7. ごめんなさい……でも、あなたは……誰なの?
窓の外からは、村人たちの叫び声とゴブリンたちの不快な奇声が聞こえていた。レグルはクララとシルラの前に立ったまま、何もできずに動けなくなっていた。シルラはその場に座り込み、ただ一点を見つめたまま、周囲で何が起きているのかさえ分からないように、何の反応も示していなかった。
「どうしたの……?」
クララは視線を逸らした。何かを話そうとしているのは明らかだったが、言葉にするための力がなかなか出てこないようだった。
「その……昔、お母さんも冒険者だったの……。ある日、ギルドから受けた依頼で、お母さんは仲間を全員失った。大勢のゴブリンに襲われて、みんな殺されたの。お父さんが地下迷宮でお母さんを見つけた時には……服も何も身につけていない状態だった。それ以来、ゴブリンを見ると何も話せなくなって、こうなっちゃうの……」
レグルが一歩近づくと、シルラは大きく目を見開き、怯えたように後ずさった。その姿は、目の前にいるのが見知った人間ではなく、逃げ場のない場所まで追い詰められた恐ろしい敵であるかのようだった。
「いや……来ないで……助けて……いや……」
「お母さん、大丈夫だよ。もう安全だから」
(どうすれば、彼女を助けられる……?)
「回答:彼女の過去の記憶を消去すれば、症状は改善します」
(何だって? 記憶を消す? でも、どうやって……?)
「回答:彼女の額に手を当て、魔法を詠唱してください」
(そんなこと、今まで一度もできなかったぞ……)
レグルはさらに一歩前へ進んだ。シルラはすでに壁際まで追い詰められており、レグルには、まるで逃げ場を失って隅へ追い込まれた小さな子犬のように見えた。
「警告:彼女はすべての記憶を失います」
(え……?)
もう他に選択肢はなかった。過去の記憶をすべて失ったとしても、彼女が再び普通に生きられるようになるのなら、そのほうがいいのではないか。レグルはそう思ってしまった。
彼はシルラの前で片膝をついた。
「レグル……? 何をするつもりなの?」
クララが驚いた表情で見つめる中、レグルは怯えているシルラの額へ、そっと手を当てた。
「ごめん、クララ……。きっと、これが一番いいんだ……」
「シャーク!」
レグルが魔法を唱えると、シルラの瞳が淡く輝き始めた。そして、ゆっくりとその目が閉じられ、シルラはそのまま意識を失った。
「お母さん! 何をしたの!?」
「ごめん……。彼女の記憶を消した」
「どうして……!?」
「これでいいんだ。彼女は自分に起きたことをすべて忘れた。もう大丈夫だ。目を覚ましたら、君たちが誰なのかを教えてあげればいい。そして、冒険者だった頃の過去については話さないでくれ」
クララはその場で立ち尽くし、レグルの言葉を信じられないというように呆然とした。
「お母さんは……私のことを忘れたの? お父さんも? 妹のことも? 全部……忘れちゃったの?」
レグルは俯いたまま、何も答えなかった。
その沈黙こそが、クララにとってすべての答えだった。
クララは数秒間、母親をじっと見つめていた。まるで、レグルが今にも「全部嘘だった」と言ってくれることを願っているかのようだった。しかし、レグルは俯いたまま何も言わなかった。彼自身も、自分が正しいことをしたという確信などまったくなかった。ただ、過去の記憶によって普通に生きることさえできなくなっていた人を目の前にして、自分に与えられた力を使っただけだ。だが今、クララの姿を見ていると、そもそも自分に他人の人生を左右するような決断をする権利があったのかと、レグルは初めて考えさせられた。
「あなた……本当に、お母さんから全部奪ったの?」
「……分からない」
「お母さんはこれで楽になるって言ったじゃない!」
「ああ……」
「だったら、どうしてそんな顔をしてるの!? 自分の言葉を信じてないみたいじゃない!」
レグルは拳を強く握りしめ、視線を逸らした。何か答えようとはしたものの、今の自分に相応しい言葉が見つからなかった。彼のスキルは、人間の記憶すら変えてしまえる力を与えた。しかし同時に、その力を使う責任まで背負わせたのだ。それは、これまで自分のスキルを「役立たず」だと思い込んでいたレグルにとって、あまりにも重いものだった。かつての彼は、他の勇者パーティーのメンバーと同じように戦うことすらできない自分のスキルを、ただ弱いだけの能力だと思っていた。ところが、たった一晩の間に、この世界には存在しない物を生み出し、無限収納まで使いこなし、さらには人間の記憶にまで干渉できることを知ってしまった。「クリエイター」について知れば知るほど、レグルは自分自身がその能力について何も知らないのだと痛感していく。
「俺は……彼女を傷つけたかったわけじゃない」
クララは何も答えなかった。ただゆっくりと母親の隣に腰を下ろし、その手をそっと握った。数秒後、シルラの身体がわずかに動き、小さな呻き声が漏れる。レグルはすぐに一歩後ろへ下がり、クララも緊張した表情で母親の顔を見つめた。
「お母さん……?」
シルラはゆっくりと目を開いた。そして、周囲の光に慣れようとするように何度か瞬きをする。その視線がクララの顔で止まり、シルラは数秒間、目の前にいる少女が一体誰なのか理解しようとするかのように、ただじっと見つめていた。
「ここは……どこ?」
シルラはゆっくりと身体を起こし、片手を床につきながら不安そうに部屋を見回した。視線は壁や家具、そして見覚えのないレグルの顔へと移っていったが、目に映る何一つとして彼女の中に記憶を呼び起こすことはなかった。表情だけを見れば落ち着いているようにも見える。しかし、その瞳には、突然まったく知らない場所へ放り出された人間のような戸惑いが浮かんでいた。
「お母さん!」
クララはもう我慢できなかった。勢いよくシルラへ駆け寄ると、その身体を強く抱きしめる。まるで、もう一度母親を失ってしまうことを恐れているかのように、クララの目には涙が浮かんでいた。レグルはそんな二人を黙って見つめながら、胸の奥がどんどん重くなっていくのを感じていた。すでに答えは分かっている。それでも、もしかしたら奇跡が起きて、すべてが元通りになっているのではないかと、心のどこかで期待していた。
シルラはしばらくクララに抱きしめられたまま動かなかった。やがて、恐る恐るクララの肩に手を置くと、そのまま少しだけ身体を離した。そして、目の前にいる少女の顔をじっと見つめる。どこかに見覚えがないか、必死に記憶を探しているようだった。
しかし――何も思い出せない。
「…………ごめんなさい……でも、あなたは……誰なの?」




