16話 静かなる侵食
僕は今、非常に愉快な気分で廊下を歩いていた。
周りを見れば忙しなくメイドたちが動き回っている。滞っていた屋敷の装飾も、順調に進んでいるようだった。
脚立に上って燭台を磨くメイド、大きな花瓶を抱えて廊下を駆けていく下女。つい数日前まで僕の指示を聞き流していた連中が、今では僕とすれ違うたびに、深々と頭を下げていく。
(人間って、単純だなぁ)
そう思いながら中庭を望む回廊に出ると、ひときわ通る声が響いてきた。
「そこ、飾り布の向きが違います。やり直してください」
スジャータだった。
背筋を真っすぐに伸ばし、メイドたちの間を歩きながら、一つ一つ的確に指示を飛ばしている。声は落ち着いていて、無駄がない。ここ数日、彼女が誰かを怒鳴りつける姿は一度も見ていない。
彼女はあの日に生まれ変わったと言っていい。
今までは、誰かに気に入られようとする人生であった。だが今は違う。
今は何よりも優先するべき存在ができたのだ。あとは、それに従い続ければいいだけなのだ。
彼女にとって、もはや誰かを怒鳴る必要はないだろう。
(うん。いい仕上がりだ)
以前の彼女なら、僕の姿を見つけた瞬間に眉間に皺を寄せていた。今は、僕に気づくとぴたりと動きを止め、静かに一礼する。それだけだ。その瞳は穏やかで、まるで何かに浮かされたような色が見えている。
「ご苦労様、スジャータ。順調そうだね」
「はい、ご主人様。予定より一日早く仕上がる見込みです」
「それは頼もしいな」
彼女はもう一度だけ頭を下げ、名残惜しそうに作業へと戻っていった。
その時だった。
「――スジャータ!」
回廊の反対側から、苛立ちを隠そうともしない足音が近づいてくる。振り返るまでもない。アンリ姉様だ。
「どういうつもりだ。私はお前に何と言った? あれだけ念を押したはずだぞ」
姉上は、スジャータの目の前まで詰め寄ると、その襟元を掴まんばかりの勢いで睨みつけた。
「なぜメイドたちがアイツの指図で動いている。お前がいながら、この体たらくか」
「申し訳ございません、アンリ様」
スジャータは、動じなかった。声も、表情も、何一つ乱れない。
「ですが、デビュタントは侯爵家の名誉に関わる行事です。滞りなく準備を進めるのが、メイド長としての務めと存じます」
「務め、だと……?」
姉上の声が、僅かに揺れた。何かに裏切られたかのような表情をしていた。
(相変わらず、顔に出る人だなぁ。あれじゃ、何かしていますと言っているようじゃないか)
「私との約束はどうなる。お前は、私が――」
「そのお話でしたら」
スジャータは、穏やかな声のまま告げた。しかし、その表情は心底興味のないものであった。
「今の私には、関わりのないことかと存じます」
沈黙が落ちた。
姉上の顔から、みるみる血の気が引いていくのが見える。怒りではない。得体の知れないものを見る目だ。目の前の女は、確かに十五年仕えてきた女のはずなのに、どこかが決定的に違っている。その「どこか」が分からないまま、姉上は一歩、後ずさった。
「……もういい。下がれ」
「失礼いたします」
スジャータは完璧な所作で一礼し、何事もなかったように作業へと戻っていった。
姉上はしばらくその背中を睨んでいたが、やがて踵を返し、荒々しい足取りで回廊を去っていく。
(ふふ)
僕は柱の陰から、その一部始終を眺めていた。
これほど愉快な芝居は、なかなかお目にかかれない。
流石は姉上だ。あの人はどんな時でも僕を笑わせてくれる。あれなら一流のコメディアンになれるだろう。
そんなことを考えていると、ふと、足元で小さな気配がした。ネズミが一匹、僕の靴に前足をかけている。死の恩寵で動かしている、僕の使い魔だ。濁った目がこちらを見上げていた。
(……ふふ。面白いことになりそうだ)
死んだ体でも、魔力さえ通せば感覚は繋がる。ネズミから伝わってくる、ある女についての「報告」に、僕は口の端を上げた。
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自室に戻った私は、扉を閉めるなり、手近な花瓶を壁に叩きつけた。
砕けた陶器が床に散らばる。それでも、腹の底で煮えたぎるものは少しも収まらなかった。
(何だ、あの女は)
スジャータの顔が、頭から離れない。十五年、この屋敷で膝をついてきた女だ。母上に取り入り、自身の地位を安定させ、そして、次期後継者の私に取り入ってさらに、自分の地位を盤石にしようとする。
あの女の本質は、猜疑心であった。ゆえに、あの女の望むように、少し優しくしてやれば、犬のように尻尾を振った。次期侯爵家当主として、命令すれば何でも言うことを聞いた。
それが、あの目だ。
怒りでも、怯えでも、失望でもない。道端の石ころを見るような、何の色もない目。まるで、何かの感情が欠落したかのような気味の悪い目であった。
(あの愚弟が、何かしたのか)
だが、何をした。あの女が誰かに脅されて折れるような人間でないことは、私自身が一番よく知っている。
ましてや、後継者になれない男であるアイツに付くメリットなど、1リーニュもない。
答えの出ない苛立ちが、また喉元までせり上がってきたとき、控えめに扉が叩かれた。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
入ってきたのは、メイドだった。床に散らばった破片には目もくれず、丁寧に盆を机へ置く。その手が、ほんの少し震えているのに、気づいた。
