20話 一つだけの居場所
目が覚めて最初に感じたのは、カーテンの隙間から差し込む朝の光と、廊下の向こうから聞こえてくる、屋敷の賑わいだった。
寝台から身を起こすと、ほとんど同時に、扉が控えめに叩かれる。
「おはようございます、坊ちゃま。お目覚めの紅茶をお持ちしました」
入ってきたのは、数日前まで僕の頼みを聞き流していたメイドの一人だった。盆を持つ手は震えもせず、笑顔は寸分の狂いもなく整っている。
彼女はカップを置く角度まで気を配ってから、深々と一礼して下がっていった。
(紅茶が冷めた頃に届いていたのは、いつの話だったかな)
つい、口の端が上がる。人間というのは、本当に分かりやすい。
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朝食の席に向かう途中、廊下の様子がいつもと違うことに気づいた。
花瓶に活けられた花の数が増えている。磨き上げられた床は、窓の光を白く跳ね返している。すれ違う使用人たちは、僕の姿を見つけるたびに、道を空けて頭を下げた。
その中に、目だけをそらす者が一人もいない。それどころか、媚びた様な笑顔を見せる。
(大した変わりようだ。一晩で、ここまで)
食堂の隣の小部屋には、封書の山ができていた。
夜が明ける前から、馬の蹄の音が絶えなかったらしい。祝いの品、茶会への誘い、領地への招待。差出人の名は、どれも見覚えのあるものもあれば、ないものもあった。
その中に、ドゥー伯爵の名もあった。
「……へぇ。姉上、ずいぶん面白い人を相手にしていたんだね」
昨夜、姉上の隣で、あの人は愛想よく笑っていた。そして、僕のことを、ずいぶんと褒めてくれたらしい。
(姉上のおかげで、また一つ、使えそうな駒が見つかった)
封書の山を眺めながら、僕は小さく息を吐いた。
すべてが、順調だった。怖くなるほどに。
ふと、背後で、小さな衣擦れの音がした。
「……おはようございます、ご主人様」
振り返ると、エティが、いつもの場所に控えていた。
銀色の髪は整い、僕を見る目は、いつもと変わらない、まっすぐな色をしていた。
「おはよう、エティ。よく眠れた?」
「はい。……ご主人様のおかげで、ぐっすりと」
そう言って、彼女は少し照れたように笑った。
(……へぇ)
笑顔は、いつものものだった。声も、いつもと変わらない。
それなのに、僕は、あえてもう一度だけ、彼女の顔を見た。
昨夜、人を殺したばかりの子が、悪夢の一つも見なかったらしい。
それは、どんな心境の変化だろう?
僕は自身のしたことに満足感を覚えていた。
「そっか。ならよかったよ。エティが元気なら僕も嬉しいし」
「……ありがとうございます」
そういうと、彼女は照れくさそうに頭を下げた。どこかすっきりとした様にも見えた。
——————素晴らしい出来栄えだ。
これなら良い一日が始められそうだ。
僕はそう考えるとエティを連れて部屋を出た。
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「エリウス様!昨日は本当にありがとうございました」
パーティの翌日の午後。僕がまったりとしていると見知った顔が訪ねてきた。
「やぁ、サーシャ。どうしたんだい?改まって」
「いえいえ。昨日のパーティにこのサーシャを招待していただきありがとうございます。おかげで、様々な貴族や商会とコネを持つことができましたぞ!」
そう言うと今にでも小躍りしそうなほど異常なテンションで僕に抱きつこうと詰め寄ってきた。
さすがに近くで侍っていたエティに止められ、抱きつかれることはなかった。
「そう。うまくやってるようでよかったよ」
「ははぁ……このサーシャ。エリウス様の下僕として、なんでもする所存であります!!……さっそくおみ足でもお舐めして——」
「な、何してるんですか!やめてください!!」
急に足を舐めようとするサーシャにそれを必死になってとめるエティ。
本当になんなんだこの光景はと疑いたくなる有様であった。
(サーシャってこんなヤツだったか?……まぁ、いいや)
