23話 渡り鳥は狼を知る
白銀狼を追いかけて入った大森林は、静かだった。
白銀狼に会う前にこなそうと思ったゴブリンの駆除は思ったよりも大したことなく、すぐ片付いてしまった。耳を皮袋に詰めて立ち上がったとき、奥の方から、かすかに枝を踏む音が聞こえた。
木々の間から、小柄な人影が現れる。
銀色の髪に、返り血の乾いた跡。背中には大きな籠を背負っている。
「……」
白銀狼であった。
「大森林の奥に入ってたのかい」
「はい。用がありましたので」
籠の中には、見慣れない草が詰め込まれていた。薬草の類だろうが、アタシにも、いったい何の草かは分からなかった。
それよりも気になったのは、彼女の左腕である。外套の袖が裂けて、深い傷が走っていた。
「ちょっと、その傷」
「大丈夫です」
そう言うなり、彼女は右の掌を傷にかざした。長い詠唱の末、淡い光が浮かんで、傷口がゆっくりと塞がっていく。あの日、ギルドで少男が見せたのと同じ、「天の恵み」であった。
けれど、あの時のような滑らかさはなかった。塞がりきった傷口は赤く引きつれていて、見るからに痛々しい。それこそ、アタシがよく知る天の恵みの回復あとであった。
それなのに、白銀狼は眉ひとつ動かさなかった。
「休んでいきな。顔色が悪いよ」
「まだ日が高いので、もう一度、行ってきます」
「……もう一度? 今、戻ってきたばかりだろう」
「はい。日が落ちるまでに、もう一往復できますので」
アタシは、言葉を失った。
一往復で、あれだけの傷を負っているのだ。それをもう一度繰り返す。しかも、本人は当たり前のことのように話している。
小さな背中が、再び森の奥へと消えていく。
その背を見送りながら、アタシの頭には、この間聞いたばかりの話がよみがえっていた。
——欲をかいて、奥まで入ったんだとさ。
あの時は、他人事として聞き流していた。けれど、あの子は、毎日その奥へ入っているのだ。
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それから、アタシは森の入口に残った。
ゴブリンの耳は皮袋に収めてあり、依頼はもう終わっている。ギルドへ戻って報告すれば今日の仕事は片付くのだが、どうにも足が動かなかった。
倒木に腰を下ろして、森の奥を眺める。木々の隙間から差し込む光が、少しずつ傾いて赤みを帯びていった。
(何をやってるんだか)
自分に呆れながらも、立ち去る気にはなれなかった。
やがて日が落ちかけた頃、奥から再び、枝を踏む音が近づいてきた。
白銀狼であった。
籠は、先ほどよりも重そうに膨らんでいる。外套には新しい裂け目ができていて、今度は右の脇腹から血が滲んでいた。
「……まだ、いらしたんですか」
「アンタを待ってたんだよ」
白銀狼は少しだけ首を傾げた。
それから、先ほどと同じように掌をかざして傷を塞ぐ。長い詠唱が終わるまで、アタシは黙って待っていた。
(本当に、独学なんだね)
傷口が引きつれるように塞がったのを見届けて、アタシは口を開いた。
「さっきのこと、聞いてもいいかい」
「何でしょうか」
「ギルドで、冒険者を斬ったろう。……何とも思ってないのかい」
白銀狼は、不思議そうにまばたきをした。
「先に剣を抜いたのは、あちらです。規則に則った対応をしました」
「そうじゃなくてさ。人が死んだんだよ」
「……はい」
少しの時間があってから、返事があった。どうやら、罪悪感自体はあるようだ。
「……あの人が、剣を抜いた理由が、よく分かりません。私は、ただ話しかけられても、返事をしなかっただけです。それは、悪いことなのでしょうか」
アタシは、思わず息を吐いた。
「悪くはないさ。けど、人にはね、意地ってものがある。自分を無視されりゃ、面白くない。ましてや、荒くれ者の巣窟で舐められたと思えば、剣も抜く。理屈じゃないんだ」
「……そう、なんですか」
白銀狼は、少しだけ首を傾げた。本当に、分からないといった顔であった。
その顔を見て、アタシは悟った。この子は、悪意があって人を怒らせているのではない。ただ、人の機微というものを、知らないのだ。
