失脚
2009年:獄界町
獄界町は、目に見えて荒廃の兆しを見せていた。
かつての米田組と小原一家片山派、そして半グレ集団『魔瑠狗須』の激突に始まり、善輪会内紛の一環として行われた『閻魔爛弩』や大北組による無差別的な襲撃により、街のインフラと住民の精神は疲弊しきっていた。
無残に破壊されたままの店舗、その前に悲しげにたたずむ人々、表情を強張らせてパトロールを繰り返す警察官たち。さらに、大北組の柏原が遺した謀略の種――街に送り込まれた半グレの残党どもが、統制を失ってあちこちで醜い利権争いの喧嘩を始め、それに伴って違法薬物が急速に蔓延しつつあった。
長らく米田組と小原一家という「地元の極道」が身を挺して守り続けてきた裏の秩序は、今、底から崩れかけようとしていた。
そんな喧騒の裏、米田組本部事務所の奥では、疲れ切った様子で米田組若頭兼小原一家総長の星山が、組員から傷の手当てを受けていた。東条の手斧に抉られた太ももの傷は深く、痛々しい包帯が巻かれていく。その傍らの椅子には、大病から奇跡の復帰を遂げた組長の米田が、静かに腰掛けていた。
「とりあえず、柏原のタマは取れたようで良かった。ご苦労だったな、星山。――それで、奴の部下どもはどうした?」
「柏原が圧倒的な恐怖と権力でまとめ上げていた組織だったようで、トップが死んだ途端に一斉にパニックを起こしました。何人かは抵抗してきたので俺たちで殺し、何人かは逃亡、残りは白旗を上げましたね。……ただ、柏原の右腕を務めていた東条だけは、現場に乱入してきた謎の男に拉致されました」
「謎の男?」
「ええ。奇妙な男でした。まるで時代錯誤な忍者のような装束を身に纏い、鮮やかな手裏剣術と煙幕を使って闇に消えました」
その言葉を聞いた瞬間、老練な米田の顔が僅かに狼狽に強張った。
「何だと……! 忍びの者か……。まだ生きていたとはな……」
「忍びの者? オヤジ、何か知っているんですか」
米田は煙草に火をつけ、苦い煙を吐き出しながら遠い目を基調にした。
「ああ。忍者のような格好をした連中を、若い頃に一度だけ見たことがある。当時、原山太闘会の下っ端だった俺は、上の命令で赤田組と密売の荷物を運んでいた。サツや敵対組織に目を付けられないよう、ボロい軽自動車に荷物を積んでな。だが、どこからか情報が漏れたようで、敵対組織の奴らが7台のバイクで襲撃してきたんだ。当時は大きな抗争もなく、ただの運び仕事だと思って武器を持っていなかった俺は、本気で死を覚悟したよ。――その時だ、奴らが現れたのは」
米田の目が、当時の恐怖と興奮を思い出すように鋭くなる。
「突然、近くのビルの屋上に影が現れたかと思うと、手裏剣のような鉄片を投擲して、襲撃者のバイクのタイヤを悉くブチ抜いた。それから日本刀を携えた5人ほどの影が音もなく降り立ち、混乱する襲撃者たちを一言も喋らずに全員斬り捨てて、また闇に消えちまったんだ」
「なんと……。一体、何者なんですか、そいつらは」
「分からん。だがな、俺たち古参のヤクザの間では、まことしやかに囁かれている噂がある。――明治の世に入った時に消滅したはずの『忍者』の一部は、今も地下に潜んで血脈を繋いでいるとな」
「その忍者が、この善輪会抗争に参戦してきた……と?」
「可能性としては否定できん。」
米田は静かに答え、深く考え込むように腕を組んだ。
4日後:桜零街 大北組本部
重苦しい空気が満ちる大北組の本部会議室では、緊急幹部会議が開かれていた。
上座に座る組長の摂津が、感情を一切排した冷徹な声で口を開く。
「柘榴町に置いていた、対獄界極道の作戦本部が瓦解した。柏原のタマが取られたようだ。……東条は行方不明だ」
その報告に、会議室の随所から驚きとざわめきが広がった。
だが摂津は、眉一つ動かさずに淡々と続けた。
「柏原の葬儀は、先に死んだ貝妻と共に執り行えるよう、白鳥組に働きかけているところだ。それよりも大事なのは、この抗争の指揮系統を根本的に見直す必要があるんじゃないかということだね。――そう思うだろう、松原?」
矛先を向けられた若頭の松原は、真っ直ぐに摂津を見返した。
「ええ。貝妻のやり方も柏原のやり方も、結果として獄界町の極道に致命的なダメージを与えることはできませんでした。しかし、彼らの画策した波状攻撃で獄界町の情勢は限界まで不安定化しています。もう一押しすれば、あそこは自滅するはず。ですから、次の作戦は――」
