第13話 空港にいた女
人はときどき、名前も知らない誰かの姿に、理由もなく心を奪われることがある。
それは恋でも憧れでもなく、ただ“目が止まる”という現象に近い。
この物語は、雲雀陸という青年が、空港という交差点でふと出会った一瞬の違和感——
いや、“気配”を追いかけるところから始まる。
彼がまだ知らないのは、その気配の正体が、誰より身近な存在だということ。
空を生きる姉と、地上で見上げる弟。
二つの視点が、静かに重なり始める章です。
どうぞ、その交差の瞬間を味わってください。
おかえり、蒼空。
俺の名前は雲雀陸。
二十二歳、大学四年生。
姉がいる。
雲雀蒼空、二十七歳。会社員。
姉のことを、俺はこう思っている。
トロくて、生活感が強くて、放っておくと倒れる。
でも悪い人間じゃない。
むしろ、好きだ。姉として。
だから差し入れを持っていく。
だから「ちゃんとしろよ」と言う。
言っても直らないのは分かっている。
でも言う。
それだけの話だ。
* * *
その日、俺は羽田空港にいた。
友人の田中が、北海道から帰ってくる日だった。
ゼミの調査で一週間、向こうに行っていた。
「迎えに来てくれよ」と言われた。
断る理由もなかったから、来た。
到着ロビーで待っていた。
田中の便は十五分遅れていた。
手持ち無沙汰だった。
スマートフォンをいじっていたが、特に見るものもなかった。
なんとなく、周りを見回した。
到着ロビーは、いろんな人間がいる。
スーツケースを引いて歩く人。
家族連れ。
観光客らしいグループ。
出迎えの人間。
俺もその一人だった。
* * *
そのとき、目が止まった。
人混みの中に、一人の女がいた。
遠かった。
顔がはっきり見えるような距離じゃない。
でも、目が止まった。
なぜ止まったのか、うまく説明できない。
特別派手な格好をしているわけじゃなかった。
でも、周りと空気が違った。
歩く速度が違う。
背筋の伸び方が違う。
視線の向け方が違う。
人混みの中を、まっすぐ歩いていた。
他の人間の流れに乗っているんじゃなくて、自分のルートで歩いていた。
誰かとぶつかりそうになっても、ぶつからない。
最初からぶつからないように、動いていた。
なんか、かっこいいな、と思った。
* * *
もう少しよく見ようとした。
ディープテラコッタのワンピース。
ベージュのトレンチコート。
ローヒールのパンプス。
トートバッグとショルダーの二個持ち。
顔は、まだよく見えない。
でも、立ち姿が綺麗だった。
空港の光の中に、その人が立っていた。
案内板を確認して、
何かを頭の中で計算しているみたいに、
一瞬だけ止まった。
それからまた、歩き始めた。
速い。
迷いがない。
この空港を、知っている人間の歩き方だ、と思った。
* * *
もう少し近づけば、顔が見えるかもしれない。
そう思った瞬間、人混みが動いた。
団体の観光客が、俺と女の間に入ってきた。
視界が塞がれた。
観光客の波が過ぎるのを待った。
数秒だった。
でも、もういなかった。
人混みの中に、あのトレンチコートが見えない。
ディープテラコッタのワンピースが見えない。
消えていた。
どこへ行ったのか。
搭乗口の方向か。
それとも別のターミナルか。
俺は少し、その場で立ち尽くした。
名前も知らない。
声も聞いていない。
顔もはっきり見ていない。
それなのに、なんで探してるんだろう、と思った。
* * *
スマートフォンが鳴った。
田中からだった。
「着いたー、今降りてるとこ」
俺はスマートフォンを握って、到着口の方向を見た。
「分かった、待ってる」
短く返した。
田中が出てくるのを待ちながら、俺はもう一度人混みを見渡した。
いなかった。
当たり前だ。
空港は広い。
たくさんの人間が、たくさんの方向へ動いている。
それでも、一瞬だけ探した。
* * *
田中が出てきた。
「お、陸、悪いな待たせて」
「全然。北海道どうだった」
「寒かった。でも飯は最高だった。ジンギスカン食いまくった」
「いいな」
田中がスーツケースを引きながら歩き始めた。
俺はその隣を歩いた。
田中が何か話している。
調査の話、教授の話、ゼミの話。
俺は適当に相槌を打ちながら、歩いた。
頭の中に、さっきの女がいた。
ディープテラコッタのワンピース。
迷いのない歩き方。
案内板を一瞬だけ見て、また歩き始めたあの動作。
名前も知らない。
もう会えないかもしれない。
たぶん、もう会えない。
空港で一瞬見かけた、知らない女の話だ。
それだけのことだ。
俺は田中の話に戻ろうとした。
でも、なかなか戻れなかった。
読んでくださって、ありがとうございます。
陸の視点で描かれる蒼空は、彼女自身が語る姿とはまったく違う輪郭を持っています。
地上では生活感が強くて、放っておくと倒れそうな姉。
けれど空港では、誰より迷いなく歩き、誰より美しく立つ人間。
そのギャップこそが、蒼空という人物の本質なのだと思います。
陸が気づかないまま惹かれた“気配”が、姉そのものだったという事実が、
この先の物語にどんな影を落とすのか——
その続きを、また一緒に見届けてください。
Good Day!!




