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第39話: 初めて自分のために泣きました

 鏡の中の私は、知らない人みたいだった。


 白い布が、胸元から柔らかく広がっている。

 肩のレースが、朝の光を透かす。

 神殿の白とは違う。

 あれは「役目」の白だった。

 これは、誰かのためじゃない白だ。


 指先が、髪飾りに触れられない。

 震えていた。


 頬を、温かいものが伝う。


 「あ……」


 声が、薄く割れた。

 ぽたぽたと、膝の布に落ちる音。

 涙だと理解するより、息のほうが先に震えた。


 泣き方なら、知っている。

 痛い子どもを抱きしめたとき。

 助けられなかった命を思い出した夜。

 歴代の聖女の日記を、ひとりで読んだとき。


 でも、それはいつも——誰かのための涙だった。


 同情。悔しさ。怒り。祈り。

 義務の余りで、私は泣いてきた。

 自分の胸の痛みを、「正当な理由」に変えられるときだけ、涙を許してきた。


 今、鏡の中の私は、困っていた。

 理由が、見つからない。

 あるのは、ただ——身体の内側まで朝日が満ちていく感覚だけ。


 「……綺麗」


 誰に言うでもなく、呟いた。

 自分に向かって、初めて。


 扉が、二度ノックされた。


 「凛。入るぞ」

 「……はい」

 「エルザから、来てくれと言われた」

 「もうちょっと、待ってくれますか」

 「いい。ここで待つ」


 木がきしむ音と一緒に、低い足音が部屋に入ってくる。

 黒い騎士服の影が、鏡の隅に映った。


 「……凛」

 「はい」

 「こっちを向け」

 「……」

 「向かないなら、こっちから行く」


 肩越しに、息の気配が近づいた。

 いつもの人なのに、今日はいつもより静かに見える。

 たぶん、私が壊れないようにしている。


 眉が、ほんの少しだけ動いた。


 「泣いてるのか」

 「……うん」

 「どこか痛むのか」

 「いえ」

 「具合が悪いのか」

 「違います」


 頬に指を当てる。

 濡れている。確かに、泣いている。


 隠したい、と思わなかった。

 誤魔化したい、とも思わなかった。


 「嬉しくて」

 「……嬉しくて」

 「はい。嬉しくて、泣いてるんです」

 「そうか」

 「変ですか」

 「変じゃない」

 「変じゃないですか」

 「ああ」


 声にした瞬間、内側の錠が外れる音を聞いた気がした。


 今までは、どこかに錠前があった。

 幸せだけは、鍵をかけていた。

 嬉しいときほど、息を殺した。

 受け取ったら、次の瞬間に奪われる気がして。


 でも、もう奪われない。


 「レオン」

 「ああ」

 「私、ずっと泣くのが下手だったんです」

 「知ってる」

 「誰かのためにしか、泣けなかった」

 「ああ」

 「でも、今は」

 「うん」

 「初めて、自分のために泣いてます」


 言えた。

 言ってもいい、と思えた。


 これが、初めて自分のために流す涙だった。


 レオンは目を伏せ、ゆっくり私の前に膝をついた。

 鎧のときみたいな硬い音じゃない。

 布が擦れる、穏やかな音。


 「……そうか」

 「うん」

 「泣け」

 「え」

 「今日は、好きなだけ泣け」


 彼は、親指で私の頬をそっと拭った。

 不器用なのに、優しい。

 涙を止めるためじゃない。

 「ここにあっていい」と確かめるみたいな、触れ方だった。


 「綺麗だ」

 「……」

 「凛」

 「はい」

 「綺麗だ」


 短い一言だった。

 私が鏡に向かって言ったのと、同じ言葉。

 今度はレオンから返ってくる。


 「……ありがとう」

 「礼は、式が終わってから言え」

 「いま、言いたいんです」

 「……勝手にしろ」

