28話 人ならざる獣
地鳴りは、あっという間に近づいてきた。
アタシは、とっさにエティの腕を掴んで、近くの岩壁の窪みへ引きずり込んだ。
直後に、木々の間から、黒い影が雪崩のようになだれ込んでくる。
ブラッドウルフ、ゴブリン、オーク、大蛇、それ以外にも多数の大型の魔獣たち。
種類も縄張りもばらばらの魔物たちが、同じ方向へ向かって、必死の形相で駆けていくのだ。
(……どういうことだい)
獲物と捕食者——いや、全ての生き物が、同じ方向へ逃げている。
そんな光景は、アタシが冒険者になって二十年、一度も見たことがなかった。
「ベルナデットさん。こちらを、襲ってきません」
「ああ。襲う気がないんだよ。あれは、逃げてるんだ」
「逃げて……何から、ですか」
「分からない。けど——」
言いかけたとき、一頭のブラッドウルフが、窪みの前で足をもつれさせた。
牙を剥いて、こちらへ飛びかかってくる。
「燃えろ、貫け——火の矢」
アタシの掌から放たれた炎が、獣の胴を貫いた。
焼けた毛の臭いが立ちのぼる。その脇を、エティの剣が、もう一頭の喉を断っていた。
群れは、そのまま、アタシたちには目もくれずに走り去っていく。
土煙が、ゆっくりと晴れていった。
————————————
「ベルナデット!」
聞き覚えのある、乱暴な声が飛んできた。
木々の間から、鎧を鳴らして駆けてくる女がいる。ヴァレリーである。その後ろに、仲間の三人が続いていた。そのうちの一人が、別の仲間に肩を借りて、片足を引きずっている。
「アンタ、まさか、ここにいたのか」
「アンタこそ。北を回るんじゃなかったのかい」
「こっちが聞きたいよ。北は、とても回れたもんじゃなかった」
ヴァレリーは、荒い息を吐きながら、アタシの前に膝をついた。
顔は、土と汗にまみれている。いつも憎まれ口を叩いている女が、今日は、冗談を言う余裕すらなさそうだった。
それほどまでの何かがあったのだろう。
「何があった?ヴァレリー?」
「北の洞窟の辺りに、人影がうろついてた。最初は、冒険者かと思ったんだ。でも、近づいたら、全然違った。……気色の悪い化け物がいたんだ」
「気色の悪い……化け物?」
「ああ。魔物は、あいつから逃げてるんだ。群れごと、こっちへな」
化け物。
その言葉が、アタシの頭のなかで、冷たく響いた。
そんな生き物がこの森に現れるのはまずい。ここは街にも近い。そんなものが街に近づけば、被害が出てしまう。
「悪かったね。南にしとけって言った本人が、こうして転がり込んできちまって」
「いいさ。それより、その足」
「ああ。行きがけに魔物に噛まれたんだ。……チッ。マズイな」
見ると、仲間の一人の足から、血がだらだらと流れていた。
手当てをしなければ、腐っていって立てなくなるだろう。
「エティ」
「はい」
「やってみな。昨日、教えたやつさ」
エティは、一瞬だけ、目を見開いた。
それから、小さくうなずいて、負傷した女の前に進み出た。
「おい!」
急に近寄ったからか、ヴァレリーは警戒を強めた。
「安心しな。悪いことはしないよ」
アタシは、ヴァレリーを手で制してから、エティへと話しかけた。
「人に使うときは、相手の傷に掌をかざすんだよ。自分のときと同じ要領だ」
「はい」
エティは、女の脹脛に右手をかざして、静かに息を吸った。
「血を止め、肉を結べ——天の恵み」
淡い光が灯り、噛み傷が、見る間に塞がっていく。
ヴァレリーの仲間たちが、一斉にどよめいた。
「……白銀狼が、人を治した?」
「嘘だろ。あの人斬りが」
口々に呟く声を、エティは、聞こえていないかのように、静かに受け流していた。
治療を受けた女は、自分の足を何度も確かめてから、おずおずと頭を下げた。
「あの……ありがとう、ございます」
