第16話 ただいまー
人は、身近すぎる存在の“本当の姿”を、案外いちばん知らない。
雲雀陸にとって姉・蒼空は、生活感が強くて放っておくと倒れそうな人間だった。
けれど空港で見たあの背中は、彼の知る姉とはまったく違う誰かだった。
その違和感が、今日ついに形を持つ。
クローゼットの隙間から覗いた色、玄関から帰ってきた姿、そして“空の蒼空”と“地上の蒼空”が重なる瞬間。
この章は、陸が初めて姉の世界の一端に触れ、静かに価値観が揺らぎ始める物語です。
どうぞ、その揺れを味わいながら読んでください。
おかえり、蒼空。
足音が近づいてくる。
俺はクローゼットのドアに手をかけたまま、動けなかった。
閉めなきゃ。
でも、なぜ閉めなきゃいけないのか、自分でも分からない。
ただ、閉めなきゃと思っていた。
リビングのドアが開いた。
姉ちゃんが入ってきた。
ディープテラコッタのワンピース。
ベージュのトレンチコート。
ローヒールのパンプス。
トートバッグとショルダーの二個持ち。
メイクをしている。
髪が整っている。
背筋が伸びている。
俺の知っている姉ちゃんじゃなかった。
* * *
一秒くらい、お互い動かなかった。
姉ちゃんが俺を見た。
俺が姉ちゃんを見た。
「あ、来てたの」
姉ちゃんが言った。
いつもの声だった。
普通の、姉ちゃんの声。
「……うん」
俺は返した。
自分の声が、少しおかしかった。
姉ちゃんはトレンチを脱ぎながら、クローゼットに向かってきた。
俺はまだ、クローゼットのドアに手をかけていた。
「どいて」
姉ちゃんに言われた。
俺は一歩横にずれた。
姉ちゃんがクローゼットのドアを開けた。
トレンチを取っ手に引っかけた。
ワンピースを脱いだ。
ハンガーにかけた。
引き出しから芋ジャージを引っ張り出した。
上下、エンジ色。
いつものジャージに着替えた。
洗面台に向かった。
コンタクトを外す音がした。
眼鏡をかける音がした。
戻ってきた。
いつもの姉ちゃんがいた。
* * *
俺は、まだ動けなかった。
姉ちゃんはローテーブルの前に座って、PCを開いた。
画面を見ながら、小さく独り言を言い始めた。
「……那覇経由か、直行か、直行のほうがFCは、でも乗り継ぎがあったほうが……」
俺は姉ちゃんの背中を見ていた。
芋ジャージ。
黒縁眼鏡。
床に座って、PCの画面に前のめりになっている。
いつもの姉ちゃんだ。
でも、さっきまでのあの姿が、頭から離れない。
ディープテラコッタのワンピース。
ベージュのトレンチ。
背筋の伸び方。
三日前、空港で見た女と、同じだった。
全部、同じだった。
* * *
姉ちゃんが振り返った。
「肉じゃが?」
「……うん」
「いい匂いがする」
「もうすぐできる」
俺はキッチンに戻った。
鍋の中で、肉じゃがが煮えていた。
じゃがいもに串を刺した。
ちょうどいい柔らかさだった。
火を止めた。
器に盛った。
手が、少し震えていた。
* * *
食卓に並べた。
姉ちゃんが席に着いた。
いただきます、と言って、箸を取った。
俺も座った。
でも、なかなか箸が動かなかった。
「美味しい」
姉ちゃんが言った。
いつもの、抑揚の少ない声で。
「……よかった」
俺は答えた。
姉ちゃんは肉じゃがを食べながら、スマートフォンを見ていた。
JSNのアプリを開いていた。
空席を確認しているのか、何かを計算しているのか。
俺は姉ちゃんの横顔を、こっそり見た。
眼鏡。ノーメイク。芋ジャージ。
スマートフォンを見ながら、肉じゃがを食べている。
あの人と、同じ人間だ。
どうしても、信じられなかった。
* * *
「姉ちゃん、週末どこ行ってたの」
俺は聞いた。
さりげなく聞いたつもりだった。
「羽田」
姉ちゃんが言った。
俺は箸を止めた。
「羽田?」
「うん」
「……何しに」
「飛びに」
やっぱりそうか、と思った。
でも、まだ信じたくなかった。
「飛行機に乗ってたの?」
「うん」
「一人で?」
「うん」
「……どこ行ったの」
「那覇と宮古」
「往復?」
「三往復」
俺は姉ちゃんを見た。
姉ちゃんはスマートフォンを見ながら、肉じゃがを食べていた。
何でもないことみたいに言った。
本当に、何でもないことだから。
* * *
俺は、しばらく何も言えなかった。
三往復。
那覇と宮古を、三往復。
一人で。
羽田空港にいたのは、そういうことだったのか。
あの背中は、あのトレンチは、あの歩き方は。
全部、姉ちゃんだったのか。
「陸?」
姉ちゃんが俺を見た。
「……何でもない」
俺は箸を動かした。
肉じゃがを食べた。
味がよく分からなかった。
* * *
食事が終わった。
姉ちゃんはまたPCの前に戻った。
独り言が始まった。
「……石垣か、いや那覇経由のほうが、でもFC的には……」
俺は食器を洗いながら、その声を聞いていた。
あの空港で見た女が、今ここで独り言を言っている。
芋ジャージを着て、眼鏡をかけて、床に座って。
なんか、すごいな、と思った。
かっこいいとか、きれいとか、そういうことじゃなくて。
ただ、すごいな、と思った。
姉ちゃんは、ずっとこういう人間だったんだ。
俺が知らなかっただけで。
* * *
帰り際、玄関で靴を履きながら、俺は姉ちゃんを見た。
PCの前で、猫背で前のめりになっている。
もう俺のことは、頭にないかもしれない。
「じゃあね」
「うん」
ドアを閉めた。
外に出た。
夜の空気が冷たかった。
俺はしばらく、アパートの前に立っていた。
あの空港で見た女が、姉ちゃんだった。
ほっとけないと思っていた姉ちゃんが、
空港では誰よりも自分のペースで歩いていた。
俺が心配しなくても、
姉ちゃんは姉ちゃんの世界でちゃんと生きていた。
それが、なんか。
よかったような。
悔しいような。
どっちでもあるような。
俺は空を見上げた。
夜の空に、飛行機の灯りが見えた。
赤と白の点滅が、ゆっくりと移動していく。
あの中に、姉ちゃんみたいな人間がいるのかもしれない。
空が自分の場所だと思っている人間が。
俺には、まだよく分からない。
でも、悪くないな、と思った。
飛べた日は、Good Day‼
姉ちゃんが言っていた言葉を、俺は初めて少しだけ、分かった気がした。
読んでくださって、ありがとうございます。
陸が空港で見た“知らない誰か”と、家で倒れている“姉”が同じ人物だったと気づく瞬間は、
蒼空というキャラクターの二面性がもっとも鮮やかに浮かび上がる場面でした。
空でだけ背筋が伸び、迷いなく歩き、世界の中心に立つような姉。
地上では芋ジャージで床に転がり、プリンを喜ぶ姉。
どちらも本物で、どちらも蒼空。
陸がその事実を受け止めたとき、彼の中で“飛ぶ”という言葉の意味が変わり始める。
その変化が、この物語のこれからを静かに動かしていきます。
次の空へ、また一緒に。
Good Day!!




