第9話 Good Day‼
旅には、終わりがある。
けれど、その終わりはいつも静かで、気づけばそっと肩に触れるように訪れる。
雲雀蒼空にとって、この二日間の十一便は、ただの移動でも、ただの修行でもない。
雲を抜けた朝、宮古の衝撃、那覇の湿度、福岡で走った足音——
そのすべてが、彼女の中に確かな“飛んだ証”として積み重なっていく。
この物語は、そんな蒼空が空と地上を行き来しながら、自分だけの軌跡を刻む章です。
どうぞ、彼女の視界と呼吸に寄り添いながら読んでください。
おかえり、蒼空。
羽田に着いたのは、二十一時過ぎだった。
今日だけで七便。
羽田→那覇→宮古×3→那覇→福岡→羽田。
F-15のスクランブルで四十五分遅れて、
腕をつかまれて走って、明太子は買えなかった。
でも、全部乗りきった。
一便も落とさなかった。
蒼空は羽田のターミナルを歩きながら、
今日で獲得予定のFCを頭の中で計算した。
アレキサンドライトまでの距離が、今日だけでかなり縮まった。
明日の三便で、もう少し近づく。
悪くない。
全然、悪くない。
* * *
ホテルは羽田空港の近くを取ってあった。
チェックインして、部屋に入った。
バッグを床に下ろす。
トレンチを脱ぐ。
パンプスを脱ぐ。
ベッドに倒れ込んだ。
天井を見た。
ホテルの天井は、自分の部屋の天井と違う。
でも今日はそれでいい。
どこで寝ても、明日また飛べるなら同じだ。
スマートフォンを取り出した。
明日のフライトプランを確認する。
羽田→伊丹。伊丹→羽田。羽田→帰宅。
シンプルだ。
でも、これで修行が完成する。
蒼空はスマートフォンを胸の上に置いて、目を閉じた。
明日も飛ぶ。
それだけで、もう眠れる気がした。
* * *
翌朝、目が覚めたのは五時五分だった。
アラームより五分早い。
飛ぶ日の朝は、身体が勝手に起きる。
昨日と同じだ。
シャワーを浴びた。
昨日ほど丁寧にはしなかった。
でも、ちゃんと浴びた。
メイクをした。
昨日と同じコーデ。
同じワンピース、同じトレンチ、同じパンプス。
修行中はそういうものだ。荷物を増やさない。
鏡を見た。
昨日と同じ顔だった。
それでいい。
* * *
朝食はホテルのビュッフェを使った。
普段なら素通りするところだが、今日は食べた。
昨日、機内食を食べなかった。
今日も走ることになるかもしれない。
補給は大事だ。
トーストと、スクランブルエッグと、コーヒー。
それだけ取って、窓際の席に座った。
窓の外に、飛行機が見えた。
早朝の羽田、出発を待つ機体が並んでいる。
今日もたくさんの飛行機が、たくさんの場所へ飛んでいく。
蒼空はコーヒーを飲みながら、その景色を眺めた。
朝ごはんを食べながら飛行機を見る。
それだけのことが、妙に満ち足りた気持ちにさせた。
* * *
八便目、羽田→伊丹。
飛行時間、約一時間。
離陸して、雲を抜けたら、もうすぐ着く。
そのくらいの短さだ。
でも蒼空は窓から目を離さなかった。
短くても、空は空だ。
一時間でも、雲の上にいられる。
それだけで十分だ。
大阪が近づいてきた。
眼下に、街の広がりが見えた。
伊丹空港が見えてきた。
着陸した。
ドンッ、という衝撃はなかった。
宮古よりずっと穏やかな着陸だった。
蒼空は少し物足りない気持ちになった。
* * *
伊丹空港に降り立った。
乗り継ぎ時間、五十分。
折り返し便で羽田に戻る。
売店を眺めた。
大阪土産が並んでいる。
551の豚まん。大阪チョコ。
昨日買えなかった明太子のことを、一瞬思い出した。
でも今日は買わない。
もう帰りの便だ。荷物を増やしたくない。
搭乗口の前のシートに座った。
ここまで来た。
羽田を出て、那覇に飛んで、宮古を三往復して、福岡経由で羽田に戻って、一泊して、また羽田を出て、伊丹に来た。
あと一便。
伊丹から羽田に戻れば、修行は完成する。
蒼空はスマートフォンを開いて、FCの合計を確認した。
今日の二便を加えると、アレキサンドライトまでの距離がさらに縮まる。
数字を見た。
じわりと、胸の奥が温かくなった。
飛んだ証だ、と蒼空は思った。
