27話 渡り鳥は狼の歪さを知る
夜が明けると、森の底にも、うっすらと光が差していた。
見張りは、途中でエティと交代した。
眠らなくても平気だと言っていたはずの彼女は、交代してもなお、毛布のなかで小さく寝息を立てていて、アタシが声をかけるまで起きなかった。
その寝姿にどこか安心感を感じる。
(……こういう姿は年相応の幼さなんだね)
アタシはそんな姿を見ながら、一人もの想いにふけっていった。
朝飯は、昨夜の残りのスープにビスキュイを、つけただけの簡単なものである。
エティは、それでも、椀に口をつけて、小さく息を吐いていた。
「さて。約束どおり、やるよ」
アタシは、食器を沢で洗い流して、エティの正面に腰を下ろした。
「はい。お願いします」
「まず、左腕を見せな。」
「……左腕、ですか」
「ブラッドウルフにやられたところだよ。昨日、まとめて治すとか言ってたろう。指の傷は塞いでたが、腕はそのままじゃないか」
エティは、一拍遅れて、自分の左腕を見下ろした。
袖をまくると、昨日の爪痕は、まだ赤い線を引いたまま、わずかに腫れていた。
「……忘れていました」
「忘れてた、って。はぁー。アンタねぇ」
アタシは、そっとその腕を取って、傷の周りに指を当てた。
傷は少し熱くなっている。皮膚の下に、嫌な熱がこもっているのだろう。
「ほら見な。熱を持ってる。放っておけば、膿んで、腕ごと駄目になるよ」
「痛みは、ありません」
「それが問題なんだよ」
思わず、声が低くなった。
この子の自分を大切にしない態度につい感情的になってしまった。
エティは、不思議そうに、こちらを見上げている。
「はぁー。聞きな。」
アタシは、足元の土に、小枝で線を引いた。
「いいかい。詠唱ってのは、基本的にイメージを作るためのものだ。そして、そのためには三つの部品でできてる」
土の上に、三つの丸を描く。
「一つ目は、呼びかけ。これはその魔術によって何を目的にしているかをイメージする工程だ。二つ目は、何をしてほしいか。これは、その魔術がどんな作用を働いて欲しいのかをイメージさせる。三つ目は、魔術の名前。これはキーワードさ。名前を唱えて、初めて魔術が動き出す」
「……三つ」
「アンタのは、こうだ」
アタシは、昨夜聞いた詠唱を、そのまま口に出した。
「穏やかなる天の御手よ。——これが呼びかけ。傷つきし身に慈悲を垂れ。——これも呼びかけだね。そして、血を止め、肉を結び、痛みを遠ざけたまえ。——これが、してほしいこと。最後に、天の恵み」
「はい。そのとおりです」
「呼びかけは、飾りさ。全部いらない。頭の中で、イメージを作ればいらないもんだ。削っていいんだ。肝心なのは、二つ目の、何をしてほしいか。ここだけ、きっちり残す。ここはしっかりとイメージしないと結果に影響するからね」
土の上の丸を、一つ目と二つ目に斜線を引いて、消してみせる。
「血を止め、肉を結べ。——この二つだけ。それから名前。『血を止め、肉を結べ。天の恵み』。これで、アタシの回復と同じになる」
そう言うと、エティは少しぽかんとした表情を浮かべる。
「……短く、しすぎでは。短くすると、うまく発動しません」
「そりゃ、慣れてない奴がいきなり削ったらそうなるさ。アタシも、昔は散々失敗した。慣れるまで、中身を頭のなかで思い浮かべるんだ。傷が塞がる様子を、ちゃんと絵で想像する。詠唱は、そのきっかけに過ぎないだから」
エティは、じっと土の上の図を見つめている。
しばらくして、静かに口を開いた。
「……ご主人様は、省略されているのですか?」
「……ありゃ、別レベルだ。頭の中にイメージが完全にできあがっちまってるタイプだ。ああいうタイプは魔術名だけで、効力を発揮するんだ」
「……そうなのですね」
そう言うと、目を閉じて、さっきよりも集中するような姿勢になっていた。
(あの少男の名前を出したらすぐかい。ずいぶん。気に入ってるんだね)
正直、アレに使えるのは理解ができない。だが、それでやってくれるなら今はそれでよかった。
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「それと、もう一つ。『痛みを遠ざけたまえ』ってところは、削りな」
アタシが言うと、エティは、首を傾げた。
「痛みは、ないほうが、効率がよいのでは」
「効率の問題じゃないんだよ」
「治るのに、痛みは必要ありません。痛みを感じなければ、戦闘中も動けます」
「動けるのは確かさ。でもね、エティ。痛みってのは、体の警報なんだ」
