29話 獣の瞳
「燃えろ、貫け——火の矢!」
アタシの掌から放たれた火の矢は、降り注ぐ赤い光の奔流へ、一直線に飛び込んだ。
ほんの一瞬だけ、赤と赤がぶつかり合う。
けれど、次の瞬間には、アタシの矢は、跡形もなく飲み込まれていた。
魔術や魔法は同じ威力でぶつかり合えば相殺される。そう考え、魔術を放ったが——。
(……やっぱり、駄目か)
魔術は技術、魔法は才能。
分かっていたことであった。それでも、真正面から叩き潰されると、奥歯が軋む。
「岩陰へ! 全員、動きな!」
叫んだときには、ヴァレリーたちはもう動いていた。
倒木と岩壁の隙間へ、四人が転がり込む。直後、さっきまで立っていた場所に、火炎の矢が突き刺さって、地面が爆ぜた。
土と熱風が、背中を叩く。
アタシはエティの襟首を掴んで、岩壁の窪みへ引きずり込んだ。
「ベルナデットさん。このままでは、全員が焼かれます」
「分かってる。だから、考えてる」
「近づけば、矢の数を減らせます。あの獣は、動きが鈍いようです」
エティの声は、もう落ち着きを取り戻していた。
さっきまで揺れていた剣先は、しっかりと前を向いている。
「……やれるのかい」
「やれます。道は、作っていただけますか」
アタシは、一瞬だけ、息を呑んだ。
それから、にやりと笑って、立ち上がった。
「任せな。あとは、アンタが突っ込め」
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アタシは、岩陰から身を乗り出して、掌を前へ突き出した。
「燃えろ、貫け——火の矢!」
一本、二本、三本。続けざまに放った炎が、獣の頭巾めがけて飛んでいく。
当たるとは、思っていなかった。目的は、ただ一つ。獣の注意を、アタシに引きつけることである。
獣の頭が、こちらへ向いた。
獣の頭上の赤い光が、一斉にアタシの方へ向かってくる。
「来い、化け物!」
その叫びと同時に、エティが、岩陰から飛び出した。
白銀の髪が、風を裂いて駆ける。
矢の一部は、駆けるエティにも降り注いだ。
それを剣で払い、身をひねってかわし、一直線に獣へ迫っていく。まるで、矢が彼女を避けているかのようだった。
「ヴァレリー! 右から援護しな!」
「分かってるよ!」
ヴァレリーの仲間たちが、弓で獣の側面へ牽制を放つ。
それを受けて獣が、わずかに体勢を崩した。
その隙を、エティは見逃さなかった。
地を蹴って、跳躍する。
白い刃が、獣の頭へ、真一文字に走った。
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ぱさり、と、布の裂ける音がした。
獣には、剣は当たらず、その手前で、頭巾を切り裂いたようであった。
汚れた頭巾が、真ん中から二つに割れて、ずるりと滑り落ちる。
その下から現れたものを見て、アタシは、思わず息を止めた。
それは……人間の顔であった。
涙と鼻水と泥に濡れて、頬はこけ、目は赤く腫れている。年も、性別も、判別がつかないほどに、ひどく歪んでいた。
首筋には、痛々しい縫い目のような跡が走っている。そこから先は、皮膚へ、無理やりつなぎ合わされていた。
その顔が、ゆっくりと、こちらを見た。
「……し……て……こ……」
口が、動いた。それは、先程まで聞こえていた鳴き声のような声であった。
その目から、涙が、頬を伝って、ぽたりと落ちた。
まるで、何かを懇願するかのようであった。
「……し……て……こ……ろ……し……て……」
頭のなかが、真っ白になった。
あの日の光景が、不意によみがえる。
アタシが、自分の手で斬った、仲間の顔。
その最期の目が、目の前の涙の目と、重なった。
(……あの日、アタシが斬った仲間も、最期に、こんな目をしていた)
「エティ! 待て!」
気がつけば、叫んでいた。
「そいつは、人間だ! 斬るんじゃない!」
エティの剣が、獣の首へ振り下ろされる、その寸前で止まった。
刃が、皮膚の手前で、ぴたりと静止している。
エティは飛び退いて、獣から離れた。
「……ベルナデットさん」
「斬るな。アタシが、いいと言うまで」
エティは、一瞬だけ、こちらを振り返った。
戸惑いの色が、その目に浮かんでいる。
「分かりません。ですが——ベルナデットさんが止めるなら」
彼女は、構えていた剣を引いた。
その、ほんの一瞬の隙が、全てであった。
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獣の頭上で、赤い光が、再び脈打った。
火炎の矢が、一斉に、エティの背中へ向かって放たれる。
彼女は剣を引いたまま、無防備な状態を、獣に晒している。
(——間に合え)
考えるよりも先に、体が動いていた。
地面を蹴って、跳ぶ。
空中でエティの上に覆いかぶさる。
