蠢く巨悪
2009年 獄界町
「……やっと、シャバの空気が吸えるな」
寝台の上で身体を起こしながら、米田組長が小さく息を吐いた。
「オヤジ、ご無理なさらないでください!」
傍らで見守っていた星山が慌てて手を差し出し、痛みの残る米田の腰をそっと支える。
「ふん、無理をしてんのは俺じゃなく、お前の方だろうがよ」
包帯塗れの星山を見て、米田は苦笑した。
数ヶ月前、善輪会の本部長・韮澤が、会長代行である穂村を暗殺者の凶弾から命懸けで守り、死亡した。さらにその場に居合わせた米田組長も銃撃され、生死の境を彷徨う大怪我を負った。
米田組若頭である星山にとって、絶大な後ろ盾であった韮澤の死と、実の親同然である米田の不在というダブルパンチは、精神的にも肉体的にも限界に近い絶望だった。
それだけに、米田組の絶対的な精神的支柱である米田がこうして帰還したことは、組員たちにとって涙が出るほど喜ばしいことだった。
5日後 蔵部町:白鳥組事務所
厳粛かつ重苦しい空気の中、善輪会本部長・韮澤の追悼式が執り行われていた。
会場となったのは、古株の有力組織『白鳥組』の事務所だ。先代舎弟頭(現在は植物状態にある武田会長の叔父にあたる)の徳永が顧問を務める組織で、今回の善輪会内部抗争においては徹底して「中立」を表明している。
大広間には、車椅子に身を預ける徳永や、白鳥組組長の観山のほか、善輪会理事長兼会長代行の穂村、原山太闘会の会長代行・川田、善輪会副理事長の木戸といった最高幹部らが居並び、その末席に米田と星山ら下部組織の面々が頭を垂れていた。
善輪会の歴史において、最も格式高い友好組織である白鳥組の敷地を汚すことは最大のタブーとされている。そのため原野派(善竜会)が襲撃してくる可能性は極めて低いとされていたが、事務所の周囲は下部組織の極道、臨時で雇われた『アロウ警備』の武装警備員、そして抗争を警戒する警察の機動隊車両が何重にも取り囲む、文字通りの厳戒態勢だった。
そんな中、一台の漆黒のリムジンが滑り込んできたことで、外の空気が一気にざわついた。
「まさか……こんな場所に、あの男が直々に現れるとはな」
警察車両の影から双眼鏡を覗いていたマル暴の富山刑事が、動揺を隠せず呟いた。
大広間に、慌てた様子で白鳥組の若い衆が駆け込んできた。
「ん? どうした」
観山組長が怪訝そうに眉をひそめる。
「は、荒木組の……布山代行が、お見えになりました!」
「何だと!?」
徳永顧問が声を荒らげ、広間ににわかに動揺の波が広がった。
静まり返る会場へ、ゆっくりと、しかし圧倒的な威風を纏って荒木組組長代行・布山が入ってきた。
「皆さん、そんなに怖い顔で見ないでくださいや。かつての同胞の死を悼むのは、極道として当然の務めでしょう」
「……なぜ、あの男が」
穂村は膝の上で拳をわななかせ、低く呪うように呟いた。
善輪会と布山の間には、深い血の因縁がある。かつて武田会長の下で善輪会理事長という最高ポストに就いていた布山だったが、武田との激しい意見対立の末、自身の組織ごと善輪会を割って出たのだ。さらに、今回の抗争の引き金となった「武田会長襲撃事件」の黒幕ではないかとも囁かれている男だった。
布山は悠然と歩みを進め、上座の徳永の前に立つと、薄笑いを浮かべて問いかけた。
「私は、どこへ座ればよろしいですかね?」
徳永は不快感を隠そうともせず、冷徹に言い放った。
「――善輪会外部の人間は、最後列へ」
「なるほど、承知した」
布山は素直に頷くと、最後列へと移動し、空いていた席に腰を下ろした。……奇しくも、そこは星山の真隣だった。
布山は横目で星山を捉え、声を潜めて話しかけてきた。