「ああ、ちょっと待った、ちょっと待った」
摂津が不躾に手を挙げ、松原の言葉を遮った。
「そもそも、柏原や貝妻を前線で指揮していた『最高責任者』は、若頭である君だよな?」
「……私は最初から蚊帳の外でしたよ、オヤジ」
松原の静かな反論に、摂津は細い目をさらに険しく細めた。
「それはどういう意味かな?」
その声は穏やかであったが、底冷えするような怒りが滲み出ていた。
「この抗争における作戦の設計者は、すべて柏原です。そして、彼の作戦を若頭の私を飛び越えて直に承認していたのは――オヤジ、あんたです」
「つまり何かね……。君は勇敢に散っていった身内の柏原や貝妻にすべての責任を押し付け、彼らを死なせた自分には一切の責任がないと、そう言いたいわけだ。それが大北組若頭としての姿勢と言えるのかね?」
「そうだぞ松原! カシラとして、お前が真っ先に責任を取るべきだろうが!」
摂津の言葉に同調して勝ち誇ったように叫んだのは、舎弟頭の鬼頭だった。
しかし、松原は一歩も引かなかった。
「お言葉ですが叔父貴。あなた方『摂津派』は、先代若頭の桑田派出身である私を徹底的に疎み、あらゆる意思決定の場から排除してきた。雑務や責任の泥仕事だけは若頭として私に押し付けながら、大北組の利権に関わる重要な事項については、すべてあなた方摂津派の幹部だけで決めてきた。――これは一体、どういうことです!?」
「困ったねえ……。まさか私の前で、これほど醜く歯向かうとはね」
摂津はわざとらしく溜息をつき、傍らに立つ組長付きの直系組員に顎をしゃくった。
「錦田、カシラを少し落ち着かせてきてくれ」
「へい。……カシラ、一回執務室へ戻りましょうや」
錦田が松原の肩へ手をかける。
「分かりましたよ、オヤジ。――では最後に、これだけは置いていきます」
松原は冷ややかに言うと、胸ポケットから一つのUSBメモリを取り出し、鬼頭の目の前のテーブルへ放り投げた。
「な、何だこれは!」
「私が、もう二度とオヤジを信用できない理由のすべてが詰まっています。では」
松原は穏やかに、しかし断固とした力で錦田の腕を振りほどくと、毅然とした足取りで会議室を後にした。
残された鬼頭は困惑しながらUSBメモリを拾い上げ、事務局次長の織田に手渡した。
「よくわからんが、そこのパソコンで再生してみろ」
織田は一礼してそれを受け取ると、自身のノートパソコンに挿入し、中に保存されていた音声ファイルを再生した。スピーカーから、ノイズ混じりではあるが、はっきりと聞き取れる二人の男の会話が流れ出した。
『てめえ、俺を誰だと思ってやがる!? 大北組の副本部長、東条だぞ!』
『……東条だな』
『分かってて拉致したのかこの野郎! 放せ!』
『ああ。あんたに一つ、どうしても聞きたいことがあるんだ。――あんたさ、4年前の「増沢事件」の実行犯じゃねえのか?』
『な、何を根拠に! そんな訳ねえだろうが。あの事件にゃ、うちの先代のカシラだった桑田の兄貴も巻き込まれて被弾してんだぞ!』
『そうか。確かにあんたのところの桑田若頭が、増沢社長と会食している最中に襲撃を受け、重傷を負ったんだったな』
『そうだ! あの事件の真犯人は未だに分かっちゃいねえが、うちとは無関係だ! 増沢の利権を狙った、どこぞの外部の組織の仕業に決まってる。よく考えろ忍者野郎、仮に俺が深口に増沢の襲撃を……あ!』
『……深口? 誰だそれは。増沢社長を襲った実行犯の名前など、警察でさえ把握していないはずだが』
『く、クソ……!』
『やっぱり、あんたが犯人か』
『そ、そうだよ! ああ、俺がやったよ! で、それが分かったところでどうするんだ? てめえは増沢のあの不細工な未亡人にでも雇われたのか!?』
『雇い主の正体は俺も知らない。ブローカー経由の仕事だ。だが、確実に分かっているのは、俺の雇い主が増沢事件の「本当の黒幕」を突き止めたがっているということだ』
『そうかよ……じゃあ、吐いたんだから俺はもう帰っていいんだな?』
『まだだ』
『あぁん!? 俺を早いところ帰さねえと、大北組が黙っちゃいねえぞ』
『まあ落ち着け。お前の真のターゲットは本当に増沢社長だったのか? ――桑田若頭を襲撃するための「カモフラージュ」だったんじゃないのか?』
『く、クソ、てめえ、そこまで……!』
