けれど、冷たくは見えなかった。どこか、泣き腫らしたあとのような、柔らかい色をしていた。
「そんなに警戒しないで。僕は、君に何かを命じに来たんじゃない。聞きに来たんだ」
「……聞く?」
「うん。悩んでいるのは、ご主人様のこと? 隠し事をされていたことかな」
私は、答えなかった。
剣の柄から、手は離さなかった。
「ご主人様のことは、どう思ってるの?」
その問いに、私の記憶が、ひとつ、引き出された。
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あの夜は、お師匠様と組んで、まだ十日ほどしか経っていない頃だった。
ご主人様に報告をしようと廊下を歩いていた私は、ご主人様のお部屋から、かすれた声が聞こえることに気づいた。
「……いやだ……」
扉を、そっと開けた。
月明かりの差し込む寝台の上で、ご主人様が、シーツを握りしめていた。
金色の髪が、汗で額に張りついている。唇は青く、細い肩が、小刻みに震えていた。
「……暗い……痛い……いやだ……死にたくない……死にたくない……」
ご主人様が、うなされている。
いつも穏やかに微笑んでいらっしゃる、あのご主人様が。
私は、足音を忍ばせて、寝台に近づいた。
どうすればいいのか、わからなかった。ただ、震えている手が、あまりにも小さく見えて、思わず、その手を握った。
冷たかった。
まるで、死人のように。
しばらくして、ご主人様の瞼が、ゆっくりと開いた。
「……エティ?」
「はい。ご主人様」
「……見ていたんだね」
ご主人様は、天井を見たまま、力なく笑った。
「みっともないところを、見せたね。……ごめんね」
「いえ」
「僕はね、エティ。死ぬのが、怖いんだ。どうしようもなく」
その声は、私の知っているご主人様の声ではなかった。
子供の、声だった。
「何度も、夢に見る。……暗くて、冷たくて、何も、なくなっていく夢。目が覚めても、まだ、冷たいんだ」
「…………」
「だから、僕は、死にたくない。ずっと、生きていたい。……そのためなら、何だってする」
ご主人様は、私の手を、強く握り返した。
「エティだけは、いなくならないでね」
私は、頷いた。
それ以外の、返事を、持っていなかった。
翌朝、ご主人様は、いつものように、穏やかに微笑んでいらっしゃった。
夜のことは、何もなかったかのように。
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「……そうか」
女は、静かに言った。
「君は、見ていたんだね。あの人の、弱いところを」
「……はい」
胸の真ん中が、じんと、痛んだ。
ご主人様は、悪い方だ。
お師匠様の言うとおり、酷いことを、たくさんしている。人形も、あの化け物も、牢の女たちも。
けれど、あの夜の手の冷たさを、私は忘れられない。
「ご主人様は、怖いのだと思います」
気づけば、言葉が、口からこぼれていた。
「死ぬのが、怖くて。ずっと一人で、怖いままで。だから……だから、あんなことを」
「うん」
「許せることでは、ありません。でも……あの方を、一人にしたくないんです」
そう言った瞬間、私は、自分の言葉に驚いた。
これは、命じられたことではない。ご主人様の理屈でもない。
私が、思っていることだ。
「助けたいのかい。あの人を」
「…………はい」
女の瞳が、悲しげに揺れた。
「それは、重い道だよ」
女は、ゆっくりと言った。
「あの人を助けたいと願えば、あの人のしてきたことの一部を、君も背負うことになる。人形も、化け物も、これから起きることも。『ご主人様のせいです』とは、もう、言えなくなる」
「…………」
「軽くする方法を、僕は知らない。教えてあげることも、できない。……それでも、いいかい」
私は、両手を見た。
あの感触が、そこにあった。メイドを斬った手。人形の手術を手伝った手。
これ以上、重くなる。
それでも。
「はい」
私の声は、思ったよりも、静かだった。
「それでも、私は、ご主人様を助けたいです」
「……そうか」
女は、目を伏せた。そして、可笑しそうに笑い始めた。
「……なんですか?」
「あはは。いやごめんね。君はアダム似てるなぁって思っただけだよ」
「……誰ですか?」
そう言うと、目の前の女は懐かしそうに眼を細める。
「アホな男さ。好きな女のために全てを捨てて。だけど、何もえれなかった。なのに、また全てを犠牲にして、救おうとする」
その横顔が、とても寂しそうに見えたのは、気のせいだっただろうか。
「ごめんね。……君の選択を、僕は止める資格がないんだ」
女の姿が、夜の闇に、溶けるように薄れていく。
「覚えてはいられないだろうけど。……選んだ重さだけは、きっと、君の中に残るから」
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気づくと、私は、石の縁に手を置いたまま、立ち尽くしていた。
誰かと、話をしていた気がする。
けれど、それが誰だったのか、何を話したのか、思い出せない。
だけど、この胸には、一つの答えがある。
ご主人様を、助けたい。
そのとき、鐘楼の下の庭で、何かが動いた。
墓地の脇を、一人の影が、走っている。
外套を羽織った、大柄な影。左肩が、少し下がっている。走るとき、右足を、わずかに引きずるように置く。
お師匠様だった。
お師匠様は、納骨堂の戸の前で、一度だけ、足を止めた。
それから、迷いのない足取りで、暗がりの中へ、消えていった。
一人で。
私が、いないのに。
納骨堂の石段は、地下の研究室につながっている。
お師匠様は、あの紙を持っている。ご主人様を問い詰めに、行くのだろう。あるいは——
剣を、抜きに。
胸の真ん中が、じんと、痛んだ。
お師匠様を、嫌いになったわけではない。
あの手の温かさを、私は、忘れていない。
それでも、私の答えは、変わらなかった。
(私は、ご主人様を、助けたい)
それは、誰に命じられたことでもない。
私が、決めたことだ。
だから、その重さも、私が背負う。
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