17話 選ばせてもらった道
デビュタント当日。
控えの間の姿見に映る僕は、どこからどう見ても「可憐な侯爵令息」だった。
(うん、悪くない)
流石は、エリウス・シュルナン・ド・アルセースというべき身なりであった。
伊達に、美しいと噂されるだけのことはある決まりようであった。
銀糸で縁取られた礼装の襟を直していると、扉が静かに叩かれた。
「支度はできましたか」
「はい、母上」
入ってきた母上は、いつもと変わらない涼しい顔で僕を一瞥し、それから窓際の椅子に腰を下ろした。
「始まる前に、今日の客人と入場の順番について伝えておきます。覚えておきなさい」
母上は懐から名簿を取り出すと、淡々と読み上げ始めた。
「王家からは、使者の方が一人。この方は最後にお呼びします。あと、ブルゴーニュ公爵とアキテーヌ公爵も、ご本人がお見えになっています。この二人は同じタイミングでお呼びします」
僕は思わず、母上の顔を見た。
「ブルターニュ公爵からは、祝い状が届いています。それだけです」
それだけ。
母上は、誰がどちらの味方かも、なぜそんな顔ぶれになったのかも、一言も口にしなかった。ただ、領地と家柄と席次を、事実として並べていく。
(……これは、試されてるのかな?)
僕は内心で、静かに笑った。
この人は決して、どういった人物なのかは語らない。あるのは誰でもわかる事実だけである。
(僕がどこまでの情報を持ってるか聞き出したいわけだ)
しかし、そうなると、困ることがある。それはどう話せばいいかだ。正直、この2人が中央派と分権派であることしか知らない。
かと言って、知ったかぶりをしてしまえば、話を合わせられずにボロを出すかもしれない。
「なるほど。驚きました。そのお二人は王国の在り方について、意見が合わず、あまり仲がよろしくないと伺っていたので、同じ順番にお呼びされるとは」
「……ほう?……なぜ、2人を同時に呼ぶと思いますか?」
選べたのは、知っている情報を正直に話すことだけだった。しかし、返ってきた返事は更なる質問であった。
まるで、尋問を受けている気分がしてきた。
「……」
「どうしました?」
さて、なんと答えるべきか。
「……お二人の席が離れていると、どちらかを軽んじたように見えてしまうからではないでしょうか」
僕は結局、無難に、けれど子供にしては少しだけ賢い答えを選んだ。そのくらいが、ちょうどいいと考えたからだ。
母上は、しばらく僕の顔を見つめていた。何の表情も浮かべないまま。
「そう」
それだけだった。
正しいとも、間違いだとも言わない。ただ名簿を懐に戻し、静かに立ち上がる。
「先に会場へ参ります。あなたは、呼ばれるまでここで待ちなさい」
「はい、母上」
母上は一度も振り返らずに、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静まり返った控えの間に、一人残される。
(さて)
あの人が何を考えているのか。僕を試して、何を知りたかったのか。考えるべきことは山ほどある。だが、それは後でいい。
――そろそろだ。
ネズミから伝わってくる「報告」では、あの女が、こちらへ向かっている。
やがて、控えめに扉が叩かれた。
「失礼いたします、坊ちゃま」
入ってきたのは、アマリアだった。
深く頭を下げたその肩が、ほんの少し震えている。
「恐れ入ります。御当主様より、お言づけがございまして。お式の前に、中庭で少しだけお時間をいただきたいと」
嘘だ。母上は、そんなことは言っていない。大体、そんなことがあるならさっき伝えているはずだ。
けれど僕は、何も知らないふりをして、にっこりと笑ってみせた。
当然だ。僕は何も知らないことになっているのだから。
「そう。母上が。分かった、案内してくれるかな」
「は、はい。こちらへ」
アマリアの顔に、安堵とも恐怖ともつかない色が浮かぶ。
まぁ、そうだろう。彼女からしたら今の僕は自分の死刑書類にサインした愚かな人間に見えただろう。
……死。
僕はこれから賭けをする。その賭けはほとんどの確率で、僕は死なないし、成功すると考えている。
当然保険も用意した。僕は自身の下に伸びている影を見つめる。
それでも、少し怖くは感じた。本来なら、不老不死が最終目標の僕がこんな賭けをしないといけないことに。
だが、仕方ない。何かを得るなら、何かを捨てるしかない。それが今だ。
僕はそんなことを考えながら彼女の後ろについて、廊下へ出た。
――その途中。
広間へ続く回廊の端で、ふと足を止めかけた。
会場の入口、壁際に控える人々の列の中。
銀色の髪を揺らして、こちらを見つめている少女がいた。
エティだ。
僕は、一つ安堵した。賭けの第一段階は無事に終わった。もし、彼女があそこでこちらの様子を伺ってなければ、賭けそのものが成り立たなくなってしまう。
僕は気を引き締めて、彼女を見る。
しかし、何も言わなかった。合図も、笑みも送らない。ただ、視線だけをそこに向けて、また前を向いた。
(待ってるからね。エティ。期待を裏切らないでよ)
僕はそんな言葉を心の中でつぶやいた。
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「……ご主人様」
見知らぬメイドに連れられて、ご主人様が会場から離れていくのを、私は見かけた。
