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黙光洞の遺文  作者: 柳本 祐一郎


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2/3

 彼女は、しばらく俺を見上げたまま動かなかった。


 俺もまた、何と答えていいかわからずに立ち尽くしていた。生まれたのか、と問われて、そうだ、とも、違う、とも言えなかった。生まれるということが何なのか、俺にはまだわからなかったからだ。気がつけば暗闇にいて、気がつけばここにいる。その間に何があったのか、その前に何があったのか、何一つ判然としない。


 ただ、目の前のこの者も、俺と同じ手ぶらでここにいるのだということは、その目を見ればわかった。


「立てるか」


 俺がそう言うと、彼女はおずおずと手を伸ばしてきた。その手を取って引き上げる。軽い身体だった。立ち上がった彼女は、俺より頭半分ほど背が低く、線の細い輪郭をしていた。灰を払うと、その下から思いがけず若い顔が現れた。


 しばらく、俺たちは互いの顔を見合っていた。

 言葉を交わそうにも、交わすべきものを何も持っていなかった。ただ二つの戸惑いが、向かい合っているだけだった。


 その沈黙の中で、ふと、彼女の唇が動いた。


「……ゆい」


 掠れた、小さな声だった。


「ゆい……?」


 俺が問い返すと、彼女は自分でも確信が持てないように、首をかすかに傾けた。


「わからない。でも、それだけ……それだけが、残ってる」


 そう言って、彼女は自分の胸のあたりに手を当てた。


 俺には、その感覚がわかった。痛いほどにわかった。俺の中にも、同じものがある。暗闇の底からこぼれ落ちずに残った、たった一粒の音。


「俺にも、ある」


 俺は言った。


「あさま、かずき。……浅間一樹。そういう音だ。何のことかは、わからない」


 口にすると、やはりそれは確かに俺の口の中でしっくりきた。だが、ゆい、という音を聞いた今、わかったことがある。俺たちはどうやら、同じものを抱えているらしい。それぞれの暗闇から、それぞれにひとつだけ、音を持って這い出てきたのだ。


 彼女は、俺の音を聞いて、初めてかすかに笑った。灰にひびが入るような、ぎこちない笑みだった。自分だけではなかった、という安堵が、その顔にはあった。


 俺たちは、歩き始めた。


 二人になったからといって、行く先があるわけではなかった。それでも、一人で灰の中に立っているよりは、いくらかましだった。隣に誰かがいて、その足音がしゃくしゃくと聞こえてくるというだけで、この静寂はわずかにやわらいだ。ときおり、俺はゆい、と呼んでみた。そのたびにゆいは顔を上げ、灰色の世界の中で、ゆいという一点が、確かにそこにあることを返してきた。


 歩くうちに、喉の渇きが我慢ならなくなってきた。生まれて初めての渇きだった。ゆいも同じらしく、しきりに唇を舐めている。


 俺は、風の匂いを嗅いだ。


 焦げた匂いの底に、かすかに湿ったものが混じっていた。匂いを辿って、瓦礫の斜面を下っていく。崩れた壁の裏手、灰の溜まった窪地の縁に、それはあった。


 水だった。


 錆びた管が地中から突き出し、その先から、糸のように細い水が滴っていた。下の窪みに、わずかな水溜まりができている。澄んではいない。灰の膜が表面に張っている。それでも、水だった。


 俺は膝をつき、膜をそっと払って、掌で水を掬った。口に運ぶ。土と鉄の味がした。だが、それが喉を通り過ぎていく感覚は、何かを思い出させるほどに優しかった。隣でゆいも、両手で水を掬って飲んでいた。飲み終えると、ゆいはまた、あのぎこちない笑みを浮かべた。


 その夜、俺たちは崩れた壁の影に身を寄せた。


 火が要る、と思った。夜が来て気温が下がると、身体が勝手に火を求めた。俺はあたりの乾いた木片を集め、二つの石を見つけて打ち合わせた。何度も、何度も。指の皮が裂けても続けた。やがて、小さな火花が、枯れた繊維に飛び移った。


 炎が立ち上がった瞬間、ゆいが息を呑むのがわかった。


 色のない世界に、初めて色が灯った。赤と橙が、ゆいの顔を下から照らし、その瞳の中で揺れた。俺たちは長いこと、その火を、ただ見つめていた。


 水を見つけ、火を熾した。この灰の世界に、俺たちは確かに、ひとつずつ何かを灯していた。それがどういう意味を持つのか、まだ俺は知らなかった。ただ、ほんの小さな、けれど確かな手応えだけが、掌に残っていた。


 火を挟んで、俺はゆいの顔を見た。


 灰を払った頬、伏せたまつ毛、火に照らされた輪郭。俺はそれを、繰り返し目で確かめた。ゆい、という音と、その顔を、何度も結びつけた。そうしていると、不思議と心が落ち着いた。見ているかぎり、ゆいはここにいる。そのことが、なぜか、たまらなく大切なことのように思えた。


 だが、火が燃え尽きかけた頃。


 俺は、ふと、おかしなことに気づいた。


 火の照らす輪の中で、ゆいの輪郭がわずかに、薄い。


 はじめは火が弱まったせいだと思った。光が足りないから、そう見えるのだと。俺は燃え残りの木片を火にくべた。炎が少し勢いを取り戻す。それでも、ゆいの輪郭は、やはりどこか頼りなかった。まるで灰色の背景が、ゆいの縁からじわりと滲み込んでいるかのように見えた。


 気のせいだ。

 俺は自分にそう言い聞かせて目を閉じた。体の感覚は鈍く、瞼は重かった。生まれて初めての一日は、あまりにも多くのものを俺に詰め込みすぎた。明日も、ゆいはそこにいる。その確信のような、願いのようなものを抱えて、俺は眠りに落ちた。


 弱々しい明かりが、崩れた壁の隙間から差し込んでいた。気だるい朝だ。俺は身を起こし、隣を見た。


 ゆいが、いた。

 いた、と言えるかどうか、俺にはわからなかった。


 ゆいは昨夜と同じ姿勢で、膝を抱えていた。しかしその姿は、灰に溶けかけていた。輪郭が、背景の灰色とほとんど見分けがつかなくなっていた。火を挟んで見たときの、あの頼りなさが、いっそう進んでいた。


 俺は、慌ててゆいを見つめた。


 見つめると、わずかに、輪郭が戻る気がした。俺の視線がゆいを灰の中から掬い上げ、かろうじてこの世界に繋ぎ止めているようだ。俺は瞬きすら惜しんで、ゆいを見続けた。


 だが目は、ずっと開いてはいられない。


 一度、ほんの一瞬、瞬きをした。


 その隙に輪郭がまた一段、薄れた。


 俺は呼ぼうとした。昨日、彼女が俺に教えてくれたあの音を。


 だが、出てこない。


 ゆ、であったか。しかしその続きがあったような気がする。いや、なかったか。あの細い声が、胸に手を当てて差し出してくれた、たった一粒の音。ついさっきまで、俺が何度も呼んでいたその音が、もう思い出せなかった。


 掌の砂が、音を立ててこぼれていく気がした。

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