第14話 追いかけられなかった
空港という場所には、時々“理由のない出会い”がある。
名前も知らない、声も聞いていない、ただ一瞬視界に入っただけの誰かが、
なぜか心に残ってしまうことがある。
この章は、雲雀陸という青年が、そんな一瞬の気配に心を奪われる物語だ。
彼はまだ知らない。
その背中の正体が、誰より身近な存在であることを。
空を生きる姉と、地上で見上げる弟。
二つの視点が、静かにすれ違い、重なり始める瞬間を描いた章です。
どうぞ、その揺らぎを味わってください。
おかえり、蒼空。
田中と空港を出た。
「腹減ったな、どっか食いに行こうぜ」
「いいよ」
田中が適当な店を探し始めた。
俺は隣を歩きながら、相槌を打っていた。
頭の中に、まだあの女がいた。
ディープテラコッタのワンピース。
迷いのない歩き方。
案内板を一瞬見て、また歩き始めたあの動作。
名前も知らない。顔もはっきり見ていない。
それなのに、なぜか頭から離れない。
俺は自分でも、少し可笑しいと思った。
* * *
田中と適当な飯屋に入って、昼食をとった。
田中は北海道の話をずっとしていた。
調査の話、現地の食い物の話、泊まったホテルの話。
俺は聞きながら、ラーメンを食べた。
普段なら、ちゃんと聞いている。
でも今日は、半分くらいしか入ってこなかった。
「陸、聞いてる?」
「聞いてる。ジンギスカンだろ」
「それさっきの話。今はスープカレーの話」
「あ、そっか。美味かったの?」
「最高だったって言ってんだろ、さっきから」
田中が呆れた顔をした。
俺は「悪い」と言って、ラーメンをすすった。
* * *
帰りの電車の中で、スマートフォンをいじった。
特に見るものはなかった。
でも、何かしていないと、また考えてしまう気がした。
追いかければよかった、と思った。
でも、追いかけられなかった。
田中を待っていた。それが理由だ。
田中が来るのに、
知らない女を追いかけて走り回るわけにはいかない。
分かっている。
分かっているけど、
追いかけられなかったという事実が、
少しだけ引っかかっていた。
もし田中を待っていなかったら、追いかけていたか。
たぶん、追いかけていない。
空港で知らない女を追いかけるほど、俺は大胆じゃない。
でも、見ていたかった。
もう少しだけ、見ていたかった。
電車が駅に着いた。
俺は立ち上がって、ドアに向かった。
* * *
家に帰った。
部屋に入って、バッグを下ろして、ソファに座った。
天井を見た。
あの女のことを、また考えていた。
空港を知っている人間の歩き方だった。
あそこが、自分の場所みたいな顔をして歩いていた。
空港って、ああいう顔をして歩く場所なのか、と俺は思った。
俺は空港をそんなふうに思ったことがない。
乗り継ぎで一回通ったことがあるくらいで、特に思い入れもない。
ただの通過点だ。
でもあの女にとっては、違うんだと思った。
あそこが、彼女の場所なんだと思った。
* * *
スマートフォンを開いた。
姉ちゃんから、三日前にLINEが来ていた。
既読になっている。返信はない。
いつものことだ。
姉ちゃんは返信が遅い。
というか、返信しないことが多い。
用件があるときだけ返してくる。
俺は姉ちゃんのトーク画面を開いた。
三日前のメッセージ。
「今週末、差し入れ持っていっていい?」
返信なし。
まあ、行けばいる。いつも。
返信がなくても、行けばだいたい倒れている。
俺はスマートフォンを閉じた。
今週末、また差し入れを持っていこうと思った。
姉ちゃんはまた「倒れてない、休んでた」と言うだろう。
同じだよ、と俺は言う。
そのやりとりが、もう何十回あったか分からない。
* * *
ベッドに横になって、目を閉じた。
あの女のことを、また考えた。
顔が見たかった、とまだ思っていた。
でもたぶん、もう会えない。
空港で一瞬見かけた、知らない女の話だ。
俺はそれを、頭の中でゆっくり整理しようとした。
整理できなかった。
ただ、空港の光の中を歩いていたあの背中が、目の裏にあった。
ディープテラコッタのワンピース。
迷いのない足取り。
かっこいい人だったな、と思いながら、俺は眠りについた。
読んでくださって、ありがとうございます。
陸が空港で見た“知らない女”は、彼にとってただの通りすがりではありませんでした。
迷いのない歩き方、空港を自分の場所のように進む姿——
それは蒼空を内側から見てきた読者だけが知っている、彼女そのものです。
陸はまだ気づかない。
でもその無自覚な惹かれ方こそが、二人の物語の深さを静かに示している。
この先、陸がその正体に気づくとき、何が変わり、何が変わらないのか。
その続きを、また一緒に見届けてください。
Good Day!!