「噂はかねがね聞いているよ、星山君。この抗争、随分と大活躍じゃないか」
警戒心を最大まで跳ね上げながらも、星山は極道の声音で応じる。
「私のような若輩者に目を留めていただき、恐悦至極に存じます」
「なあに、風の噂じゃあ、原野派は穂村代行よりもあんたを警戒しているらしい。奴ら、次は全力であんたの首を獲りにくるぞ」
「へえ……それは原野副会長がそう仰っていたのですか?」
星山が嫌味を込めてカマをかけると、布山は口元を歪めてみせた。
「うーん、そこまでは情報を得ていないから分からんな」
4日後 獄界町
笹山はカウンター越しに、星山へ一枚のプリントを手渡した。
そこには、韮澤本部長を暗殺し、米田組長を負傷させたあの軍服の男の顔写真と、詳細な経歴が記されていた。
星山は書類に目を落とし、低く呟いた。
「……大串大吾。元自衛官、その後は中東で傭兵、か」
「そのようだね。ただ、自衛隊を退官した経緯がどうにもきな臭い。そっち方面の専門の情報屋を当たってみたんだがね、情報が不自然なほど綺麗に『隠蔽』されているんだよ」
「国の防衛機密ってわけですか。闇が深いな……。中東での戦歴や、帰国後の足取りも空白だらけだ」
「ああ。だが、私の知人の見立てじゃあ……こいつは退官後も、表向きはフリーの傭兵を装って、国の極秘任務を帯びて中東へ渡っていた可能性が高い」
「政府の不正規戦要員……」
「そうだ。米軍やイスラエル軍特殊部隊の作戦に同行していた形跡がある。もしかしたら、アメリカ側から日本政府へ直接要請があった泥仕事を請け負っていたのかもな。だからこそ、経歴のすべてが国権によって消去されているんだ」
「なるほど……」
星山は腕を組み、鋭い目を笹山に向けた。
「しかし、そんな国家の庇護を受けるような怪物が、なぜ今さら日本の極道の抗争に介入し、穂村さんを狙う必要があるんです?」
「……正直、そこが一番の謎だ。中東の仕事が終わって民間の殺し屋に転身し、原野派に大金で買われたと見るのが自然だが、裏社会の暗殺ルートにもこいつの名前は一切挙がってこない。そもそも……この『大串』という名前すら、偽名かもしれん」
「……とんでもねえ化け物と戦わされてるみたいだな」
星山は深く眉をひそめ、吐き捨てるように呟いた。
2日後 福岡県・師屋町:荒木組本部
布山は荒木組組長用の重厚な革椅子から立ち上がると、目の前のプロジェクターを操作し、壁面へ暗号化された映像を投影した。
スクリーンに映し出されたのは、不気味な黒い仮面を被った5人の人物――。
その5名の影に対し、布山は極道としての傲慢さを捨て、深々とお辞儀をした。
「『宴主』の皆様、ご機嫌麗しゅう」
仮面の一人が、冷徹な声で口を開いた。
『ご苦労、布山。善輪会の様子はどうだ』
「あの追悼式の空気から察するに、大黒柱である韮澤を失ったダメージは計り知れません。穂村派には星山という化け物じみた四次団体組長がいますが、あれはあくまで前線の武力に過ぎない。本部長という頭脳を失った穂村派の弱体化は、もはや避けられんでしょう」
『……なら、対する善竜会(原野派)の動きはどうかしら?』
別の、女の『宴主』が尋ねる。布山はにやりと邪悪な笑みを浮かべた。
「奴らもガタガタですよ。星山の野郎が、大北組の直系幹部を何人もあの世へ送りましたからね」
『ふむ……すべては我々のシナリオ通り、というわけか。これで善輪会全体の力が完全に削がれる』
しわがれた声の男が満足そうに呟く。
その後、少し若い声をした別の『宴主』が、冷酷なトーンで布山へ最後の言葉を告げた。
『――この調子で、引き続き双方を煽り立ててくれたまえ。……期待しているよ、エージェントD』




