第15話 ワンピース
それは偶然のようでいて、どこか必然めいている。
雲雀陸にとって、空港で見かけたあの背中は、ただの通りすがりではなかった。
理由もなく目が止まり、理由もなく心に残り、理由もなく忘れられない。
そして今日、姉の部屋で見つけた一枚の布が、その感覚を静かに裏返す。
気づきたくない気づきが、そっと形を持ち始める瞬間。
この章は、陸の世界が音もなく揺らぎ始める物語です。
どうぞ、その震えを感じながら読んでください。
おかえり、蒼空。
週末の昼過ぎ、俺は姉ちゃんの部屋に向かった。
スーパーで食材を買った。
鶏肉、玉ねぎ、じゃがいも。
肉じゃがを作るつもりだ。
姉ちゃんが好きだから。
好きだというのは、一度だけ言っていた。
一度だけ。
でも俺は覚えている。
コンビニでプリンも買った。
姉ちゃんは甘いものを、たまに食べる。
バランス栄養食じゃない、ちゃんとした甘いもの。
* * *
姉ちゃんのアパートのインターホンを押した。
しばらく待った。
出ない。
もう一度押した。
「……はい」
眠そうな声がした。
「俺、陸。差し入れ」
「……開いてる」
鍵が開いていた。
これはこれで問題だと思ったが、今日は言わないことにした。
ドアを開けた。
姉ちゃんは床に転がっていた。
芋ジャージ、眼鏡、ノーメイク。
ローテーブルの上にPCが開いている。
画面には、よく分からない表が映っていた。
「また倒れてんの」
「休んでた」
「同じじゃん」
いつものやりとりだ。
俺はキッチンに向かった。
* * *
肉じゃがを作った。
鶏肉を切って、玉ねぎを切って、じゃがいもを切る。
フライパンで炒めて、だしと醤油と砂糖を入れて、煮る。
キッチンに立ちながら、俺はぼんやりと考えていた。
空港で見たあの女のことを、まだたまに思い出す。
あれから三日経った。
でも、たまに出てくる。
なんでだろう、と思う。
顔もはっきり見ていないのに。
鍋の中で、じゃがいもが煮えていく音がした。
* * *
できあがるまで、少し時間があった。
火を弱めて、リビングに戻った。
姉ちゃんはまだ床に転がっていた。
PCの画面を見ながら、小さく独り言を言っていた。
「……石垣か、那覇経由か、でもFCが、どっちだ……」
俺には何の話か分からなかった。
でも、姉ちゃんがPCの前でこういうことをしているのは、知っている。
いつもそうだ。
何かを調べている。何かを計算している。
聞いたことがある。
「何してるの」と。
「フライトプランを組んでる」と言った。
意味が分からなかった。
それ以上聞かなかった。
* * *
何気なく、部屋を見回した。
姉ちゃんの部屋はいつも散らかっている。
床にバッグが落ちている。
テーブルの上に何かの袋がある。
クローゼットのドアが、半開きになっていた。
別に珍しくない。
いつもこうだ。
でも今日は、目が止まった。
クローゼットのドアの隙間から、何かがはみ出ていた。
服だ。
裾が、外に出ていた。
色は、ディープテラコッタ。
* * *
俺は、その色を知っていた。
三日前。
羽田空港の到着ロビー。
人混みの中を、まっすぐ歩いていた女。
ディープテラコッタのワンピース。
あれと、同じ色だった。
俺は少し、近づいた。
クローゼットの隙間から、もう少しよく見た。
ワンピースだった。
袖にリボンがついている。
袖のリボン。
空港で見た、あの服と、同じだった。
* * *
頭の中で、何かが動いた。
でも、まだ信じられなかった。
同じような服は、世の中にたくさんある。
たまたま似ているだけかもしれない。
同じ色で、
同じデザインで、
袖にリボンがついている服が、
たまたまここにあるだけかもしれない。
でも。
俺はもう一度、クローゼットの隙間を見た。
ディープテラコッタ。
袖のリボン。
シルエットが、すっきりしている。
空港で見た、あの人が着ていたものと、同じだ。
俺の頭の中で、三日前の景色が蘇った。
空港の光の中を、まっすぐ歩いていた背中。
迷いのない足取り。
案内板を一瞬見て、また歩き始めたあの動作。
かっこいい人だった。
その服が、今、姉ちゃんのクローゼットの中にある。
* * *
待って。
俺は一歩下がった。
待って待って待って。
姉ちゃんの、クローゼットの中に。
あの服が。
あの人が着ていた、あの服と同じものが。
偶然かもしれない。
でも。
俺は姉ちゃんの方を見た。
床に転がって、PCの画面を見ながら独り言を言っている。
芋ジャージ。眼鏡。ノーメイク。
あの人とは、全然違う。
全然、違う。
でも。
クローゼットを閉めなきゃ、と思った。
なぜ閉めなきゃと思ったのか、自分でも分からない。
でも閉めなきゃと思って、手を伸ばした。
そのとき。
玄関の鍵が動く音がした。
あ、と思った。
「ただいまー」
姉ちゃんの声がした。
俺は固まった。
え。
待って。
姉ちゃんは、床に転がっているんじゃなかったのか。
振り返った。
床に転がっていたのは、姉ちゃんじゃなかった。
布団だった。
丸まった布団が、暗い部屋の中で人に見えていただけだった。
玄関から足音がした。
近づいてくる。
俺はクローゼットのドアに手をかけたまま、動けなかった。
読んでくださって、ありがとうございます。
陸が空港で見た“知らない誰か”と、部屋に転がっている“姉”という存在。
その二つが、同じ一点に向かって静かに収束していく瞬間は、
蒼空という人物の二面性をもっとも鮮やかに照らし出します。
地上の蒼空と、空の蒼空。
陸はまだその差を理解できないまま、ただ直感だけで揺れている。
その揺れこそが、物語の核心に触れ始めた証です。
この先、陸が何を見て、何を知り、どう受け止めるのか。
その続きを、また一緒に見届けてください。
Good Day!!