 「はい。勝手にします」

 「泣き顔も、嫌いじゃない」

 「それ、褒めてます?」

 「褒めてる」

 「下手ですね」

 「悪かったな」


 困った顔をして、視線を逸らす。

 いつものレオンで、泣きながら笑ってしまった。


 「レオン」

 「なんだ」

 「もう少しだけ、ここにいてください」

 「ああ」

 「鐘が鳴るまで」

 「鐘が鳴るまで、いる」


 彼は、もう一度だけ私の頬に触れて、それから黙った。

 私は笑って、涙を流して、息をした。

 ちゃんと、自分のために。




 リンデン村の朝は、パンの匂いから始まる。

 今日はそこに、花の匂いが混ざっていた。


 広場へ続く道に、子どもたちが野花を並べている。

 白、黄色、薄い桃色。

 名前の分からない小さな花も、誰かが大切に摘んできたのだろう。


 「凛ちゃん」

 「エルザさん」

 「ほら、こっちにおいで」

 「はい」

 「寒くないかい」

 「平気です。あったかいので」


 いつもの「大丈夫」を、途中で止めた。

 ちゃんと、今日の言葉を選んだ。


 エルザさんの手が、私の腕に絡む。

 大きくて、温かい。


 「……エルザさん」

 「なんだい」

 「目、赤いです」

 「あんたもね」

 「お互い様ですね」

 「お互い様だよ」


 その笑い方が、泣きそうな人のそれで、私は慌てて顔を見る。

 目尻に、きらりと光るもの。


 「エルザさん、泣かないでください。私まで泣いちゃう」

 「だってねぇ、凛ちゃん」

 「だって、って」

 「だってさ。あんたが、ここまで来たんだもの」


 エルザさんは、私の襟元えりもとの布を整える。

 頬には触れないように気をつけて。

 小さな子に服を着せるみたいに、丁寧に。


 「よかったねぇ、凛ちゃん」

 「……はい」

 「ほんとうに、よかったねぇ」

 「はい」


 その一言で、喉が熱くなった。


 「よかったね」なんて、私はずっと言う側だった。

 怪我が治った人に。

 助かった命に。

 涙を堪えている子に。


 私自身が言われたことは、ほとんどなかった。


 返事が、掠れた。

 でも、逃げなかった。

 義務の頷きじゃない。

 祝福しゅくふくを、受け取るための「はい」だ。


 鐘の音がした。


 村の古い礼拝堂れいはいどうの、小さな鐘。

 誰かが紐を引いたのだろう。

 高くはない音なのに、空にまっすぐ伸びていく。


 広場に集まった村人たちが、ぱっとこちらを見た。


 「凛ちゃーん!」

 「花嫁はなよめさん、こっち!」

 「綺麗だなぁ、おい!」

「うちの嫁さんより綺麗じゃないか!」

「あんた、聞こえてるよ!」


 誰も「聖女様」とは呼ばない。

 笑い声が、飛んでくる。


 「凛ちゃん、行こう」

 「……はい」

 「足、ちゃんと出るかい」

 「出ます。今日は、ちゃんと」


 私の足が、震えた。

 怖いからじゃない。

 嬉しさが、身体に収まりきらないからだ。


 広場の奥に、レオンが立っていた。

 黒い騎士服はいつも通り。

 胸元に、小さな白い花を挿している。

 その不器用な飾り方が、あまりに彼らしくて、笑いそうになる。


 「レオン、その花、誰がつけたんだい」

 「俺だ」

 「ずれてるよ!」

 「……知ってる」

 「直しなよ!」

 「凛が直す」


 くすくす、と村人たちが笑った。

 目が合った瞬間、レオンの肩が少しだけ下がった。

 戦うときの彼じゃない。

 ここにいるのは、ただ、私の隣にいたい人だ。




 式は、驚くほど静かに始まった。


 派手な儀式も、豪奢ごうしゃな祈りもない。

 村の長老が短く言葉を述べ、聖光神せいこうしんへの感謝を唱える。

 それから、私たちは向かい合った。


 「凛」

 「はい」

 「手を」

 「……はい」


