9話 ある少女の独白①
――私には、過去の記憶がない。
ご主人様から私と出会った時の話は伺ったが、なぜ自分が奴隷の檻の中にいたのか、その理由は完全に抜け落ちていた。
けれど、魂の底に刻まれているのは、全身を焼く強烈な激痛と、私を心底軽蔑し侮蔑する冷ややかな笑い声。そして、かけがえのない何かを永久に失ってしまったという、絶望的な喪失感だけだった。
冷たい闇の底で、強烈な衝動――「生きたい」という醜い生存本能に突き動かされ、何かにすがりついたことだけを覚えている。
そこから先は、さらに記憶が途切れている。
次に私を襲ったのは、意識を断ち切らんばかりの激痛だった。
顔の皮膚を無造作に切り裂かれる痛み。傷口が乾き、突っ張るたびに走る激痛。
死に至るほどの苦痛が絶え間なく襲いかかってきたが、幸いにもそれは長く続かなかった。ご主人様が何かをしてくださったおかげで痛みはすぐに引き、私は深い眠りへと落ちていった。
次に目を覚ました時、すべては終わっていた。
顔全体に包帯が巻きつけられており、軽く触れただけで鈍い痛みが走る。その不快な感覚は先ほどの凄惨な苦痛を呼び覚まし、私の体を恐怖で震えさせた。
怯えながら周囲を見渡した瞬間、目の前に立つ存在へ、私の視線は奪われた。
長い金髪はまるで繊細な金糸のように美しく輝き、磁器のように滑らかな肌は透き通るような白さを誇っている。人間離れしたその佇まいは、まるでどこか遠い世界から降り立った天使様のようだった。
あのお方は優しく話しかけてくださったが、あまりの美しさと緊張で、私の喉は凍りついたように動かない。
「……そういえば君、名前は?」
名前。……何も思い出せない。自分は誰だったのか。激しく頭を抱えて思い出そうとするたび、脳奥へ鋭い痛みが走った。
「……困ったなぁ」
あのお方は困ったように小さく笑うと、近くの調理台から小さな木さじを取り出し、温かくもない冷めた麦かゆを救って私の口元へ近づけてくださった。
見知らぬ場所で、見知らぬ人から差し出される食物。本来なら警戒して拒絶すべきだったのかもしれない。けれど腹の底から湧き上がる「生きたい」という本能に背中を押され、私は意を決して口を開けた。
一口、喉の奥へと流し込む。
味など分からなかった。ただ、喉を通っていく滑らかな感触だけが、私がまだ生きているのだと実感させてくれた。
ふと視線を上げると、咀嚼する私を、あのお方は慈しむような優しい笑顔で見つめていらっしゃった。
その温かな眼差しを受けた瞬間、私の胸は大きく高鳴った。記憶を失った自分にはその感情の正体など分からなかったが、死に瀕していた私を救い、こうして親身に世話をしてくれる存在へ、純粋な感謝と不可思議な愛おしさが胸に満ちていくのを感じていた。
あの日以来、言葉の出ない私に、あの方は毎日欠かさず薬を塗り、優しく声をかけ続けてくださった。小さく暗い部屋の中で、あの方の存在だけが、痛みに怯える私の世界のすべてになっていったのだ。
――そして、あの日がやってきた。
「――じゃあ外すよ?」
顔を覆っていた包帯が、静かに解かれていく。
傷が癒えているのは分かっていた。けれど、自分の顔がどんな惨状になっているのかを知るのが恐ろしくて、私は息を殺していた。
包帯が完全に落ちた瞬間、あの方は短く息をのんだ。
「……あはっ」
あの方の口から漏れたのは、初めて聞く無邪気な歓喜の声だった。それはまるで、自分の思い通りに実験を成功させた子供のような、穢れのない笑い声。
差し出された姿見を、私は恐る恐る覗き込んだ。
そこに映っていたのは――凄惨に潰れていたはずの顔ではなく、傷一つない、つるりと綺麗で滑らかな少女の肌だった。
――その顔を見た瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げ、無性に泣きたくなった。
なぜ泣きたくなったのかは分からない。記憶のない私には、鏡の中の顔が本当に「かつての私」なのかすら判別できないのだから。
けれど、私の魂は歓喜に打ち震えていた。それはまるで、何十年も離れ離れになっていた最愛のパートナーと、奇跡的に再会を果たせたかのような深い歓びだった。
「……うっ……ぐすっ……あり……がとう……ござい……ます」