アタシは、自分の胸を指で叩いた。
「どこが、どれだけ壊れてるか。それを教えてくれるのが、痛みだ。それを消しちまったら、致命傷でも気づかないまま動き続けて、気づいたときには手遅れになる」
「……」
「今、アンタの腕が膿みかけてるのに、アンタは痛くもなんともない。こりゃ、慣れたのか、詠唱のせいか知らないが——」
「傷は、治せば済みます」
エティが、静かに言った。その言葉にアタシは呆気に取られる。
「死ななければ、問題ありません」
その瞬間、アタシのなかで、何かが弾けた。
その言葉のみと言うわけではない。今までの彼女の態度に不満があって、今の発言で火がついたわけだ。
「問題ありません、じゃないんだよ!」
森の木々に、怒鳴り声が反響した。
鳥が、数羽、枝から飛び立つ。
エティが、はっと目を見開いた。
こんなに、大きく表情が動いたのは、初めて見た。
「……なぜ、怒っているのですか」
その問いが、あまりに真っ直ぐで、アタシは、振り上げかけた拳をゆっくりと下ろした。
怒鳴りたい気持ちは、まだ胸に残っていた。けれど、この子は、叱られている理由が本当に分からないのだ。
それは何よりも難しいことであった。
(なんで……この子はここまで、自分を顧みられないんだろうね)
まるで,自分の命より大切なものがあるかのように教育されているかのようであった。
「……悪かった。怒鳴って」
「いえ」
「アンタが、自分を道具みたいに扱うからさ」
アタシは、息を整えて、言葉を選んだ。
「道具は、壊れたら替えがきく。でも、アンタは違う。アンタは人間だ。人間に替えなんてないんだ。少なくとも、アタシは、そう思ってる」
「……替え……」
「そう。だから、傷を軽く見るな。痛いときは、痛いって言いな。それだけでいい。そうして、自分のマズイ部分を見つけていかないと。いつか本当にダメになっちまう」
エティは、少しの間、黙っていた。
それから、左腕の傷を見下ろして、小さく、本当に小さく、口を開いた。
「……よく、分かりません」
「いいさ。今は、分からなくても」
アタシは、立ち上がって、彼女の前に手を差し伸べた。
「さあ。左腕、やってみな。さっきの短いやつで」
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エティは、左腕に右の掌をかざした。
目を閉じて、息を吸い込む。
「……血を止め、肉を結べ——天の恵み」
掌から、光が漏れた。
けれど、それは、すぐにちらついて、消えてしまった。
「……発動、しませんでした」
「想像が足りないんだよ。傷が塞がる様子を、頭のなかで、ちゃんと想像してごらん」
「はい」
もう一度。
エティは、深く息を吸った。まぶたの裏に、何かを描くように、眉間に力がこもる。
「血を止め、肉を結べ——天の恵み」
その瞬間、今度は、光がはっきりと灯った。
傷口が、見る間に塞がっていく。昨日のような、赤い引きつれは残らなかった。
ほんの数呼吸のうちに、白い腕には、うっすらとした線だけが残っていた。
エティは、自分の腕を、じっと見つめた。
「……できました」
「ああ、上出来だ。綺麗に治ったよ」
「はい。それと」
彼女は、塞がった傷のあたりを、そっと右手で撫でた。
「少し、じんと、します」
それは、痛みを遠ざける詠唱を外して、初めて感じた、本物の感覚なのだろう。
アタシは、笑って、うなずいた。
「それが、生きてるってことさ」
エティは、ほんの少しだけ、目を細めた。
そして、静かに言った。
「……ありがとうございます、ベルナデットさん」
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野営の跡を片付けて、さらに奥地へ進んだ。
昼を過ぎたころになって、アタシは、妙なことに気づいた。
「……静かだね」
「はい」
森が、静かすぎるのだ。
鳥の声も、獣の気配もない。昨日は、すぐ近くまで寄ってきたはずの魔物が、今日は、気配すらなかった。
ヴァレリーの声が、頭のなかでよみがえる。
——魔物の群れの動きが、ここ半月でおかしくなってる。
「エティ。離れるんじゃないよ」
「はい」
木々の向こうで、風が、ぴたりと止んだ。
遠くの方から、地鳴りのような、低い響きが近づいてくる。
何かが、大勢で、こちらに向かって走ってくる音であった。
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