第20話 最後の修行
旅の終わりは、いつも静かに訪れる。
雲雀蒼空にとって、アレキサンドライトは特別な称号ではなく、
ただ“飛んだ証”が形になる地点にすぎない。
だから今日も、特別な感慨はない。
ただ、飛ぶ。
雲を抜け、海を見て、空の色を胸に刻む。
その積み重ねの先に、結果があるだけだ。
この章は、蒼空が最後の修行へ向かう朝から、
一便ずつ空を重ねていく姿を描いた物語です。
どうぞ、蒼空の呼吸と歩幅に合わせて、
この“静かな熱”を感じながら読んでください。
おかえり、蒼空。
目が覚めたのは、四時十五分だった。
アラームより三分早い。
飛ぶ日の朝は、身体が勝手に起きる。
いつもそうだ。
でも今日は、少し違った。
天井を見ながら、蒼空は思った。
今日が、最後の修行だ。
このルートを飛び切れば、アレキサンドライトに届く。
特別な感慨は、なかった。
ただ、今日飛ぶ。
それだけだった。
さあ、起きよう。
* * *
シャワーを浴びた。
スキンケアをした。
メイクをした。
今日のコーデは、前回と少し違う。
ネイビーのワンピース。
グレーのトレンチ。
同じローヒールのパンプス。
鏡を見た。
今日の自分だ。
クローゼットを閉めた。
バッグを確認した。
全部、ある。
財布の中に、株主優待券が二枚残っている。
今日で使い切る。
* * *
家を出たのは、五時ちょうどだった。
外はまだ暗かった。
でも空気が違った。
今日の空気は、少し軽い気がした。
蒼空は空を見上げた。
雲がある。薄い雲だ。
雲があるなら、抜けられる。
駅に向かった。
* * *
羽田空港に着いた。
自動ドアをくぐった。
空港の空気が流れ込んできた。
いつもの匂い。いつもの光。いつもの音。
蒼空の目が、変わった。
保安検査の優先レーンに向かった。
トレイに荷物を置く。パンプスを脱ぐ。トレンチを畳む。
ゲートをくぐる。
ビープ音はしなかった。
制限エリアに入った。
案内板を確認する。
那覇行きの便名。搭乗口、三番。定刻通り。
蒼空は一瞬だけ立ち止まった。
今日で、届く。
声には出なかった。
でも確かに、そう思った。
* * *
一便目、羽田→那覇。
離陸した。
雲を抜けた。
一面の青が広がった。
いつもそうだ。
何度見ても、これだ。
蒼空は窓から目を離さなかった。
今日はこの空を、何度見るだろう。
那覇まで、那覇から宮古まで、宮古から那覇まで、また那覇から羽田まで、羽田から伊丹まで、伊丹から羽田まで。
何度も雲を抜ける。
何度も空が広がる。
何度見ても、飽きない。
それが好きだった。
コーヒーが来た。
ブラックで頼んだ。
一口飲んだ。熱くて苦かった。
よし、と思った。
声には出なかった。
* * *
那覇に着いた。
乗り継ぎ、七十分。
ラウンジに入った。
コーヒーを一杯取って、窓際の席に座った。
那覇の空が見える。
青い。濃い。南の空だ。
スマートフォンを開いた。
今日ここまでのFCを確認した。
一便分。
アレキサンドライトまでの残り。
数字を見た。
今日の残り五便を飛べば、届く。
計算は合っている。
何度確認しても、合っている。
スマートフォンをしまった。
コーヒーを飲んだ。
ラウンジの窓から、駐機している機体が見えた。
次に乗る機体だ。
整備士が周りを歩いている。
お世話になります、と蒼空は思った。
声には出なかった。
* * *
二便目、那覇→宮古。
離陸した。
海が見えた。
エメラルドグリーンから、コバルトブルーへ。
着陸した。
ドンッ。
いつもの衝撃だ。
慣れない。
たぶん一生慣れない。
それでいい。
コーヒーは飲み切っていた。
今回は宙を舞わなかった。
少しだけ、物足りなかった。
折り返しの搭乗口に向かった。
宮古空港の売店を眺めた。
雪塩のキャラメルがあった。
前回買わなかったやつだ。