エティが、ぴたりと動きを止めた。
それから、アタシの方を、ゆっくりと振り返る。
「こういうとき、何と返せばよいのでしょうか」
「どういたしまして、でいいんだよ」
「……どういたしまして」
エティの言葉や様子を見て、ヴァレリーが、呆気に取られた顔で見つめていた。
多分、彼女からしたら、天地がひっくり返る衝撃だっただろう。
その視線に気づいたのか、エティは、少しだけ首を傾げた。
そのとき、風が、ぴたりと止んだ。
鳥の声も、虫の声も消えていた。
森の中にいる全ての生き物が息を潜めている。
そう感じるほど静かな瞬間が訪れた。
「……なんだ……静か、すぎる」
ヴァレリーが、剣の柄に手をかけた。
遠くで、何かが木々をなぎ倒す音がした。重く、鈍く、ゆっくりと音は近づいてくる。
「全員、構えな」
アタシが低く言うと、皆が、一斉に武器を抜いた。
その瞬間、茂みが割れて、巨大な影が姿を現した。
仲間の一人が、上ずった声を漏らした。
「な、なんじゃ……ありゃ」
ソレは四足の獣であった。
けれど、その姿は、どこか不気味で、あり得ないものであった。
体毛は極端に薄く、ピンク色の皮膚が透けて見えていた。皮膚も獣特有の皺の寄ったものではなく、まるで人間のようになめらかなものであった。そして、四つ足の獣にしては、背中が丸まりすぎていた。
まるで、二足歩行だった生き物を無理やり四足にしたかのような歪な生き物であった。
手足には、胴体とは明らかに異質な、別の動物や魔物の手足がつなぎ合わされていた。前後の脚とは別に、胴から五本の、人間の手らしきものが生えている。前脚と思われる足の先には、細く長い爪が五本、並んでいる。
そして、頭は、汚れた頭巾で覆われていた。
頭巾の下から、湿った呼吸の音が、ひゅう、ひゅう、と漏れている。
(……なんだい、あれは)
背中の皮膚が、粟立った。
獣のはずなのに、どうにも、獣には見えなかった。あの見た目はまるで——。
——————人間を無理やり獣にしたみたいじゃないか。
「……あれだ。北にいたのは、あいつだ。魔物、じゃない。あんなもん、見たことがない」
ヴァレリーの声が、かすれていた。
仲間たちは、顔色を失って、一歩、後ずさっている。
その横で、エティが、剣を構えたまま、動かなかった。
「……あれは、何ですか」
声が、わずかに揺れていた。
剣先が、小さく震えている。
無表情だったはずの横顔に、はっきりとした動揺の色が浮かんでいる。
アタシが知る限り、この子が、恐れを見せたのは、初めてだった。
「エティ。下がりな。アタシの後ろだ」
「……はい」
その瞬間であった。
獣が、頭巾の下から、低く唸った。
「……し……て……こ……」
獣から声のようなものが聞こえてくる。
いや、それは間違いなく、人間の声であった。
(…………しゃべれるのか)
その瞬間、空気が、熱を帯びる。
獣の呟きは、詠唱ではなかった。それなのに、獣の周りには魔力が満ち始めている。
そして、獣の頭上に、赤い光が、一つ、二つと、浮かび上がっていく。
それは炎の矢であった。
「魔物が、魔術を使うなんて……」
「いや、ありゃ。魔術じゃない。……アレは魔法だ」
ヴァレリーの呟きにアタシが反応する。
炎の矢は、次々と数を増やしていく。十、二十、三十。
空が、赤く染まる。
アタシは、全身から血の気が引くのを感じた。
詠唱もなく、これだけの数を生み出せる。
魔法を持たない人間に、あれを防ぐ手立てなど、あるはずがなかった。
「全員、伏せろ!」
叫ぶと同時に、炎の矢が、一斉に降り注いだ。
アタシは、考えるより先に、体が動いていた。
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