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黙光洞の遺文  作者: 柳本 祐一郎


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4/4

 石に何も刻めないまま、季節のようなものがいくつか巡った。寒さの厳しい時期と、いくらか和らぐ時期とが、ゆるやかに入れ替わった。その繰り返しを何度か数えるうちに、群れは、少しずつ形を変えていった。


 還っていく者がいる。新しく生まれて加わる者がいる。その出入りを繰り返しながら、群れは、かろうじて一つの群れであり続けていた。


 その頃には、俺はひとつの確信を抱くようになっていた。


 はじめは、ただの予感だった。しかし何度も同じことを見ているうちに、予感は確信の重さを持つようになった。


 俺たちが、何かを築くたびに誰かが、還っていく。


 風をしのぐ壁を一つ立てると、その夜、誰かの輪郭が薄れた。水を引く溝を一本掘ると、それを掘った誰かが、翌朝には灰になっていた。秩序が一つ増えるたびに、その分だけ、群れから何かが差し引かれていく。


 築くことと失うことは別々のことではなかった。同じ一つの動きの、表と裏だった。俺たちは、生きるために何かを築く。しかし築くこと自体が、仲間を還らせている。生かそうとする手が、そのまま誰かを灰へ押しやっているようだった。


 それに気づいてから、俺は手が動かなくなった。


 新しい壁を立てようとする者がいると、止めたくなった。溝を掘ろうとする手を、押さえたくなった。これ以上、何も築きたくない。築けばまた誰かが還る。名前も思い出せなくなった、あの者たちのように。


 しかし築くのをやめれば、どうなるか。俺はそれも知っていた。壁がなければ、夜の寒さが群れを削る。水がなければ、渇きが群れを削る。何も築かなければ、この灰の世界そのものが、ゆっくりと俺たちを呑み込んでいく。築かないこともまた失うことだった。


 築いても失う。築かなくても、失う。


 俺はその二つの喪失の間で、身動きが取れなくなっていた。火を囲む夜、俺はただ揺れる炎を見つめながら、どちらの喪失を選べばいいのか、答えを出せずにいた。


 群れの中に、いちばん幼い者がいた。


 他の誰よりも遅れて生まれ、群れに加わった、線の細い子だった。その子もまた、暗闇から、たった一粒の音を持って這い出てきていた。はる、というその音を、その子は、恥ずかしそうに俺に教えてくれた。意味はわからない、と。


 はるは、俺によく懐いた。


 俺が手を止め、何も築けずにいることを、はるはいつも黙って見ていた。子供ながらに、俺が何かに苦しんでいることを、感じ取っていたのだろう。


 その冬は、ことさら寒さが厳しかった。


 夜ごと、群れの誰かの輪郭が薄れた。風をしのぐ場所が足りていなかった。新しい壁が要る。大きな、群れ全体を囲うだけの壁が。それを立てれば、寒さから多くの者を守れる。だが立てれば、その代償に誰かが還る。それが誰になるのか俺にはわからなかった。わからないから俺は手を出せずにいた。


 俺が動けずにいる間に、動いた者がいた。


 はるだった。


 幼いその子が、ある朝、たった一人で壁を築き始めていた。瓦礫を運び、積み上げ、隙間を灰で埋める。小さな手で、何度も、何度も。俺が止める間もなかった。いや俺は、止められなかった。止めれば、今夜また寒さで誰かが還る。止めなければはるが築いた壁の代償を、誰かが払う。俺は、どちらも選べないまま、はるが壁を積み上げていくのを見ていることしかできなかった。


 壁は、その日の夕暮れに完成した。


 群れ全体を囲う、低いけれど確かな壁。風が遮られ、火の温もりが囲いの中に留まった。みなが、久しぶりに穏やかな顔で眠りについた。


 ただ一人。


 壁を築いた、はるを除いて。


 俺が気づいたとき、はるの輪郭は、もう、灰に滲み始めていた。


 俺は、はるに駆け寄った。必死にその小さな姿を繋ぎ止めようと見つめた。しかしはるの消失は、速かった。


 はるは、薄れゆく顔で、俺を見上げた。


 そして、笑った。あの、恥ずかしそうな笑みで。


「ごめん」


 俺は、思わずそう言っていた。お前に築かせてしまった。お前の代わりに俺が動くべきだった。お前を、還らせてしまった。


 だが、はるは、首をかすかに横に振った。


 そして消え入りそうな声で言った。


「わすれて、いいよ」


 俺にはその意味がわからなかった。


「わすれて、いい」


 はるは、もう一度、確かめるように繰り返した。まるで、それが何より大切なことであるかのように。俺の目を、まっすぐに見て。


 俺が、その言葉の意味を問い返すより先に。はるの輪郭は、灰の中へ溶けた。あとには、小さな手が積み上げた壁だけが残った。その壁は、群れを確かに守っていた。

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