「……何の用だ」
「アンリ様に、お伝えしなければならないことがございます」
メイドは、扉の外に人の気配がないことを確かめるように一度振り返り、それから声を落とした。
しかし、私はこのメイドの名前なぞ知らない。そんな不審なやつの話なぞ聞けない。
私は適当にあしらうことにした。
「……誰だかも知らんヤツの話なぞ。聞くか。帰——」
「エリウス坊ちゃまのことです」
私の眉が、ぴくりと動いた。なぜ、ヤツの名前が出る。不快な気分はさらに強まった。
「……キサマ。名前は?」
「アマリア・ド・ポーマンと申します」
その名前に聞き覚えはないが、名前から貴族階級の人間なのだろう。
だが、所詮、メイドである。上位貴族ではなく、どこかの地方荘園の3女とかであろう。
「……何を言いたい」
私は自身の不機嫌を隠さずにいた。実際、大した話でなければ直ぐに追い出そうと考えていた。
しかし、この女は興味深いことを話し始めた。
「あの方は、普通ではありません」
「今さら何を言っている。そんなことは当たり前だろう。誰がどう見てもヤツは異常だ。気狂いと言っていい」
「いえ、そうではなくて」
アマリアは唇を噛んだ。
「グレタ——私の知り合いが変わったんです。ある日を境に、まるで人が違ったように、坊ちゃまの言いなりで。スジャータ様も、今日ご覧になった通りです。私が見た限り、皆、坊ちゃまと二人きりで話した後に、変わっています」
「……それで?」
「屋敷中に、おかしなネズミが増えました。石をぶつけても、死なないんです。私の目の前で、頭に当たって動かなくなったはずのものが、次に見た時には消えていました」
語るうちに、アマリアの声は震えを帯びていった。演技ではない。本当に怯えている人間の声だった。私は興味が湧いてきた。確かに、最近、やけにネズミが多いと感じていた。
「私は、次は自分の番だと思っております。そして、その次は――」
アマリアは、真っ直ぐに私を見た。
「アンリ様です」
沈黙が落ちた。
私は、笑い飛ばそうとして、失敗した。笑い声は喉の奥で引っかかり、代わりに乾いた息が漏れた。
あまりにも、荒唐無稽な話である。だが、この女の気迫がその言葉を許さないかのようであった。
「……たかが七つの子供だぞ」
「その七つの子供が、この数日で屋敷の半分を手にしました」
反論できなかった。不快な話ではあるが、それが事実だったからだ。
ましてや、あのスジャータすら手に入れているのだ。説得力がある。
「デビュタントが無事に終われば、あの方の名前もさまざまなところで有名になるでしょう。何せ、男の身でありながら社交界にデビューなぞ、聞いたこともないですから」
「…………」
私は何も言えなかった。その指摘は私が懸念する通りであったからだ。
私が黙っているのを見て、気が大きくなったのか、目の前の女はさらにさえずるようになる。
「御当主様も、あの方を認め始めている節がございます。さもなければ、デビュタントなど、させるはずがございません。そうなれば、もし、デビュタントが成功などすれば、次期当主候——」
「黙れ!」
私はこの女の言うことを遮った。言うにことかいて、アイツが次期当主だと?
ありえない。男で、ましてや、あのエリウスが?
「申し訳ございません。ですが、その前に、手を打たなければ」
「手を打つ、だと」
私は、ゆっくりとアマリアを見据えた。
「お前は、私に何をさせたいのだ」
アマリアは、一瞬だけ言葉を選ぶように目を伏せ、それからはっきりと告げた。
「デビュタントの日、大勢の目の前で、事故が起きるのです」
「……何を言っている」
「ある男児が、パーティの最中、侵入してきた不審者によって、殺されてしまいます」
私は息を呑んだ。
殺す。あの弟を。
嫌がらせや妨害とは、次元が違う。血の繋がった、たとえ憎んでいる相手でも。侯爵家の名に、母の目に、教会の目に、どれほどの傷がつくか。
「馬鹿か。ありえない話だ」
「いえ。あり得る話です。あの恐ろしい存在を恐れているのは私たちだけではありません。口には出しませんが、多くの使用人たちが恐れています」
脳裏には、エリウスのニヤけた顔が浮かぶ。
あの、笑顔の裏に何かを隠したヤツが、いつか自分の喉元に。
「……手配できる者は、いるのか」
自分の声が、思ったより静かだったことに、私は驚いた。
「はい。私の知り合いに、腕の立つ者を紹介できる伝手がございます。決して、アンリ様の名は出しません」
「そうか。どこでやる気だ」
「はい。当日、中庭に呼び出そうと考えております。そこで」
「よかろう」
答えた瞬間、胸の奥で何かがすとんと落ちた。恐怖と、怒りと、そして少しの安堵が、混ざり合って。
「必ず、成功させろ。失敗は許さんぞ」
「かしこまりました」
アマリアは深く頭を下げた。部屋を出ていく間際、その横顔が一瞬だけ歪んで見えたのは、気のせいだろうか。
だが、私は気づいていなかった。窓辺近くの机の下で、小さな影がじっと動かずに、この部屋を見つめていたことに。
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「ありがとう姉上。うまく使わせてもらうね」
物語が面白いと感じていただけましたら、ブクマ・評価・感想を頂けると作者は大変うれしいです。次の投稿は水曜日の朝8次ごろになります。