 レオンの手が、差し出される。


 その手は、剣を握ってきた手で。

 薬草を掘ってきた手で。

 私の熱を確かめてきた手で。

 ——今日、指輪ゆびわをはめる手だ。


 私は、そっと取った。

 指先が触れただけで、鐘より近い場所が震えた。


 長老が、問う。


 「レオン。なんじ、誓うか」

 「誓う」

 「凛。汝、誓うか」

 「……誓います」


 次は、私の番だ。

 唇が、震えた。

 けれど、声は出た。

 出せた。


 役目に縛られた誓いじゃない。

 誰かに「こう言え」と教えられた誓いでもない。

 私は、私の言葉で言った。


 指輪が、私の指に通る。

 冷たい金属が、肌の熱で少しずつ温まっていく。


 「冷たい」

 「すぐ温まる」

 「……はい」

 「もう、温い」

 「ほんとですね」


 それが、これからの時間みたいだと思った。

 ゆっくりでいい。

 温めていけば、いい。


 「祝福を」


 長老が、告げる。


 その瞬間、村人たちの拍手が一斉に弾けた。


 「おめでとー!」

 「凛ちゃん、綺麗だよぉ!」

 「レオン、笑え! 今日くらい笑え!」

 「ほら、口の端、上げてみろ!」

 「無理だってさ!」


 笑い声と、拍手と、誰かの口笛と。

 エルザさんが、両手で顔を押さえて、肩を揺らしている。


 私の目にも、また熱いものが溜まった。

 けれど、朝の「ひとりの涙」とは少し違う。

 これは、みんなと分け合う涙だ。

 分け合っても、減らない。


 レオンが、ほんの少しだけ私に近づいた。


 「凛」

 「はい」

 「倒れるなよ」

 「倒れません」

 「無理は」

 「しません」

 「本当か」

 「本当です」

 「……うん」


 「うん」が自然に出ることが、嬉しい。


 昔の私なら、敬語で壁を作っただろう。

 頷きながら、自分を押し殺しただろう。

 でも今の私は、頷いて、頼って、笑える。




 式のあとは、広場の長机に料理が並んだ。


 焼きたてのパン。

 煮込み。

 果実酒。

 甘い焼き菓子。


 誰かが弾く小さな楽器の音に、子どもたちの足音が重なる。


 「花嫁さん、こっちこっち!」

 「レオン、顔がこわいよ!」

 「もっと、こう、にこって!」

 「無理を言うな」

 「無理じゃないってばー!」


 村人たちに囲まれて、レオンが珍しく居場所に困っている。

 その様子に、私は笑ってしまった。

 笑っても、もう痛くない。


 エルザさんが、隣に座った。

 うつわを、私の手に押しつけてくる。


 「食べなさい」

 「はい」

 「今日くらい、いっぱい食べていいんだよ」

 「……今日くらい、じゃなくて」


 私は、ちゃんと言い直した。


 「これからも、です」

 「……あんた」

 「はい」

「あんた、ほんとうに、ここまで来たねぇ」

「エルザさんが、連れてきてくれたんです」

「あたしじゃないよ。あんたが、自分の足で来たんだよ」

「……はい」

「うん。それでいい」


 「これからも」。

 その言葉が、こんなに自然に出てくる日が来るなんて。


 私はふと、自分の手を見た。


 昔の私の手は、治すためだけにあった。

 光を灯し、命を削り、笑顔を作り、倒れるまで動いて——それでも「足りない」と言われる手だった。


 でも今の手は。


 パンをちぎって、湯気を受け止めて。

 子どもの頭を撫でて。

 薬草を束ねて、弟子に教えて。

 そして、隣の人の手を握る。


 それだけで、ちゃんと「生きている」。




 夕方、宴の喧騒が少し落ち着いた頃。

 私は広場の端へ抜けて、冷たい空気を吸った。

 空は淡い紫で、山の輪郭が柔らかい。


 足音が、近づいてきた。


 「ここにいたのか」

 「……はい。ちょっとだけ」

 「疲れたか」