今日は買った。
ポケットに入れた。
帰りの電車で食べよう。
* * *
三便目、宮古→那覇。
同じルート。同じ海。
でも、光の角度が変わっていた。
午後の那覇の空は、午前より少し重い色をしている。
着陸した。
那覇に戻ってきた。
乗り継ぎ、五十分。
ラウンジには入らなかった。
搭乗口の前のシートに座って、窓の外を見た。
那覇の空が、少しずつオレンジに変わり始めていた。
夕方が近い。
蒼空はその色を見ながら、思った。
もう三便飛んだ。
残り三便。
那覇→羽田→伊丹→羽田。
今日が終わったら、届く。
* * *
四便目、那覇→羽田。
夕暮れの那覇を離陸した。
オレンジの空が、窓の外に広がった。
蒼空はしばらく、その色を見ていた。
今日何度目の離陸だろう。
四回目だ。
四回目でも、離陸の瞬間は別物だ。
毎回、地上が遠くなる。
毎回、何かが置いていかれる。
機体が高度を上げる。
雲に入る。
白くなる。
そして。
抜けた。
夕暮れの空は、オレンジと紺が混ざっていた。
地平線の向こうに、太陽が沈みかけていた。
雲の絨毯が、その光を受けてオレンジに染まっていた。
蒼空は息を呑んだ。
何度見ても、これだ。
今日飛んだから、この景色を見られた。
それだけで、今日は十分だった。
* * *
羽田に着いた。
乗り継ぎ、四十分。
地下通路を歩いた。
動く歩道に乗りながら、次の搭乗口を確認した。
伊丹行き、第三ターミナル、搭乗口二十一番。
動く歩道が、蒼空を運んでいく。
通路の蛍光灯が、頭上を流れていく。
あと二便。
* * *
五便目、羽田→伊丹。
短い。
離陸して、雲を抜けたら、もうすぐ着く。
でも蒼空は窓から目を離さなかった。
短くても、空は空だ。
一時間でも、雲の上にいられる。
それだけで十分だ。
大阪が近づいてきた。
伊丹空港が見えた。
着陸した。
折り返しの搭乗口に向かった。
売店を見た。
大阪土産が並んでいる。
今日は買わなかった。
ポケットの中に、宮古の雪塩キャラメルがある。
それで十分だ。
* * *
六便目、伊丹→羽田。
最終便だった。
機内に入って、席に座った。
シートベルトを締めた。
窓から外を見た。
夜の伊丹空港だった。
滑走路の灯りが、青と白と赤に光っている。
離陸した。
大阪の夜景が広がった。
光の海だった。
無数の灯りが、地上に広がっている。
蒼空はその景色を見ながら、思った。
これが最後の便だ。
感慨深い、というほどではない。
ただ、最後だ。
今日の、最後の便だ。
機体が高度を上げる。
夜景が小さくなっていく。
雲に入る。
白くなる。
抜けた。
夜の空は、深い紺だった。
星が見えた。
雲の絨毯の上に、星が光っていた。
蒼空はしばらく、その景色を見ていた。
地上がどんな状態でも、雲の上はいつも晴れている。
夜でも、そうだ。
いつも、そうだ。
羽田まで、あと少し。
今日は、飛んだ。
全部、飛んだ。
一便も落とさなかった。
蒼空は目を閉じた。
アレキサンドライトまでの数字が、頭の中にあった。
家に帰ったら、確認する。
届いているはずだ。
計算は合っている。
でも今は、まだ空の上だ。
今はまだ、飛んでいる。
それだけでいい。
今は、それだけでいい。
読んでくださって、ありがとうございます。
蒼空が積み重ねてきた時間と距離が、
今日の六便でついにひとつの形になろうとしています。
石垣の青、宮古の衝撃、那覇の夕暮れ、伊丹の夜景——
どれも数字には換算できない“飛んだ証”です。
アレキサンドライトは、努力の象徴ではなく、
蒼空が空を愛し続けた結果として自然に辿り着く場所。
その最後の一歩を、彼女は静かに、迷いなく踏み出していく。
もしあなたにも、積み重ねた時間が形になる瞬間があるなら、
この章がそっと寄り添えていたら嬉しいです。
Good Day!!




