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黙光洞の遺文  作者: 柳本 祐一郎


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 闇に浸っている。


 何も見えないということが、これほど身体に重くのしかかるものだとは知らなかった。いや、知らなかったという表現は正しくないだろう。俺は、何かを知っていたであろう自分というものを捉えられずにいる。あるいは初めからそんな自分は存在していなかったのかもしれないが。


 仰向けになっているらしい。背中に岩の冷たさがある。


 俺は、誰だ。


 問いを立てたそばから、答えの輪郭が霧の向こうへ退いていく。名前。そうだ、名前があったはずだ。手を伸ばすように記憶の底をさらうと、ひとつだけ、音が指に触れた。


 あさま、かずき。


 浅間一樹。


 声に出してみると、その音は俺の口の中で奇妙にしっくりきた。だが、それが何を意味するのかはわからない。誰がそう呼んだのか。いつのことなのか。男の名のようでもあり、まったく見知らぬ呪文のようでもある。確かなのは、この暗闇の中で、それだけが消えずに残っているということだった。ほかのすべてが指の隙間からこぼれ落ちていく中で、その音の粒だけが、掌に残った最後の砂のように。


 起き上がるために四肢を動かすと、全身が軋んだ。関節のひとつひとつが錆びこんでいるようで、立ち上がるだけで息が上がった。それでも身体は、俺の知らないうちに立ち方を覚えていた。膝の伸ばし方、重心の置き方。この身体が誰かのお下がりのように思えた。


 闇に目を凝らす。


 最初は何も映らなかった。だが、じっと見ているうちに、闇の中にわずかな濃淡が生まれてきた。そして遠くに、針の先ほどの光がある。


 それを見た瞬間、身体の奥で何かが反応した。説明のつかない引力だった。あの光を見ていたい、と思った。見ていなければならない、とすら思った。なぜそう思うのかはわからない。ただ、見ることだけが、今の俺にできる唯一のことのように感じられた。


 俺は光に向かって歩き出した。


 一歩進むごとに、世界が手触りを取り戻していく。足の裏に砂利。横ざまに吹きつける、かすかな風。風には焦げたような匂いが混じっていた。何かが焼けた後の、冷えきった匂いだ。


 光が近づくにつれ、それが洞窟の出口であることがわかってきた。岩肌の輪郭が、逆光の中に浮かび上がる。俺は片手を壁に這わせながら、慎重に足を進めた。出口の縁に手をかけ、外の光に目を細める。


 最初に来たのは、痛みだった。光が目を刺し、視界が真っ白に焼ける。俺は思わず顔を覆い、指の隙間から恐る恐る外を窺った。白が、少しずつ退いていく。世界が、その輪郭を結び直していく。


 俺は、息を呑んだ。

 そこに広がっていたのは、灰だった。


 見渡すかぎり、すべてが灰色だった。地面も、遠くの山の稜線も、低く垂れこめた空も。色という色が抜き取られ、ただ濃淡の違いだけがそこにあった。風が吹くたびに、地面の表面が薄く舞い上がり、また静かに降り積もる。


 建物だったとおぼしきものが、いくつか見える。だがそれらはもう、建物の記憶でしかなかった。骨組みだけを残して崩れ落ち、半ば灰に埋もれ、輪郭を失いかけている。鉄の柱がねじ曲がったまま、空に向かって突き出ている。そのすべてが、ゆっくりと、しかし確実に、ひとつの均された灰へと還ろうとしているように見えた。


 風の音すら、この広大な静けさの前ではほとんど意味をなさなかった。鳥の声も、虫の音も、水の流れる音もない。あるのはただ、何かが終わった後の、巨大な静寂だけだった。世界は息を引き取っていた。


 俺は、この光景を知っているような気がした。

 いや、知っていたのは、これとは違うものだ。ここには、かつて違う何かがあった。色があり、音があり、動くものがあった。その確信だけが、根拠もなく胸の底にある。だが、それが具体的に何だったのかを思い出そうとすると、また霧が降りてくる。浅間一樹、という音だけを残して、すべてが遠ざかる。


 俺はしばらくの間、ここに立ち尽くしてただ見ていた。崩れた世界を、端から端まで。目に映るものを、ひとつ残らず確かめるように。そうしていないと、この世界そのものが、俺が目を逸らした隙に灰へ還ってしまうような気がした。


 灰の中を、歩き出す。

 あてはなかった。崩れた柱の影を抜け、瓦礫の丘を回り込み、足跡ひとつない灰の上に、俺の足跡だけが点々と続いていく。振り返ると、その足跡もまた、風に少しずつ均されて消えかけていた。


 どれほど歩いたか。


 俺は、足を止めた。


 前方の、崩れた壁の根元に、何かがうずくまっていた。


 灰と同じ色をしていたから、危うく見落とすところだった。だが、それは灰ではなかった。丸まった背中。抱え込まれた膝。それは、人の形をしていた。


 俺は、その影をじっと見つめた。


 見つめている間、それは確かにそこにあった。灰に紛れることなく、ひとつの輪郭として、世界から切り取られて存在していた。


 近づく。一歩、また一歩。


 俺の足音に気づいたのか、その影が、ゆっくりと顔を上げた。


 灰にまみれた顔の中で、二つの目だけが、俺を見返していた。その目には、俺と同じものが宿っていた。何も思い出せず、何も理解できず、ただこの世界に放り出された者の、底のない戸惑い。


 乾いた唇が、かすかに動いた。


 掠れた、けれど確かな声で、彼女は言った。


「あなたも、生まれたのですか」

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