 「いいえ。逆です」

 「逆?」

「みんなの嬉しさを、ちょっとずつ整理してました」

「……整理」

「はい。落とさないように」


 レオンが、隣に立つ。

 肩が触れそうな距離なのに、息が苦しくない。

 逃げ場を、探さなくていい距離。


 「レオン」

 「ああ」

 「ひとつ、聞いてもいいですか」

 「なんだ」

「あなたは、今日、幸せですか」


 彼は、空を見上げた。

 しばらく黙ってから、低く答えた。


 「ああ」

 「ほんとに?」

 「ほんとだ」

 「短いですね」

 「足りないか」

 「足ります」

「足りるなら、それでいい」


 私は、空を見上げた。

 胸の奥に残っていた最後の硬さが、夜風みたいに抜けていく。


 泣く理由を、探さなくてもいい。

 頑張った証明を、並べなくてもいい。


 ただ、言いたいから言う。


 「幸せです。本当に」

 「……そうか」

 「はい」

「俺もだ」


 短い言葉の代わりに、私の指先に、彼の指が触れた。

 握りしめない。

 引っ張らない。

 ただ、そこにいることを伝えるだけの触れ方。


 夕日が、山の向こうへ落ちる。

 残った光が、雲の縁を薄い金にした。


 その金色の中で、レオンが私を見た。


 「凛」

 「はい」

 「明日も、起きたら言え」

 「何をですか」

 「……幸せだって」

「明日もですか」

「明日もだ」

「明後日も?」

「明後日もだ」

「ずっと?」

「ずっとだ」


 私は、頷いた。

 頷きながら、もう一度だけ涙をこぼした。


 悲しみでも、義務でも、誰かの痛みを代わりに抱えるためでもない。


 初めて、私は自分の幸せのために泣いていた。


 ——「凛へ。やっと、自分のために泣けたね」。


 手帳の余白に浮かんだあの返事が、今、夕日の縁から私に届いた気がした。


 遠くで、礼拝堂の鐘が、もう一度だけ鳴った。

 高くはない、けれど、空にまっすぐ伸びていく音。

 その音が消えるまで、私は、レオンの指の温度を、ただ確かめていた。



ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。


 『「もう頑張らなくていい」と無口な騎士に言われた瞬間、私は十二年ぶりに自分のために泣いた——使い潰された聖女の、辺境で始める二度目の人生』、全三十九話、これにて完結となります。


 第一アーク「聖女の逃走編」では、神殿で「大丈夫です」と笑い続けた凛が、レオンに連れ出され、辺境の朝のパンの匂いに触れて、初めて息をした瞬間を描きました。

 第二アーク「偽りの神殿編」では、歴代聖女たちが命を削られてきた真実を凛が知り、自分の意思で王都へ戻り、大神官の搾取構造そのものに「お断りします」を突きつけました。

 そして第三アーク「私のための涙編」では、凛が「役目」ではなく「凛」として、レオンの隣に立つことを選びました。


 最終話のタイトル「初めて自分のために泣きました」は、第一話を書き始めた瞬間から、ここに辿り着くために決めていた一文でした。

 誰かのためじゃない涙を、凛がようやく自分に許す——その瞬間まで、彼女と一緒に長い回り道を歩いてくださった読者の皆さまに、心からの感謝を申し上げます。


 ブックマーク・評価・ご感想、ひとつひとつが執筆の力になりました。

 「自分も大丈夫って言うのをやめてみます」「凛と一緒に泣きました」というお声を読むたびに、この物語を書いてよかったと、私自身が救われていました。


 頑張りすぎてしまうあなたへ。

 今日くらい、じゃなくて、これからも。

 どうか、自分のために泣いていい夜が、たくさん訪れますように。


 またどこかの物語で、お会いできますように。


 歩人あゆと

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