第19話 陸のこと
旅を重ねると、人は少しずつ変わる。
そして、その変化に最初に気づくのは、案外いちばん近くにいる人間だったりする。
雲雀蒼空にとって、空を飛ぶことは自分を保つための大切な行為だ。
一方、弟の陸にとって蒼空は、放っておくと倒れそうな“地上の姉ちゃん”だった。
けれど今、二人の距離は静かに変わり始めている。
空港という場所を通して、陸は蒼空の“もうひとつの顔”を知り、
蒼空は陸の言葉の変化に気づく。
この章は、そんな二人の関係が新しい段階へ進む瞬間を描いた物語です。
おかえり、蒼空。
土曜日の夕方、陸が来た。
インターホンが鳴る前に、蒼空は気づいていた。
足音が、陸のものだったから。
このアパートの階段の音を、蒼空は無意識に覚えていた。
ドアを開けた。
陸が立っていた。
片手にスーパーの袋、もう片手にコンビニの袋。
いつも通りだ。
「差し入れ」
「ありがとう」
陸が入ってきた。
靴を脱いで、キッチンに向かう。
蒼空はソファに戻った。
いつも通りだった。
でも、少し違う気がした。
* * *
陸がキッチンに立っている音がした。
蒼空はPCを開きながら、その音を聞いていた。
包丁の音。まな板の音。フライパンが温まる音。
いつもと同じ音だ。
でも陸の動きが、少しだけ違う気がした。
何が違うのか、うまく言えない。
ただ、何かが違った。
蒼空は画面に目を向けながら、考えた。
先週、陸が来たとき。
冷蔵庫に作り置きを入れてくれて、帰り際に「ちゃんと食べて」と言った。
それはいつも通りだった。
でも、帰り際の陸の顔が、少し違った気がした。
何かを考えているような顔だった。
でも何も言わなかった。
蒼空も何も聞かなかった。
* * *
夕飯ができた。
今日は豚汁と、鶏の照り焼きだった。
蒼空は席に座って、箸を取った。
「いただきます」
「どうぞ」
一口食べた。
美味しかった。
陸の料理は、いつも美味しい。
食べながら、陸を横目で見た。
陸はスマートフォンをいじっていた。
いつも通りだ。
でも、たまにこちらを見ていた。
さりげなく。
でも、見ていた。
蒼空は気づいていた。
気づいていないふりをしていた。
* * *
「姉ちゃん、最近どこ行った?」
陸が聞いた。
豚汁を飲みながら、さりげなく。
「石垣と鹿児島」
「また飛行機?」
「うん」
陸は少し間を置いた。
「一人で?」
「うん」
「……そっか」
それだけだった。
追いかけてこなかった。
詮索しなかった。
蒼空は照り焼きを食べながら、陸の横顔を見た。
何かを知っている顔だ、と思った。
どこまで知っているかは分からない。
でも、何かを知っている。
聞こうと思った。
でも、やめた。
聞く必要がなかった。
陸が何を知っていても、蒼空の生き方は変わらない。
フライトプランは今日も更新されている。
それだけだ。
* * *
食事が終わった。
陸が食器を片付けた。
蒼空はソファに座って、PCを開いた。
次の修行のフライトプランが、画面に映っている。
アレキサンドライトまでの、最後の修行。
ルートはもう決まっている。
羽田→那覇→宮古→那覇→羽田→伊丹→羽田。
FCの計算も終わっている。
このルートを飛べば、届く。
「何してるの」
陸がソファの横に座って、画面を覗いた。
「フライトプラン」
「また修行?」
「うん」
「いつ?」
「来週末」
陸は画面を見た。
スプレッドシートに並んだ、フライト番号と時刻と空港コードと数字。
しばらく見ていた。
「……よく分からないけど、すごいな」
陸が言った。
蒼空は少し驚いた。
陸がそういうことを言うのは、珍しかった。
「何が」
「全部。こんなに考えて、計画して、一人で飛んで。よく分からないけど、すごいと思う」
蒼空は画面を見たまま、少し黙った。
よく分からないけど、という部分が、正直でよかった。
分かったふりをしない。
でも、すごいと言う。
それが陸だった。
「別にすごくない」
「すごいよ」
「……そう」
それだけだった。
でも、悪くなかった。
* * *
陸が帰る時間になった。
玄関で靴を履きながら、陸が言った。
「来週末、気をつけてね」
「うん」
「ちゃんと食べて」
「食べる」
「空港でも」
「……食べる」
陸がドアを開けた。
「じゃあね」
「うん」
ドアが閉まった。
蒼空は玄関に立ったまま、しばらくそこにいた。
来週末、気をつけてね。
陸はいつも「ちゃんと食べて」と言う。
でも今日は、「空港でも」と言った。
空港、という言葉が出た。
陸の口から。
蒼空は少し考えた。
やっぱり、何かを知っているんだと思った。
どこまで知っているかは、分からない。
でも、空港に行っていることは、知っている。
聞かなかった。
陸も言わなかった。
それでいい。
説明する必要はない。
理解してもらう必要もない。
ただ、陸が「気をつけてね」と言った。
それだけで、十分だった。
* * *
部屋に戻った。
PCを開いた。
フライトプランの画面が戻ってきた。
来週末、アレキサンドライトに届く。
蒼空は画面を見ながら、思った。
飛んだ証が、もうすぐ手に入る。
誰かに説明しなくても、数字が全部語ってくれる。
飛んだ量の、飛んだ時間の、飛んだ距離の、証明。
それが欲しかった。
ずっと、それが欲しかった。
指がキーボードに向かった。
「……来週、絶対行く。絶対飛ぶ。アレキサンドライト、取る、」
独り言が、静かに部屋に消えた。
誰にも届かない。
届かなくていい。
ただ、来週の空が待っている。
フライトプランは、今日も更新された。
読んでくださって、ありがとうございます。
陸が「空港でも」と言った一言には、蒼空の世界を理解しようとする気配が宿っています。
蒼空の修行は孤独なものだけれど、完全に一人ではない。
陸の作る豚汁や照り焼き、作り置きのタッパー、
そして「気をつけてね」という言葉が、蒼空の地上を支えている。
その支えがあるからこそ、蒼空はまた空へ飛び立てる。
アレキサンドライトまで、あと一歩。
その一歩を踏み出す蒼空の背中を、陸も、読者も、静かに見守っている。
次の空で、また物語が動き出します。
Good Day!!