ステータスなんて、飾りじゃない。
飛んだ距離の、飛んだ時間の、飛んだ回数の、証明だ。
数字の一つ一つに、空が詰まっている。
* * *
九便目、伊丹→羽田。
最終便だった。
機内に入って、席に座った。
シートベルトを締める。
窓から外を見る。
伊丹の空は、昼過ぎの光に満ちていた。
離陸した。
大阪の街が窓の下に広がって、山が見えて、海が見えて、また山が見えた。
富士山が、遠くに白く浮かんでいた。
蒼空はそれをぼんやりと見ながら、この二日間を思い返した。
羽田から雲を抜けた朝。
那覇の濃い青空。
宮古の着陸衝撃と、宙を舞ったコーヒー。
同じクルーとの「またお会いしましたね」。
F-15の迫力と、腕をつかまれて走った福岡。
買えなかった明太子。
羽田近くのホテルで眺めた、朝の飛行機。
全部、自分が飛んだ証だ。
数字に換算すれば、FCとマイルになる。
でも数字じゃない部分も、ちゃんとある。
どちらも本物だ。
* * *
羽田に着陸した。
機体が滑走路を走って、止まった。
ドアが開いた。
蒼空は席を立った。
荷物を棚から取り出す。
通路に出る。
ボーディングブリッジを歩きながら、思った。
終わった。
感慨深い、というほどではない。
ただ、終わった。
やりきった。
ターミナルに入った。
空港の空気が流れ込んでくる。
いつもの空港の匂い。
でも今日は、少し違う意味を持っている気がした。
お疲れ様、と誰かに言いたい気持ちになった。
でも言う相手がいない。
いなくてもいい。
蒼空は自分に言った。
声には出なかった。
* * *
電車に乗って、家に向かった。
車内は夕方の混雑が始まりかけていた。
スーツを着たサラリーマン。学校帰りの学生。買い物袋を持った主婦。
いろんな人間が、いろんな場所から帰ってくる。
蒼空もその中の一人だった。
でも、今日の自分は少し違う。
この車両の中で、この二日間に何便乗ったか計算できる人間は、たぶん自分だけだ。
それが誇らしいとか、特別だとか、そういうことではない。
ただ、そうだ。
それだけだ。
* * *
無事に自宅に帰ってきた。
玄関のドアを開ける。電気をつける。
靴を脱ぎながら、バッグを床に落とす。拾わない。
トレンチを脱ぐ。クローゼットの取っ手に引っかける。
ワンピースを脱ぐ。
引き出しから芋ジャージを引っ張り出す。上下、エンジ色。
いつもの装備だ。
洗面台でコンタクトを外す。
眼鏡をかける。
黒縁、黒フレームの。
鏡の中に、いつもの雲雀蒼空がいた。
蒼空はしばらく鏡を見た。
メイクが少し崩れていた。二日分だ。落とさなければ。
でもその前に、やることがある。
* * *
ローテーブルの前に座った。
ノートPCを開く。
JSNのマイレージサービスにログインする。
今回の修行で積算されたFCとマイルが、反映されていた。
数字を見た。
アレキサンドライトまでの距離。
蒼空は画面をじっと見た。
計算する。
次の修行でどこまで行けるか。
次はいつ飛べるか。
どのルートが最適か。
指がキーボードに向かいかけた。
でも今日は、やめた。
PCを閉じた。
ソファに深く沈み込んで、天井を見た。
この二日間で、九便飛んだ。
那覇、宮古、福岡、伊丹。
F-15を見た。コーヒーが宙を舞った。明太子は買えなかった。同じクルーに何度も会った。
全部、自分が飛んだ日だ。
蒼空は目を閉じた。
今日は。
Good Day‼
声には出なかった。
でも確かに、そう思った。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
蒼空が積み上げたFCやマイルは、単なる数字ではなく、確かに“飛んだ時間”そのものです。
那覇の青、宮古の着陸衝撃、F-15の轟音、走り抜けた福岡、買えなかった明太子——
どれも旅の一部であり、蒼空の物語の一部でした。
そして最後に芋ジャージへ戻る瞬間まで含めて、すべてが“今日”という一日の証。
もしあなたの中にも、忘れられない旅の記憶があるなら、この章がそっと重なっていたら嬉しいです。
また次の空で会いましょう。
Good Day!!




