30話 雲の晴れた夜
エバンスの街に戻ったのは、日が沈みかけた頃であった。
背中の傷は、塞がっている。それでも、歩くたびに、肩甲骨の裏あたりが疼いた。
服の背中は、焼け焦げて穴だらけであった。
「ベルナデットさん。歩き方が、不自然です」
「放っときな。ただの疼きだよ」
「痛むのですか?」
「……ああ。痛むよ」
そう答えると、エティは、少し申し訳なさそうな顔をする。
アタシはそれをみて、頭に手を置く。
「アンタはよくやってくれたよ。だから、そんな顔すんじゃないよ」
「……ありがとうございます」
アタシはそんな姿を見て、少し吹き出しそうになった。
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ギルドの扉を押し開けると、小さなざわめきが起こった。
半月前なら、エティが入った瞬間、酒場の空気そのものが凍りついたはずである。今日も視線は集まった。けれど、その質がわずかに違う。
畏れが消えたわけではない。ただ、そこに戸惑いが混じっていた。
アタシはそんな様子は気にせず、受付へ向かう。
すると、先に着いていたヴァレリーたちが、受付の前で報告を終えるところであった。
「——北の洞窟の辺りだよ。魔物じゃない。調査隊を出すなら、人数を揃えな。二人や三人じゃ、焼かれて終わりだ」
「承知しました。大森林への依頼は、一旦、停止いたします」
受付の女が、羽ペンを走らせている。
ヴァレリーは、そこでようやく振り返って、アタシたちに気づいた。
「……来たかい」
「ああ。報告は」
「済ませた。化け物のことは、全部な」
そこで、ヴァレリーは声を落とした。
「あの顔のことは、言ってない」
アタシは、一瞬だけ、黙った。
涙に濡れた顔。縫い目の走った首筋。そして、あの言葉。
「……アタシも言うつもりはないよ」
「だろうね。言ったところで、誰が信じる。……それに」
「それに?」
「気分のいい話じゃない」
ヴァレリーは、乱暴に頭を掻いた。
それから、不意にアタシへ向き直って、深々と頭を下げた。
「助かった。借りができたね」
「やめな。柄じゃない。それに、礼なら他にする相手がいるだろう?」
「ふっ。そうだな」
そう言うと、ヴァレリーはエティの方へ顔を向ける。
ヴァレリーの後ろにいた三人が一斉に頭を下げる。
そして、足を噛まれた女が、おずおずと前へ出てきて、エティの前で立ち止まった。
「あの……さっきは、ありがとうございました。足、もう、全然、痛くなくて」
エティは、少し間を置いてから、ゆっくりと答えた。
「どういたしまして」
ぎこちない。けれど、森で教えたときよりも、ずっと自然であった。
女は、泣き笑いのような顔になって、もう一度、頭を下げた。
「……アタシからも礼を言わせてくれ。仲間を助けてくれてありがとう」
そう言って、ヴァレリーも、エティに向かって深く頭を下げた。
その様子に、酒場のあちこちから、ひそひそとした声が聞こえてくる。
「本当かよ。あの白銀狼が?」
「ああ。人を、治したって」
「あいつが?」
その声に、悪意は、あまり混じっていなかった。ただ、急には、受け入れられないのだろう。
エティは、聞こえているのかいないのか、いつもの無表情のまま、アタシの隣に立っていた。
ただ、ほんの一瞬だけ、こちらを見上げた。
「ベルナデットさん。私は、何か、間違えましたか」
「いいや。上出来だ」
「……そうですか」
エティは、また前を向いた。
その横顔が、アタシにはさっきまでより、少しだけ、柔らかく見えた。
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依頼は、途中で打ち切りになった。
報酬は半額。銀貨一枚と、大銅貨五枚。それを受け取って、アタシは、ギルドを出た。
貯金は、金貨三十八枚のまま。目標まで、あと二枚。
今日の稼ぎでは、傷の手当ての薬代にもならない。それでも、不思議と、損をした気はしなかった。
外は、すっかり暗くなっていた。
アタシが宿へ向かうと、エティが、当たり前のような顔で、後ろをついてくる。
