群
その日の昼を待たずに、彼女は還った。
彼女の輪郭が灰色の中へゆっくりと均されていくのを、為す術もなく見ていただけだった。最後まで、俺は彼女を見つめ続けた。見ていれば留まるかもしれないと、根拠もなく信じて。だが、視線は彼女の消失を、わずかに遅らせることしかできなかった。
昼の光が灰の上に薄く広がった頃、そこにはもう誰もいなかった。
膝を抱えた人の形をしていた灰の窪みだけが、かろうじてそこに残っていた。風が吹くと、それも均されて、消えた。
その場にしばらく座っていた。
胸の奥に深く暗い穴が空いて、そこから何かが絶え間なくこぼれ落ちていくような感覚があった。そして、こぼれ落ちていくものの中にはあの音もあるはずだ。彼女が胸に手を当てて差し出してくれた、たった一粒の音も。
立ち止まっていれば、俺もまた、あの灰の窪みになるだけだ。そんな気がした。だから立ち上がり、再び歩き出した。あてもなく、ただ灰の中に俺の足跡だけを刻みながら。
歩き続けるうちに、目に見える風景が少しずつ変わっていった。
崩れた建物群の密度が増し、やがて、かつて街であったとおぼしき一帯に入った。瓦礫はより大きく、より深く折り重なり、その隙間に灰が吹き溜まっていた。そしてその瓦礫の影に、人の形がいくつもあった。
灰にまみれ、何も思い出せず、ただこの世界に放り出された者たち。ある者は瓦礫の陰でうずくまり、ある者は灰の上をあてもなく彷徨っていた。みな、暗闇から這い出てきたばかりの、生まれたての目をしていた。
俺は、彼らに近づいた。
言葉は、いらなかった。同じ目をしていれば、それで通じた。俺たちは互いを見つけ、寄り集まった。両手の指では足りないくらいの人数が、いつしか一つの群れになっていた。
群れができると、生活が生まれた。
俺は彼らに、水のありかを教えた。火の熾し方を教えた。誰かが瓦礫の中から、まだ使える布や器を見つけてきた。誰かが、崩れた壁を組み直して、風をしのぐ場所を作った。役割というものが、自然と生まれていった。秩序が、灰の中に少しずつ芽を出していった。
それは、悪くない日々だった。
一人で灰の中を彷徨ったときの、あの底のない静寂はもうなかった。隣に誰かがいて、声があり、火を囲む夜があった。俺たちは、何も思い出せないまま、それでも前を向いて、この灰の世界に小さな居場所を築こうとしていた。
だが。
俺は、あることに気づき始めていた。
群れの誰かが、ときおり還っていくのだ。
最初は気に留めなかった。一人、また一人と、灰の中へ均されていく。それはこの世界では当たり前のことなのだと、俺は思おうとした。そして見ているうちに、それが法則を持っていることに気づた。
群れの中で、誰の目にも留まらない者がいた。隅にいて、声をかけられることもなく、ただ静かに灰の風景の一部のようになっている者。そういう者から先に、輪郭が薄れ、還っていった。逆に、よく笑い、よく話し、みなの視線を集める者は、長く保った。火を囲む輪の中心にいる者の輪郭は、長い間くっきりとしていた。そして長くこの世界にいた者ほど、早く散っていくように見えた。
なぜ、見られない者から還るのか。なぜ、古い者から還るのか。その理由を、俺は何も知らなかった。ただ、目の前で繰り返される現象を、見ていることしかできなかった。そして見ていることしかできない自分が、もしかすると見ていることで誰かを留めているのかもしれない、という考えが、ふと頭をよぎった。馬鹿げている。俺はその考えを、いつものように脇へ置いた。
還っていく者が増えると、俺の中で、別のことが起き始めた。還った者の顔を、声を、思い出せなくなっていくのだ。
昨日まで火を囲んでいた誰かが還ると、その誰かと過ごした時間が、まるで初めから無かったかのように、俺の中から欠け落ちていく。交わした言葉を、向けられた笑みを。手繰り寄せようとすると、霧が降りてくる。
これは、まずい。と俺は初めてそう思った。このままでは、俺は、ここで起きたことを何ひとつ覚えていられなくなる。彼らが確かにここにいたということを、誰も覚えていない世界になってしまう。
俺は、残すことにした。還った者の名を、刻もうと思った。平らな石を一枚、瓦礫の中から探し出して、先の尖った石を握り、刻みつけようとする。誰の名から刻むべきか。俺は、いちばん最初に還った者の名を刻もうとした。あの、灰の窪地で、胸に手を当てて、確信が持てないように自分の音を差し出してくれた、あの、いや、確か一番初めに還った者は身体が大きく瓦礫の撤去をいそいそとしていたあの……
手が、止まった。
誰の音も、出てこない。
最初の一人が何者であったか、もう、俺の中のどこにも残っていなかった。
俺は、何も刻めない石を握ったまま、灰の上に座り込んでいた。
石は、ひどく重かった。