『俺の山勘、まさか一発で当たるとはな』
『お、オヤジに言われてやっただけだ!!』
『オヤジ……?』
『せ、摂津組長だよ!! 穏健派の桑田が、大北組の先代の跡目を継ぐことなんて、俺たち摂津派としては絶対に容認できねえことだったんだよ!』
『だから、増沢社長の襲撃に見せかけて桑田を殺そうとしたのか』
『そうだ! 外部の組織の目ばかり気にする臆病者に、これからの組織を率いる器はねえと、当時の摂津若頭補佐は言っていたし、俺もその通りだと思った! 桑田さえ死ねば、跡目は若頭代行に繰り上がった摂津のオヤジが受け継ぐことになるからな! 俺はオヤジから「どうにかして桑田を排除したい」と直々に相談を受けた。だから、やらせたんだよ! 当時、殺しを得意にしていた「深口組」の連中にな!』
『深口組か……。今は確か、善竜会(原野派)の傘下に収まっている独立組織だな。――話は分かった。もういいぞ』
『い、いいのか? だったら、頼むから俺を海外に逃がしてくれ! てめえの雇い主にはこのまま報告していい! だが大北組の内部にこの桑田殺しの情報が流れたら、俺の命はねえ! 桑田派の奴らは当然激怒するし、何より冷酷な摂津のオヤジは、確実に俺を口封じのために殺しにくる!』
『分かった。では、天城会の縄張りで解放してやろう』
音声が途切れた瞬間、大北組本部の会議室は、水を打ったような完全な沈黙に包まれた。
上座に座る摂津の顔面から、みるみるうちに血の気が引き、真っ青に変色していく。
「は、ハハハ……! 松原の野郎、とんだ精巧なフェイク音声を作ってくれたものだな。ついに気が狂ったか?」
取り繕うとした摂津の声は、隠しようもなく小刻みに震えていた。
その刹那、舎弟頭の鬼頭が激昂して机を激しく叩きつけた。
「ふざけるな!! 摂津! ――俺も当時は桑田の穏健路線に反発しちゃいたがな、奴を殺した黒幕が、身内のあんただったなんて話は聞いてねえぞ! 兄弟、一体どういうことだ!」
「だ、だからね、これは松原が仕組んだ捏造で……」
「馬鹿野郎! そんな言い訳が通るか!」
怒鳴り声を上げたのは、摂津の忠実な側近であったはずの錦田だった。その目は裏切られた怒りと絶望で血走っている。
「今日の会議を見て確信しましたよ。松原のカシラはあんたに不満を持っていた。だがな、あいつは誰よりも死んだ桑田に忠実だった! そんな筋の通った男が、敬愛する兄貴の死を、自分の権力奪取のためのフェイク音声に使うわけがねえだろうが!」
「錦田の言う通りだ! あんた、俺たちは扱いやすいからという理由だけで、桑田派の残党を抑えるために松原をカシラに据えたはずだった。あいつは最初から組長の椅子に興味なんてなかった! そんな男がこんな手の込んだ捏造をするか!?」
会議室の幹部たちが一斉に立ち上がる。桑田派の幹部はもちろん、これまで摂津を支えてきたはずの摂津派の武闘派幹部までもが、一課に摂津を憎悪の目で見下ろしていた。
「あんたが善竜会に協力していたのも、大北組の未来のためなんかじゃねえ。傘下に収まった深口組から、桑田殺しの真相を知った原野に脅されていたからだろう。善竜会と共に古き良き善輪会を取り戻すというあの熱い大義名分は、すべて自分の保身のための嘘だったわけだ!」
「兄弟。これは、今まであんたを信じてきた俺たちの、せめてもの恩情だ」
鬼頭が悔しさに涙を流しながら、静かに首を振った。
「身内殺しは極道として絶対に許されん外道だ。だが、あんたをこの手で殺したくはねえ。――大北組の組長を、今すぐ辞めてくれ」
「待て、待て! お前たち、なぜこんな出所不明の音声を信じるんだ……!」
摂津が周囲を見回すが、誰一人として味方は残っていなかった。
「兄弟が引退しねえなら、俺は今すぐこのバッジを叩き割って組を抜けるぜ」
「俺もだ! 外道の身内殺しに付き合えるか!」
四面楚歌に追い詰められた摂津は、ついに理性を失って顔を歪めた。
「く、クソが……! 松原の野郎、絶対にぶっ殺してやる!」
摂津が懐からピストルを引き抜き、会議室の出口へと狂ったように走り出そうとした、その瞬間だった。
背後から飛び込んできた影が、摂津の背中に鋭利な刃物を深々と突き立てた。
「がはっ……!?」
摂津の口から大量の鮮血が噴き出し、ピストルを取り落として床へと激しく倒れ込んだ。
