26話 渡り鳥は狼を思う
街道から離れ、南側の獣道に入ってからは、森の空気が目に見えて変わった。
木々は高く、枝葉が頭上を覆って、昼でも薄暗い。足元には苔むした根が這い、油断すれば足を取られる。
いつもの森も薄暗くはあるが、今日はそれ以上に、空気が重く感じられた。
(……こりゃ、ヴァレリーの忠告は的を射ていたかね)
アタシたちは、その忠告に従って、奥地の南側を進んでいた。
北側よりは、いくらか安全なはずである。それでも、魔物が出ないわけではなかった。
「待ちな」
アタシが手を上げると、背後の足音が止まった。
茂みの向こうで、何かが動いている。数は、五、六匹。低い唸り声が聞こえた。
「ブラッドウルフだね。群れで動く奴らだ。アタシが前に出る。アンタは、後ろから——」
言い終える前に、エティはもう動いていた。
茂みを飛び出してきた一匹の喉を、一太刀で裂く。返す刃で二匹目の脚を断ち、三匹目の牙を紙一重でかわして、そのまま心臓へ剣を突き込んだ。
アタシの出る幕は、ほとんどなかった。
それでも、最後の一匹が横から飛びかかってきたとき、エティの左腕に、浅い爪痕が走った。
「……大丈夫かい? 白銀狼」
「……大丈夫です」
彼女は、血の滴る腕を見もしなかった。
ただ、剣についた血を一振りで払って、何事もなかったかのように歩き出そうとする。
「待ちな。止血くらいしな」
「浅い傷ですので。後で、まとめて治します」
「まとめて、って」
言いかけて、アタシは口をつぐんだ。
昨日、森の入口で見た光景が頭をよぎったのだ。二往復して、二度傷を負って、そのたびに自分で塞ぐ。この子にとって、傷とは、そういうものなのだろう。
(……この子、どこか歪なんだよね)
彼女を見ていると、疑問ばかりが湧いてくる。年に見合わない膂力に、自分の傷への異様な鈍さ。
まるで、何か大事な部分が欠け落ちているかのような歪さに、思わず首を傾げた。
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野営地は、小さな沢のそばに決めた。
水が近く、背後に岩壁があって、奇襲を受けにくい。いつも、アタシが選ぶような場所である。
「ここがいいのですか?」
「そうさ。ここなら守りやすいだろ?野営で大事なのは安全さだ」
「安全さ?」
「そ。ここなら警戒もしやすく、水場も近い。もし魔物が来ても、不意を突かれる心配が少ない。こういうことを考えて、野営地を決めるのさ」
「なるほど。勉強になります」
そう言うと、エティは見よう見まねで、手際よく野営の準備を進めていく。
そして——
「……ベルナデットさん。少し薬草を取ってきます」
「あいよ」
エティは、そう言って、沢の上流へ入っていった。
その背中を見送ってから、アタシは枯れ枝を集めて、火を起こした。
しばらくして、戻ってきた彼女の手を見て、アタシは眉をひそめた。
「……その手」
「薬草の採取で、少し切れました」
「少しじゃないだろう。血が出てるよ」
エティの両手の指先は、棘のある蔓草で、細かい傷だらけになっていた。
素手で、あの草を掴んだのだろう。
「手袋は?」
「持っていません。必要ありませんでしたので」
「必要ない、ってアンタね」
アタシは、思わず溜息をついた。
この子は、痛くないのだろうか。それとも、痛いのが当たり前だと思っているのだろうか。
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鍋に水を張り、干し肉を細かく割って入れる。そこに、乾燥させた根菜と塩を加えて、火にかけた。
湯気が立ち上り、肉の脂が溶けて、ほのかに香りが広がっていく。
「何を、作っているのですか」
焚き火の向こうで、毛布を膝に載せたエティが、じっと鍋を見つめていた。
「スープだよ。干し肉を戻して、野菜を煮るだけさ。大したもんじゃない」
「スープ……」
木の椀に注いで、差し出す。
エティは、両手でそれを受け取った。湯気を顔に受けて、不思議そうに目を細める。
「熱いから、気をつけな」
「はい」
一口、啜った。
その瞬間、エティの動きが、ぴたりと止まった。
「……温かい」
「そりゃそうだろう。煮たんだから」
「はい。そう、ですね」
何がおかしいのか、自分でも分からなかったのだろう。エティは、またゆっくりと、椀に口をつけた。
一口、また一口と、確かめるように飲んでいく。そして、最後の一滴まで飲み干してから、空になった椀を、静かに見下ろした。
「……おかわりは、ありますか」
アタシは、一瞬、聞き違えたかと思った。
「ある。たんとあるさ」
「ありがとうございます。栄養を摂取できるなら、効率がよいので」
「はいはい、効率ね」
口ではそう言いながら、アタシは、込み上げてくる笑いを堪えられなかった。
二杯目の椀を渡すと、エティは、また両手でそれを受け取った。さっきよりも、少しだけ、嬉しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
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食事を終えて、焚き火の前で、アタシは自分の左腕を見下ろした。