声が出た。絞り出すように、言葉が紡げた。
涙が溢れて止まらなくなった私を、あの方は「本当によく耐えてくれたね」と、小さな身体で強く抱きしめてくださった。
あたたかかった。私より小さく華奢なはずのその身体から伝わる温もりに、私は生まれて初めて「生きていていいのだ」と心から思えたのだ。
「……名付けて……ください」
名前を尋ねられた時、私の中に「過去の名前」など一切必要なかった。
あの方が私を救い、作り直してくださったのだから。私の新しい名前も、あの方からいただくのが当然だった。
「……よし、きめたよ。君の名前はエテルニティだよ……略してエティ」
「ハッピーバースデー、エティ」
エテルニティ。――永遠。
その瞬間、私は哀れな「名無しの奴隷」として死に、「あの方の作品・エティ」として新しく生まれ変わった。
そこからの毎日は、怒涛の日々だった。
治療が終わると同時に、ご主人様のお母様にお会いした。あのお方の瞳はどこまでも冷酷で、私を同じ生き物としてすら見ていない視線だった。しかし、そんな圧迫感の中でも、ご主人様は私を庇うように優しく守ってくださった。
ご主人様のお姉様であるアンリ様から「薄汚い獣人のガキ」と罵られ、あの方が私を庇うために頭を下げさせられた時、私は自分の無力さに血が滲むほど唇を噛み締めた。
私は女なのだ。本来であれば、力なき男性を守らねばならない存在のはずなのに。
私の存在があの方の気高さを穢している。その激しい罪悪感で呼吸すら出来なくなりそうだった私を、二人きりになった廊下で、あの方は優しく抱きしめてくださった。
「君には僕を守ってくれる盾になって欲しい。……君は僕の『作品』であり、僕の命を預かる特別な存在なんだ」
あの方のその言葉が、すっと胸の深いところへ染み込んでいく。
私は、自分の小さな手をギュッと強く握りしめた。
それからの日々は過酷だったが、何よりも満たされていた。
私はあの方の従者となるべく、泥に塗れて訓練を重ねた。朝はエレナード様と剣を交え、午後から夜にかけてはメイド長から徹底的な作法と給仕の叩き込みを受けた。
体が悲鳴を上げるほどの辛い日常。けれど、一日の終わりに床へ就く前、ご主人様は必ず私の頭を撫で、小さな力で抱きしめてくださった。その穏やかな温もりだけが、凍えるような日々を優しく溶かしてくれた。
体がその過酷さに慣れ始めた頃、ご主人様直々の「訓練」が始まった。
ご主人様の役に立ちたい。ただそれだけの想いが私を突き動かしていたから、どんな試練も苦にはならなかった。
――それはまさに、あの方による肉体の『再構築』だった。
息が切れ、視界が明滅するほどの過酷な鍛錬。けれど、あの方が手渡してくれるガラス瓶の中身を飲み干せば、まるで奇跡のように全身の疲労が吹き飛び、骨や筋肉が力強く作り直されていく感覚があった。
あの方が観察するように瞳を細め、満足そうに微笑んでくださる。ただそれだけで、全身の細胞が歓喜に狂い咲いた。
途中で現れたサーシャという怪しげな商人が私を「維持費のかかる奴隷」と蔑もうが、どうでもよかった。ご主人様は私を「投資期間だ」と仰ってくださった。私という存在に対価を払い、真の価値を見出してくださっているのは、世界であの方だけなのだ。
私はあの方の『最高傑作』。
あの方が望むなら、どんなつらい日々だって、乗り越えて見せる。
――そして、現在。
地下室の薄暗がりの中、目の前でひしゃげていく鉄枷を見つめながら、私は喉の奥に残る痺れるような熱気を感じていた。
全身を焼き尽くすような激痛と共に、あの方から与えられた薬品が肉体を苛み、劇的に書き換えていく。けれど、私の心を満たしているのは激痛の恐怖などではなく、狂おしいほどの情熱と誇りだった。
(見ていてください、ご主人様――)
あの方が私を『作品』と呼ぶのなら、私は喜んであの方の作品になろう。
あの方が不老不死という「永遠」を望むなら、私はあの方の完璧な『盾』となろう。
あの方が私に「エテルニティ」という名を与えてくれたあの日のように。
私は今、あの方の愛おしい手によって、再び新しく生まれ変わるのだから――。
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