第8話 明太子が買えなかった
旅には、思い通りにいかない瞬間が必ずある。
それでも前へ進むのは、その先に“飛ぶ時間”が待っていると知っているからだ。
雲雀蒼空にとって、那覇と宮古の往復はただの移動ではなく、空の中で自分を確かめるための儀式だった。
そして今日、思わぬ遅延や走る乗り継ぎさえ、旅の一部として静かに受け入れていく。
この章は、蒼空が空の世界に深く馴染みながらも、地上の不確かさと向き合う物語です。
どうぞ、彼女の息づかいとともに読み進めてください。
おかえり、蒼空。
那覇→宮古を、もう一往復した。
五便目、六便目。
宮古の着陸衝撃は、三回目になっても慣れなかった。
毎回ドンッと来る。
たぶん一生慣れない。それでいいと思っている。
同じクルーにはもう会わなかった。
乗務が終わったのか、別の便に移ったのか。
それはそれで、よかった。
「またお会いしましたね」は、何度も続くより、あの回数がちょうどよかった気がする。
* * *
七便目、那覇→熊本。
本来の予定は、那覇→羽田の直行便だった。
でも満席で取れなかった。
発売と同時に確認したが、すでに残席わずかで、気づいたら埋まっていた。
仕方ない。直行が取れないなら、乗り継ぎにすればいい。
那覇→福岡→羽田のルートに変更した。
乗り継ぎ時間は一時間。余裕がある。
福岡空港なら、明太子も買える。
蒼空にとって、それは小さな楽しみだった。
修行の最後に、明太子を買って帰る。
完璧なルートの、完璧な締めくくり。
那覇空港の搭乗口で、蒼空はそれを密かに楽しみにしていた。
* * *
搭乗して、席に座った。
シートベルトを締める。
今日七便目。身体は疲れているはずだ。
でも疲れている感じがしない。
飛んでいる間は、いつもそうだ。
機内アナウンスが流れた。
ドアが閉まった。
プッシュバックが始まった。
機体がゆっくりと後ろに動き始めた。
そのとき、アナウンスが入った。
「お客様にお知らせいたします。現在、航空自衛隊機の緊急発進により、滑走路の使用が一時的に制限されております。出発までしばらくお待ちください」
蒼空は窓の外を見た。
滑走路の向こうに、空自のF-15が見えた。
二機。
エンジンを全開にして、滑走路に向かっている。
その迫力は、旅客機とは別物だった。
低く、速く、鋭い。
大きく左にターンして雲間に消えていく。
かっこいい、と蒼空は思った。
でも次の瞬間、乗り継ぎ時間の計算をしていた。
現在時刻、十七時二十分。
福岡着予定、十八時五十分。
羽田行きの出発、十九時五十分。
乗り継ぎ時間、一時間。
この遅延が、どこまで響くか。
* * *
F-15は、あっという間に飛んでいった。
でも滑走路の復旧に時間がかかった。
機体は駐機場で待機したまま、時間が過ぎていく。
十分。
二十分。
三十分。
蒼空は計算し続けていた。
三十分遅れなら、乗り継ぎは三十分になる。
走れば間に合う。
走れば。
四十分。
乗り継ぎ二十分。
保安検査なしの国内線乗り継ぎだから、搭乗口まで直行できる。
でも福岡空港の構造を頭の中で思い浮かべた。
那覇便の到着ゲートから、羽田行きの搭乗口まで、どのくらいかかるか。
走れば、ギリギリいける。
たぶん。
明太子は、無理かもしれない。
蒼空は窓の外を見ながら、静かに諦めた。
* * *
ようやく動き始めた。
結局、四十五分遅れで離陸した。
乗り継ぎ時間は、十五分になった。
十五分。
蒼空は机を引き出して、スマートフォンで福岡空港の構造を確認した。
到着ゲートから搭乗口まで、早足で八分。
走れば五分。
搭乗締め切りまで、ギリギリだ。
でも、いける。
機内食は手をつけなかった。
食べている時間があったら、降機の準備をしておきたい。
シートベルトを締めたまま、荷物の位置を確認した。
棚から素早く取り出せるように、バッグの持ち手を手前に向けておく。
蒼空の頭の中は、もうすでに福岡空港の中にあった。
* * *
福岡空港に着陸した。
ドアが開いた瞬間に立ち上がった。
荷物を棚から引き出す。
前の乗客の後ろに、ぴったりついて歩く。
ボーディングブリッジを小走りで抜ける。
ターミナルに入った瞬間、アナウンスが聞こえた。
「羽田行き、JSN便にご搭乗のお客様、雲雀様、いらっしゃいますでしょうか」
蒼空は手を挙げた。
グランドスタッフが走ってきた。
腕をつかまれた。
文字通り、つかまれた。
「こちらです、急いでください」
走った。
空港の通路を、グランドスタッフと並んで走った。
パンプスで走った。走れる靴にしておいてよかった、と思った。
ローヒールにしておいてよかった、と思った。
売店の前を走り抜けた。
明太子が見えた。
棚に並んでいる、福岡土産の明太子。
一瞬だけ、目が合った。
買えない。
そのまま走り抜けた。
後ろ髪がちょっとだけ、引かれた気がした。
* * *
搭乗口に着いた。
グランドスタッフがゲートを開けた。
「お急ぎのところ失礼いたしました。どうぞ」
「……ありがとうございます」
息が上がっていた。
蒼空はボーディングブリッジを歩きながら、呼吸を整えた。
機内に入った。
乗客の視線が集まるのを感じた。
最後に乗り込んできた乗客を、みんな一度見る。
あれだ。
席に座った。シートベルトを締めた。
ドアが閉まった。
蒼空は座席に深く沈み込んで、天井を見た。
間に合った。
ちゃんと間に合った。
F-15のせいで四十五分遅れて、乗り継ぎが十五分になって、腕をつかまれて走って、明太子は買えなかった。
でも、間に合った。
乗れた。
* * *
機体が動き始めた。
タキシング。滑走路へ。
離陸。
福岡の街が窓の下に広がって、すぐに夜の海になった。
もう暗い。今日は長かった。
蒼空はぼんやりと窓の外を見ながら、思った。
明太子、買えなかったな。
それだけだった。
悔しいとか、残念とか、そういう大げさな感情ではない。
ただ、買えなかったな、と思った。
次に来たときに買おう。
また来る。
たぶん、また来る。
次は直行便が取れるといいが、取れなければまた福岡乗り継ぎでもいい。
そのときは、ちゃんと時間に余裕を持って、売店に寄ろう。
蒼空は目を閉じた。
羽田まで、あと少し。
今日はまだ、終わっていない。
読んでくださって、ありがとうございます。
F-15のスクランブル、遅延、走る乗り継ぎ、買えなかった明太子——
どれも旅の“予定外”だけれど、蒼空にとっては確かに今日の旅路を形づくる大切な出来事でした。
空の上では軽くなり、地上では思い通りにならない。
その揺らぎの中で、蒼空は自分のペースで前へ進んでいく。
もしあなたにも、旅の中で忘れられない“予定外”があるなら、この章がそっと寄り添えていたら嬉しいです。
次の空へ、また一緒に。
Good Day!!