次の瞬間、背中を、灼熱が貫いた。
「——ぐっ、ぁあああ!」
肉が焼ける香ばしい匂いと共に、激痛が襲ってくる。
皮が焼け、骨まで熱が届く。息が詰まって、視界が真っ白に染まった。
アタシは、自身の弱さのツケを、この傷で払うことになった。
「ベルナデットさん!」
エティの叫びが、遠くで聞こえる。
地面に転がったアタシの周りで、炎が爆ぜていた。
ヴァレリーの怒号と、剣戟の音。それも、水の底から聞こえるように、遠のいていく。
「……しっかり、してください」
誰かの手が、アタシの肩を掴んでいた。
小さな手である。震えていた。
「今、治します」
エティが、アタシの背中に右手をかざした。
目を閉じて、息を吸う。
「血を止め、肉を結べ——天の恵み!」
温かな光が、背中を包んだ。
焼けた肉が、ゆっくりと、塞がっていく。
引きつれは残らなかった。痛みは、じんと、遠くで疼くだけである。
「……早いね」
「はい。ベルナデットさんに、教えていただきましたので」
エティの声が、かすれていた。
目を開けると、彼女の顔が、すぐ近くにあった。無表情だったはずの瞳が、潤んでいる。
「お師匠様」
小さな声で、そう呼ばれた。
「……ん?」
「お師匠様。ご無事で、よかった」
アタシは、一瞬、耳を疑った。
それから、胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。
「……ああ。心配、かけたね」
「いえ。当然の、ことです」
エティは、そう言って、いつもの無表情に戻ろうとした。
けれど、その唇の端が、ほんのわずかに、震えていた。
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ふと、炎の音が、止んでいることに気づいた。
顔を上げると、獣は、動きを止めていた。
赤い光は、らんらんと輝いている。しかし、その動きはピタリと止んでいた。
戦っていたヴァレリーたちもまた、動けずにいた。
——なぜなら。
その醜い獣の頭巾の裂けた顔が、じっと、こちらを見ていた。
その顔からは、先程まであったはずの涙が消え、感情の色まで抜け落ちていた。
「……し……て」
かすれた声が、風に溶けた。
それから、獣は、ゆっくりと背を向けた。
その姿はまるで、誰かに呼び出されたかのようであった。
重い足音が、北の方へ、遠ざかっていく。
「追わないでください、ヴァレリーさん」
エティが、静かに言った。
「あれは、まだ、人を殺せる力を持っています」
「……ああ。分かってる」
ヴァレリーは、悔しそうに歯を食いしばって、剣を下ろした。
仲間たちは、へたり込んでいる。誰も、死んではいなかった。それだけが、救いだった。
アタシは、エティに支えられながら、体を起こした。
北の空を、じっと見つめる。
あの、涙の目が、頭から離れなかった。
(……なんで、あいつは、急に引いたんだ)
あれだけの力があって、まだ余力を残していたはずである。
それなのに、獣は、まるで誰かに呼び出されたかのように、あっさりと去っていった。
背筋に、冷たいものが走った。
けれど、アタシは、それ以上は、考えないことにした。
背中の傷の疼きだけが、生きていることを、教えてくれていた。
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その頃、獣は大森林の先へと向かっていた。
もはや、獣は自分が何者だったのかを思い出せなかった。
ただあるのは強烈な希死念慮と全てを破壊したいという願望のみであった。
そんな獣の歩みを止めたのは一人の美しい少男だった。
「まぁ、結果は上々だったかな? お疲れ様」
その少男は、澄んだ高い声色で、獣を労う。しかし、獣は恐怖で動けなかった。
なぜなら、自分が何者かは忘れてしまったが、それでも獣は覚えていることがあった。それは、だれが自分をこんな姿にしたか。そして、天使のような姿をした少男が悪魔より恐ろしい生き物であることに。
少男はその姿に満足そうに頷いていた。
「いやー。エティには内緒で作ってて正解だったよ。おかげで、あんなに素晴らしいイベントになった」
少男にとっては人の命を弄ぶことと、自分の目的を達成させることは同じ延長にあるのだろう。
少男はきらきらとした顔で語りかける。
「ただ、人間を素体にするのは難しいね。脳みそはいじってるから自殺とかできないけど、意志が強いのも困るなぁ」
少男は笑いながら、獣へ目線を向ける。
「まぁ、それはあとだね。じゃあ行くよ」
そう言うと少男は振り返り、歩き出した。獣はその後を付き従うように歩き出した。
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