廊下の端で、ご主人様の足がほんの少し止まった。少しだけこちらを向き、視線をまっすぐとこちらへ向けられた。
目が合った。時間にすれば、息を一つ吸うほどもない。
笑ってもくれなかった。手も上げてくれなかった。「ここで待っていて」とも、「ついておいで」とも、言われなかった。ご主人様はすぐに前を向いて、メイドの後ろ姿を追って、廊下の角に消えた。
私は、動けなかった。
壁際に並ぶ従者たちの列の中で、背筋を伸ばしたまま、足の裏が床に縫いつけられたみたいに固まっていた。
(……どうして)
呼ばれていない。命じられてもいない。ご主人様は、私に「ここにいなさい」と言ったわけでもない。それなのに、置いていかれた、と思ってしまう自分がいた。
周りから、囁き声がする。
「獣人の従者だ」
「侯爵家も、品位をお忘れになったのか」
耳は、そういう声ばかりよく拾う。この耳は、きっとそのためについている。ご主人様と出会う前なら、俯いて、小さくなって、通り過ぎるのを待っていたと思う。しかし、や今は、そうしなくなった。顔を上げたまま、聞こえないふりをすることができる。
それが、自分でも一番不思議だった。
(私、強くなったんだ)
あの薬を飲んで、体が熱くなって、骨がきしんで、目が覚めたときに、世界が変わっていた。持ち上がらなかった鎖が軽かった。腕を振れば、風が鳴って、人が倒れた。盗賊の剣を素手で受け止めて、そのままへし折った。折れた刃が宙を舞って、乾いた音を立てて転がった。
あのとき、胸の奥から、ぞくりとするものが駆け上がった。
怖かったのではない。嬉しかったのだ。
檻の中で、鎖につながれて、ただ痛めつけられるだけだった私が。何一つ自分の力で選べなかった私が。誰かに「役に立つ」と言ってもらえる力を、持っている。それは全部、ご主人様がくれたものだ。
(あの人が、私を、こんなふうにしてくれた)
その高揚が、いちばん新しい記憶のはずなのに。
私が思い出してしまうのは、そのすぐあとの、洞窟のことだ。
倒れた盗賊たちの奥で、女が、青い顔でこちらを見ていた。もう武器も持たずに丸腰であった。
しかし、「とどめを刺そう」と、ご主人様は言った。いつもの、柔らかい声で。
足が、動かなかった。
できません、と言った。何度も、謝った。女の目が、私を見ていた。怯える人の目だった。あの目から、私は逃げた。
そのあとで、ご主人様が一人で、あの女を雷で焼いた。肉の焼ける匂いがして、女は、動かなくなった。
「無理ならしなくていいよ」
優しい声だった。私は、あのとき、不敬にもほっとしてしまった。見逃してもらえた、と、思ってしまった。
「……君になら、僕は僕の命を預けられると思っていたから」
頭に置かれた手の重さを、今でも覚えている。
あの手は、期待だった。私に預けようとしてくれたものを、私は、受け取れなかったのだ。
(役に立てなかった)
力をもらったのに。いちばん大事なところで、使えなかった。その事実が、ずっと、胸の奥に小さな棘みたいに刺さっている。
地下室の夜も、そうだった。
台の上で、人が壊れていくのを、私は黙って見ていた。道具を渡して、時々押さえつけて。一度も「やめてください」とは言えなかった。そのとき、私は思ってしまったのだ。役に立たなくなったら、私も、あの人たちと同じように、片づけられるのではないかと。
震えていた私を、ご主人様は抱きしめてくれた。「僕は君を必要としているよ」と、言ってくれた。その言葉は少しだけ私の心を温めた。
その時、ふと、視界の端で、何かが揺れた。
会場の隅を、盆を持ったメイドたちが歩いていく。三人。同じ速度で、同じ歩幅で、同じ角度に首を傾けて。
私は息を止めた。
その中のひとりの顔を、私は知っていた。地下室の、台の上にいた女だ。頭を開かれて、痛みを消されて、恐怖を消されて、穏やかに笑った女。
今は、きれいな制服を着て、客人に飲み物を配っていた。
私の前を通りかかったとき、彼女は、私に向かって会釈をした。角度が、他の二人と、少しも違わなかった。笑顔も、同じだった。
(……ああ)
これが、この人たちの、行き着いた場所なのだ。
命じられなければ動けなくて、命じられたことだけを、完璧にこなして。怖いとも、嫌だとも思えない。そんな人形のような存在なのだ。
背中を、冷たいものが這い上がった。
けれど、それは、恐怖とは少し違っていた。
(私は、違う)
私には、怖いと思う心がある。嫌だと思う心がある。
殺せなかったときに、胸が痛んだ。あの痛みは、私が人気なのではないという証明であった。
そして、その私が、ご主人様の役に立ちたいと、思った。誰に命じられたのでもなく。
(私が、自分で、選ぶ)
ご主人様は、何も言わなかった。いや、何も言わなくても、伝わると思ったはずだ。
それは、置いていくということではない。きっと、私に、選ばせてくれているのだ。呼ばれなくても、自分の足で、ついていけるかどうか。
あの視線は、そういう意味だったのだ。
そう思った瞬間、自然と足が動き出した。
列の中から、一歩、前に出る。隣にいた従者が、驚いたようにこちらを見た。
私は、何も答えなかった。顔を上げたまま、廊下を歩き出した。
――私は、役に立ちたい。
その言葉だけを、胸の中で何度も繰り返しながら、私は足を速めた。
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