多分、あまりにも昨日のことがうまくいき過ぎておかしくなっているのだろう。
「……足は舐めなくていいよ。汚いし…………それよりも一つ頼みを聞いて欲しいんだ。」
「ははぁ。一つと言わず何なりと」
「ありがとう。じゃあ、健康な奴隷を数人購入してきて欲しいんだ」
「……奴隷ですか?」
土下座をしていたサーシャは不思議そうな顔をして、僕を見つめている。多分、想定していなかった答えだったのだろう。
「そう。お願いできる?」
「はぁ、まぁ、エリウス様の頼みなら問題ありませんが……何に使われるので?」
「まぁ、色々とね」
奴隷の使い道——そんなもの一つしかない。実験のためである。
最近、領内で、盗賊が減ってきている。どうやら、僕が討伐し過ぎて、うちの領にいた盗賊達が他領に逃げているらしい。
おかげで、最近、実験に協力してくれる被験者が見当たらなくなっている。
(人間で実験したいことはいっぱいあるのに、それができないなんて、あまりにも時間がもったいない)
そこで、考えたのが、奴隷だ。
奴隷は盗賊の次に、消えても不満が出ない存在だ。そして、いつでも調達ができる。そして、なんといっても、何しても良い存在だということである。
流石は中世。
あまりの倫理観のなさに、流石に善良な僕もドン引きである。
「わかりました。良さそうなのはこちらで見繕いましょう」
「よろしくね。もし、質が良ければ定期購入も考えるから」
「いえいえ、こちらこそ、これからも我が商会をご贔屓お願いいたします」
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サーシャが、満面の笑みで何度も頭を下げながら退室していく。
扉が閉まると、部屋には急に静けさが戻った。
「……あの方、本当に大丈夫なんでしょうか」
エティが、困ったような、呆れたような顔で首を傾げる。先程のサーシャの痴態を見て、呆れているのだろう。
「大丈夫だよ。ああ見えて、仕事はきっちりやる人だから」
「そう、なんですね……」
納得したような、していないような顔だった。その素直さが、少しおかしな気分になった。
窓の外では、庭師たちが、昨夜の宴の名残を片づけている。誰もが、よく働く。誰もが、僕に笑顔を向ける。
使用人も、情報も。この屋敷はある程度は掌握できた。
あとは——。
(……あと、一つだね)
僕は、隣に控えるエティへ視線を移した。
彼女は、もう迷わず人を殺せる。昨夜は、僕が命じるよりも先に、自分の足でやってきた。
順調だ。申し分ない。
それでも、まだ足りなかった。
今のエティの倫理観はある程度壊れ始めている。その証拠にエティは僕の敵は迷わずに殺せるだろう。
だが、それではダメだ。
例えば、今のエティでは、無辜の人間を殺せるだろうか?
なんの罪のない人間を無惨に拷問できるだろうか?
僕ね命令一つで何万人の無辜の民を虐殺できるだろうか?
答えは否だ。
まだ、そんなことまで、できるほど堕ちてはいない。
だからこそ、エティにはもっともっと堕落してもらわないといけない。
堕ちて、堕ちて、堕ちた先で、エティにはもっと汚れてもらわないといけない。
そして、真の意味で、僕の作品になるのだ。
——————そのためには、壊してしまうべきだ。
(壊すなら、まず、大事なものを持ってもらわないとね)
「エティ」
「はい、ご主人様」
「近いうちに、君を外へ連れ出そうと思ってる」
「……外、ですか?」
エティは、少しだけ目を丸くした。
檻の中で生きてきた彼女にとって、その言葉は、きっと特別な響きを持っているのだろう。
「うん。いつまでも屋敷の中だけじゃ、息が詰まるだろう?」
「ご主人様が、そう仰るのなら……」
そう答えながら、彼女の瞳に、小さな期待の光が灯るのが分かった。
(いい顔だ)
その光が大きければ大きいほど、いい。
その光を自分の手で消す時、より闇は濃くなる。
そして、闇が濃ければ濃いほど、彼女は後戻りできなくなる。
僕の中の死の恩寵が脈打つのがわかる。
——————大丈夫。出番はきっとすぐ来るよ。
僕は、いつもの優しい笑顔のまま、彼女の頭にそっと手を置いた。