「すいません、オヤジ……。もう、あなたの哀れな醜態を見ていられなかった……」
震える手でドスを引き抜いた錦田は、その場にへたり込み、子供のように泣き崩れた。自らの手で親を殺めざるを得なかった、極道の悲劇だった。
自室に戻っていた松原は、温厚な彼にしては珍しく、激情を剥き出しにして拳で机を何度も叩きつけていた。
「クソッ……! オヤジ……あんたが、桑田の兄貴を……! 俺たちの親が、そんな外道な真似をしていたなんて……!」
松原は、自分が大北組の若頭に任命されたあの日のことを鮮明に思い出していた。
あの日、摂津は松原の手を固く握り、確かにこう言ったのだ。
『君が尊敬していた桑田のカシラと、私は確かに仲が悪かった。だがね、これからは派閥の垣根をなくしてやっていこう。桑田派の君にとっては、摂津派の私がトップに立つのは気に入らないかもしれない。だがね、私たちは、先代と桑田のカシラ亡き後のこの大北組を、共に正しい道へ導いていかなければならないんだよ』
その温かい言葉を信じたからこそ、松原はかつての派閥対立をすべて水に流し、摂津に命を懸けて忠誠を尽くす若頭になると決意したのだ。だが、すべては欺瞞だった。摂津の正体は、ライバルを冷酷に暗殺し、その死を利用して組長の椅子を策謀でもぎ取っただけの、浅ましい詐欺師に過ぎなかったのだ。
――ドン!!
突如として、廊下の奥から乾いた銃声が響き渡った。会議室の方向からだ。
松原はハッと顔を上げると、弾かれたように部屋を飛び出した。
松原が血相を変えて会議室に駆け込んだ時、床の血の海に倒れた摂津は、すでに虫の息だった。だが、入ってきた松原の姿をその薄れゆく視界で認識すると、摂津は自嘲気味に、無理やり声を絞り出した。
「あぁ……松原、か。……すべて、バレてしまったようだな。全く……馬鹿な真似を、したものだよ……。やっぱり、私は……父親が、大嫌いだ……。権力、なんかを求めると……碌なことに、ならないな……」
松原はかつて、摂津から彼の実の父親についての愚痴を聞かされたことがあった。
摂津の父親は、表の社会で非常に優秀な代議士であったが、その本性は恐ろしく冷酷な男だったという。母親を妻としてではなく、自らの出世のための「忠実な部下」のように扱い、それに絶望した母親は、まだ幼かった摂津一人を残して家出をし、そのまま姿を消した。しかし、父親は妻がいなくなっても全く悲しまず、息子に対して毎日のようにこう言い続けた。
『母さんのことは忘れなさい。とにかく、お前は私の後を継いで権力を得るんだ。人間、権力を持たなければ生きている価値などないのだから』
摂津は高圧的な父親を憎み、優しかった母親を恋しがっていたが、数年後、母親とは最悪の形で再開することになる。母親は裏社会の凄惨な暴力団抗争に巻き込まれ、理不尽に命を落としたのだ。
その悲報を知った摂津が泣き崩れる中、父親が放ったのは、たった一言だった。
『私の要求に応えることができなかった、無能な女の末路だな』
その血も涙もない父親の姿を見た瞬間、摂津は家を飛び出した。父親から議員秘書として支給されていた給料をすべて裏社会へつぎ込み、母親の死に関わった広域暴力団「熊笹義和会」を内部から破滅させるため、敵対組織であった善輪会に潜り込んだのだ。
結果として、摂津は熊笹義和会を叩き潰し、復讐を果たした。だが、悲劇的なことに、父親を誰よりも憎んでいたはずの摂津の魂には、幼少期から父親に刷り込まれ続けた「権力への異常な執着」という呪いが、深く根を張って残ってしまっていたのだ。仲間さえも道具のように扱い、謀略でトップへ上り詰めることしか考えられなくなっていた己の醜悪な姿は、あの忌々しい父親そのものだった。
だが、死に際の摂津の顔は、驚くほど穏やかだった。
「多分、お袋は……死後の世界でも、こんな私には会いたくないだろうな……。自分を奴隷のように扱っていたあの親父みたいに、仲間を道具にしか思っていなかった私なんか……絶対に、嫌いだろう。……まあ、お袋はきっと天国に行っている。……私は、あ、うう……間違いなく地獄行き、だな。……は、はは……ハハハ……」
ゴフッ、と大量の血を吐き出し、摂津は松原や幹部たちに看取られながら、哀れに権力を追い求め続けたその生涯を静かに閉じた。大北組という巨大な組織が、内側から完全に崩壊した瞬間だった。