「エティ。屋敷には、戻らなくていいのかい」
「ご主人様から、今夜は、パーティを組んで初めての夜だろうから、お師匠様のそばにいてよい、と」
「……ずいぶん、物分かりのいい主人だね」
「はい。ご主人様は、お優しい方ですので」
優しい方、か。
アタシは、そのまま、聞き流すことにした。
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宿の裏庭には、古い井戸と、苔むした石のベンチがあった。
夜風が、焦げた背中の布を、さらさらと撫でていく。少しだけ、くすぐったかった。
アタシはベンチに腰を下ろして、安酒の瓶を傾けた。
エティは、少し離れた石段に、背筋を伸ばして座っている。
「そこ、冷えるよ。こっちに来な」
「問題ありません」
「問題がなくても、来な」
エティは、一拍置いてから、立ち上がって、ベンチの端に腰を下ろした。
拳一つ分ほどの距離を、空けて。
しばらく、どちらも、口をきかなかった。
それでも、気まずさはなかった。むしろ、悪くない静けさであった。
ふと、夜空を見上げる。薄い雲が、星を隠していた。
「ベルナデットさん。一つ、お聞きしてもよいですか」
「なんだい」
「昼間、なぜ、斬るなと仰ったのですか」
瓶を傾ける手が、止まった。アタシはエティの瞳をじっと見つめる。澄んだその瞳からは、アタシを非難しようという意図は感じられなかった。
「あれは、人の形をしておりませんでした。ですが、ベルナデットさんは、人間だと」
「……顔が、人間だったろう」
「はい。それは、あの後、分かりました。……ですが、あのとき斬っていれば、ベルナデットさんが怪我をすることはありませんでした」
淡々とした声であった。しかし、その口調は決して責めているわけではなかった。純粋に疑問なのだろう。
アタシは、瓶を足元に置いた。
「……ま、そのとおりだよ。結果がこの傷だしね」
「はい」
「悪かったね」
「謝っていただく理由は、ありません。ですが、理由は、知りたいです」
夜風の音だけが、しばらく続いた。アタシは足元に置いた瓶を持ち上げ、一口飲んだ。
「エティ……アタシが南部にいたことは?」
「知っています。ご主人様から伺いました」
「なら、なんでこっち来たかは?」
「……いえ。ご主人様は教えてくださいませんでした」
その言葉に、おや、と思った。
(あの坊ちゃん、知ってることを、全部は話さないんだね)
「……仲間殺しさ」
言葉は、自分でも驚くほど、すんなりと出てきた。
そして、エティの顔をチラッと盗み見る。表情は変わらず無表情のままだった。
「……理由があるんですよね?」
無表情のままだと思っていたが、エティの声は、わずかに震えていた。
「まあな。一応」
そう言うと、自身の手にあった酒を一気に飲み干した。アタシは少し酔った勢いで話し始めた。
「昔は南で、パーティを組んでたんだ。何年も、背中を預け合った連中さ。最初は、いい仲間だった。それが、稼ぎが増えるにつれて、金で揉めるようになった。分け前の話だよ。些細なことが、少しずつ積み上がって——ある晩、剣を抜き合った」
「……」
「この仕事じゃ、よくある話さ。だから、その時は何も気にせずそいつらと戦った。自慢じゃないが、アタシは腕が立つからね。最後に立っていたのは、アタシだけだった」
アタシは話しながら夜空を眺める。雲は、まだ、星を隠したままだった。
「金も、装備も、全部、アタシのものになった。……だけど、それだけだ。それだけしか、残らなかった」
エティは、何も言わず、アタシの横顔を見ていた。
「斬った相手と、最期に目が合ったんだ。ソイツはパーティが始まった時から知り合いでな、陽気で、いいやつだった。だからこそ、アイツの死に様——目が妙に印象に残ったんだ」
「……目」
「そう目さ。恐怖だか、懇願だか、なんなのかわからねぇが、独特な目をしてた。そして、今日、あの獣の顔を見て、思い出しちまった。また、同じ目をしたやつを斬るのかって。そんなのは、もうごめんだった。それだけさ」