そ れは、まるで檻の中にでも閉じ込められて育ったような、と考えて、すぐにその思考を打ち消した。そんなはずはない。考えたところで、答えは出ない。
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森を抜けて街道に出る頃には、空はもう暗くなっていた。
遠くに、エバンスの街の灯りがぼんやりと見えている。その方角へ、白銀狼は一人で歩き出していた。
「待ちな」
呼び止めると、彼女は足を止めて、こちらを振り返った。
「何でしょうか」
「アンタ、今日も奥に二往復したんだろう。そのうえ、一晩休んだらまた行く気かい」
「はい。そのつもりです」
「いつか、死ぬよ」
我ながら、ずいぶん直截な言い方だと思った。けれど、他にいい言葉が見つからなかった。
「死んだ奴の話を、アタシはもう数えきれないくらい聞いてきた。腕のいい奴ほど、欲をかいて奥へ入る。アンタみたいに」
「欲では、ありません」
白銀狼は、きっぱりと言った。
「必要なものが、大森林の奥にあります。それを取りに行っているだけです」
「薬草かい? 何に使うんだい」
「それは、お話しできません」
それ以上は、何を聞いても答えそうになかった。
だから、アタシは別の手を使うことにした。懐から、一枚の依頼票を取り出して、彼女の前に広げて見せる。
「これを見な」
「……大森林、深部、素材採取。報酬は、銀貨三枚」
「そう。ただし、二名以上限定だ。依頼者が出してる条件さ。奥地の素材採取は、報酬が高いほど、こういう条件が付くんだよ」
白銀狼の目が、わずかに動いた。
「一人じゃ受けられない。でも、二人なら受けられる。しかも、二人なら夜営もできる。日が暮れても、奥に長くいられる。往復の手間も省けるよ」
「夜営……」
「今のアンタのやり方は、同じ道を何度も往復して、そのたびに傷を増やしてる。そんなの、効率がいいとは言えないだろう」
しばらく、白銀狼は黙っていた。
夕闇の中で、小さな肩がじっと考え込んでいる。
「……私は、一人で問題ありません」
「そうかい。でも、アンタが探してるもの、一日に持ち帰れる量には限りがあるだろう。二人で行けば、倍になる」
その言葉に、彼女の表情が、初めて少しだけ変わった。
「……効率が、よくなるのであれば」
けれど、白銀狼はすぐには頷かなかった。
「アナタが私と組む理由があるようには、見えませんが」
「アタシは金が欲しいんだ。アンタに依頼をとられ続けるのも困るわけ。だったら、アンタと組んで、金をもらった方がいいと考えたわけだよ」
これは、半分ほんと、半分嘘であった。
金が欲しいのはほんとである。しかし、金のためだけなら、わざわざこの子と組む必要はない。
「……分かりました。お願いします」
「決まりだね」
アタシは、思わず笑った。笑った後で、自分でも驚いていた。
パーティなんて、二度と組まないと決めていたはずなのだ。かつての仲間を、金で揉めて、自分の手で斬った。あの日から、誰かと組めば、またあんなことが起きる気がしていた。だから、渡り鳥でいると決めたのに。
(巣は持たない、はずだったんだけどねぇ)
だけど、この子を見ていると、どこか危なっかしかった。
この子は常識を知らない子供なのだ。だから、誰かと衝突する。ならば、アタシが教えてあげなければいけない。そんな使命感が生まれていた。そうでもしないとこの子は周りを傷つけた挙句、どこかでのたれ死ぬだろう。
そんなことを考えながら、アタシは歩き出そうとした。
「あの」
白銀狼の声に、足が止まる。
「ご主人様には、私から、伝えておきます」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
あの日、ギルドで感じた、ねっとりとした感覚と、美しい笑顔を浮かべたあの少男の姿が、頭の隅をよぎる。
「……ああ。そうしておくれ」
アタシは、なんとか平静を装って答えた。
夕闇の向こうで、銀色の髪が小さく揺れている。この子の背後にいる誰かのことを、アタシはまだ、何も知らない。
それでも、手は、もう離せなくなっていた。