ブラッドウルフの乱戦のとき、茂みの枝で引っ掻いたらしい。袖が裂けて、細い切り傷が、血を滲ませていた。
「癒せ——天の恵み」
小さく唱えると、掌から淡い光が漏れて、傷口が見る間に塞がっていく。
ほんの一呼吸の間であった。
視線を感じて顔を上げると、エティが、じっとこちらを見つめていた。
「……今の詠唱は、ずいぶん短いのですね」
「ああ。慣れさ」
「魔法を、お持ちなのですか」
「いいや。アタシに魔法はないよ。ただの魔術さ。魔術は、鍛えれば誰でも使えるからね」
アタシは、袖をまくり直しながら続けた。
「昔、仲間に叩き込まれたのさ。回復役ってのは、どのパーティでも要るもんだからね」
口にしてから、言わなくてよかったことまで、言ってしまったと思った。
焚き火の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「……そう、ですか」
エティは、それ以上は何も聞かなかった。
その代わり、自分の指先の傷を見下ろして、静かに口を開いた。
「私も、傷を治します」
「ああ、そうしな」
エティは、右の掌を左手にかざした。
長い詠唱が、始まる。
「穏やかなる天の御手よ、傷つきし身に慈悲を垂れ、血を止め、肉を結び、痛みを遠ざけたまえ——」
アタシは、無意識のうちに呼吸を数えていた。
一、二、三。まだ終わらない。五、六、七。
「——天の恵み」
ようやく、淡い光が灯る。
詠唱が終わるまでに、アタシは、息を十回数えた。
(……敵が目の前にいたら、その間に、三度は斬られるだろうね)
傷は、塞がった。けれど、赤く引きつれて、見るからに痛々しい。
エティは、それを気にした様子もなく、毛布を引き寄せた。
「詠唱が、ずいぶんと長いね」
「はい。短くすると、うまく発動しませんので」
「誰かに、教わったのかい」
「いいえ。自分で、調べました。ご主人様もそれが良いとおっしゃっていたので」
淡々とした声であった。
「ふーん」
アタシは、焚き火の炎に視線を落とした。
(……独学、ね。しかも、それを勧めたのがあの少男だとは)
これはまた、奇妙な話である。
あそこまで魔術の腕が立つ人間が、この子には教えない?
そんなことが、あり得るのだろうか。
(教えるのが下手とかかね?……なんかしっくりはこないがね)
そう、まさに「歪」なのだ。
本来なら、最優先で教えるべきことを教えず、あえて放置している——そんなふうに感じられた。
気づけば、その名前が自然と口をついて出ていた。
「エティ」
「はい」
「アンタの詠唱、見てられないよ。明日、アタシが教えてやる」
エティは、少し首を傾げた。
「……それは、効率が、よくなるのですか」
「ああ、うんと良くなるさ」
返事の前に、ほんの一拍だけ、間があった。
「分かりました。お願いします」
それだけを言って、エティは、毛布を肩までかけた。
背中を岩壁に預けて、膝を抱えるようにして、小さく丸まる。毛布の端を、小さな指が、ぎゅっと握りしめていた。
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焚き火の火が、少しずつ小さくなっていく。
最初の見張りは、アタシが引き受けた。
夜の森は、昼間よりもずっと音が多い。
梢が擦れる音、遠くで鳴く夜鳥の声、沢の水音。そのすべてを聞き分けながら、アタシは、さっきの出来事を思い返していた。
——ベルナデットさんは、お金のためなら、何でもできる方なんですね?
柔らかな声が、耳の奥でよみがえる。
毛布のこと、人死のこと、南部のこと。あの少男は、世間話のような顔で、アタシの底を、ひとつずつ確かめていった。
(何を知りたがってたんだい、あの子は)
考えても、答えは出ない。
ただ、あの琥珀色の目だけは、焼きついて離れなかった。
嫌な予感がする。
これは長い冒険者生活の中で身につけた感があの子供を危険視している。
人に言えば考えすぎだと笑われるだろう。だが、この感のおかげで、なん度も命を救われてきた。
だからこそ、疑わずにはいられなかった。
ふと、視線を横に向ける。
エティは、毛布にくるまって、眠っていた。
木にもたれて休めば十分だと言っていたはずなのに、いつの間にか、小さな寝息を立てている。
その寝顔は、昼間の無表情が嘘のように、年相応のあどけなさが残る表情だった。
(この子は、どんなところで、何を食って、育ってきたんだか)
火に薪を一本くべて、アタシは、背筋を伸ばした。
夜は、まだ長い。
あと半年で、アタシは、この街を出るつもりだった。
それまでに、この子に、どれだけのものを教えてやれるだろうか。
(ふっ……何を考えてるんだか、アタシは)
そんなことを考えている自分が、少しだけ、不思議であった。
多分、この子の純粋さを眩しく感じたのだろう。
だから、だろう。そんなことを考えていたからアタシはあることを見逃していた。
それは、草むらから覗く小さな瞳——ネズミの瞳に。
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