アタシは自嘲する様に一つため息をつき、遠くの空をより眺めた。相変わらず空は曇っている。
「結果、その甘さが、この背中の傷ってわけさ」
エティは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……私は、人を斬るのは、あまり好きではありません」
アタシは、思わず、横を向いた。
ギルドで、冒険者を一刀のもとに斬り伏せた子の口から出た言葉である。意外だった。けれど、エティは、冗談を言う子ではない。
「……そうかい」
「ご主人様は、敵を打ち倒すのは当然だと仰います。ですから、斬るべき相手なら、斬ります。……それでも、あまり好きではありません」
エティは、自分の両手を、ぼんやりと見下ろした。
「お師匠様の仲間の方も、ご主人様の理屈なら、仕方のないことだったのでは、ないでしょうか」
その声は、自分に言い聞かせるように、小さかった。
アタシは、その言葉に、少しだけ、肩の力が抜けかけた。
けれど、すぐに、抜けかけた力を、元に戻した。
敵を打ち倒すのは当然。
あの坊ちゃんの言いそうなことだ。七つのガキが口にするには、ずいぶんと乾いた理屈である。この子は、その理屈を、自分でも飲み込めずにいる。それでも、アタシのために、差し出してくれている。
「……あいつらは、敵じゃなかったんだよ」
「そうなのですか」
「そうさ。敵になるつもりなんざ、なかったんだ。……なっちまったがね」
エティは、少し考えるように、黙った。
夜風が、井戸の縁の草を揺らしている。
「私には、何が正しいのか、よく分かりません。人を斬ることが、いいことだとも、思いません」
「ああ」
「ですから、分かることだけ、お話しします」
エティは、膝の上の拳を、ほどいた。
「お師匠様は、その夜、生き残りました。生き残って、南を離れて、エバンスに来て、ギルドで私を見つけて、パーティを組んでくださいました」
「……」
「もし、あの夜、お師匠様が負けていたら。私は、今日のお師匠様に、お会いできませんでした」
一拍、置いて。
「それは、私にとっては……少し悲しいです」
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
アタシは、足元に転がる空き瓶を見つめたまま、何も言えなかった。
「それと。お師匠様は、回復魔術を昔、仲間に叩き込まれたものだと仰いました」
「……ああ。言ったね」
陽気な、あいつであった。
酒の席で、しつこく、何度も、何度も、アタシに教え込んだ魔術だった。覚えが悪いと笑われて、覚えたら、肩を叩かれた。
「その方が残したものは、今日、お師匠様の背中を治しました。私が受け継ぎ、治しました」
エティは、真っ直ぐに、こちらを見ていた。
「ですから、その方が教えたことは、無駄では、なかったと思います」
アタシは、思わず、息を漏らした。
笑ったのか、堪えたのか、自分でも分からなかった。
「……そうだな」
「はい」
エティは、真面目くさって、うなずく。
その横顔が、あんまり真剣なものだから、鼻の奥が、つんとした。
アイツらに許されたわけじゃない。許してくれる相手は、もうどこにもいない。
それでも——この子の言葉が胸のつかえを、ほんの少しだけ、軽くした気がした。
「……ありがとよ、エティ」
「どういたしまして」
アタシは、夜空を見上げた。先程まで、雲がかかって曇っていたが、その雲は少しずつ晴れ、明るい夜空が戻っていた。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
それをごまかすように、アタシは、わざと明るい声を出した。
「ああ、そうだ。話のついでに、いい話を聞かせてやるよ」
「いい話、ですか」
「アタシの夢さ」
夜空を見上げる。
「畑をやるんだよ。引退したら、どっか静かな村に、小さな土地を買って、畑を耕す。麦と、芋と、季節の野菜と。朝は鶏に起こされて、昼は日向で茶を飲んで、夜は何も考えずに眠る」
「……畑」
「そう、畑さ。金貨四十枚で、土地と家が買えるんだ。今は、三十八枚。あと二枚。半年もあれば、届く」
「半年」
「半年さ」
エティは、少し考えるように、首を傾げた。
「畑では、薬草は、育ちますか」
「薬草? ……ああ、育つさ。育て方さえ分かれば、大抵のものは育つ」
「そうですか」
「なんだい、興味があるのかい」
「はい。薬草は、毎回、森の奥まで取りに行かねばなりません。畑で育てれば、効率が、よいと思いました」
思わず、笑ってしまった。
効率、か。この子は、どこまでも、そうだ。
けれど、その「効率」のなかに、アタシの畑が入り込んでいる。そのことが、なんだか可笑しくて、嬉しかった。
「……エティ」
「はい」
「引退したら、アタシと来るかい。畑」
言ってから、自分でも驚いた。
パーティなんて、二度と組まないと決めていたはずなのだ。それなのに、口が、勝手に動いていた。
エティは、目を見開いて、アタシを見た。
そして、さっきよりも、ずっと長い間、黙っていた。
「……行っても、よいのですか」
「いいも悪いもない。誘ってるのは、アタシだ」
「……」
「嫌なら、断りな」
「嫌では、ありません」
エティは、小さく息を吸った。
「お師匠様の畑で、薬草係をやることは楽しそうです」
アタシは、吹き出した。
笑い声が、夜の裏庭に響く。エティは、不思議そうに首を傾げている。
「何が、おかしいのですか」
「いや。いいよ。そしたら、その時は薬草係を任せたよ」
「はい」
————————————
笑いが収まったころ、エティが、ぽつりと言った。
「ベルナデットさん。お伝えしたいことが、あります」
「なんだい」
「私の、名前のことです」
その声は、いつもより、少しだけ固かった。
「私が呼ばれている『エティ』というのは、愛称です」
「……へえ。エティってのは、愛称だったのかい」
「はい。ご主人様が、そう呼ぶので」
「私の名前は、エテルニティです」
「へぇー。ずいぶん変わった名前だね。ご両親はなんでそうつけたんだい?」
その問いにエティは、膝の上で、キュッと拳を握った。
「私は過去の記憶がないんです」
「え?」
「数ヶ月前まで、記憶がなく、ぼんやりとした状態で生きていました。なぜないのかそれもわからず。覚えているのはご主人様に助けていただいたことです」
「じゃあ」
「はい。エテルニティも、ご主人様がつけてくださいました」
「……そうだったのかい。すまんね」
「いえ」
アタシはその話を聞いて、少し考えた。
(エテルニティ……永遠か)
人につける様な名前ではなかった。あの坊ちゃんは、どういう意味で、そんな名をつけたのだろう。
「それより前の名前も、あったのかも、しれませんが。……思い出せないのです」
アタシは、言葉を探して、見つけられなかった。
この子は、自分の名前すら、人から貰ったものなのだ。
「なぜ、今、お話ししたのか。理由は、よく分かりません。ですが、ベルナデットさんには、知っておいていただきたいと、思いました」
胸の奥を、小さな何かが、きゅっと掴んだ。
「エテルニティ」
もう一度、その名を口にする。
「……長いね。でも、いい響きだ。覚えとく。ただ、アタシは、これからも、エティと呼ぶよ。そのほうが、呼びやすい」
「はい。そのほうが、しっくりきます」
「それと」
「はい」
「思い出したら、教えな。本当の名前も、アタシが覚えといてやる」
エティは、少しだけ目を見開いてから、ゆっくりとうなずいた。
「……はい。思い出せたら、ご主人様の次に、お伝えします」
「あの坊ちゃんの次かい」
「はい。ですが、必ずお伝えします」
夜風が、涼しかった。
気づけば、拳一つ分空けていたはずの距離が、いつの間にか、詰まっている。肩が、触れそうなほどの近さであった。
あと半年。金貨が、あと二枚。
半年なんて、すぐだ。そのとき、この子と並んで、畑の土を耕している光景も、悪くない。
そんな風に思える夜が、アタシには、ずいぶん久しぶりであった。
物語が面白いと感じていただけましたら、ブクマ・評価・感想を頂けると作者は大変うれしいです。次の投稿は翌朝の8時となります。




