第12話 差し入れ
旅が終わったあとに訪れる静けさは、時に旅そのものより深く心に残る。
雲雀蒼空にとって、修行の二日間は空の中で自分を確かめる時間だった。
そして地上に戻っても、その余韻は消えず、身体の奥に静かに残り続ける。
芋ジャージ、惣菜コーナー、バランス栄養食——
そんな日常の中に、ふと空の気配が差し込む瞬間がある。
この章は、旅の後に訪れる“地上の蒼空”と、彼女を支える唯一の存在・陸との時間を描いた物語です。
どうぞ、蒼空の静かな呼吸に寄り添いながら読んでください。
おかえり、蒼空。
土曜日の昼過ぎだった。
蒼空は床に転がっていた。
芋ジャージ、眼鏡、ノーメイク。
ローテーブルの上にPCが開いている。
画面には、次の修行のフライトプランが映っている。
でも蒼空の目は半分閉じていた。
昨日の修行の疲れが、今頃になって出てきた。
九便飛んで、走って、一泊して、また飛んで帰ってきた。
身体はそれを覚えていた。
天井を見ていた。
何も考えていなかった。
考えなくていい時間だった。
* * *
インターホンが鳴った。
蒼空はしばらく無視した。
もう一度鳴った。
仕方なく立ち上がった。
モニターを確認する。
見知った顔が映っていた。
陸だった。
蒼空はドアを開けた。
「姉ちゃん、また倒れてんの?」
陸が言った。
片手にスーパーの袋を持っていた。
もう片手にはコンビニの袋。
「倒れてない。休んでた」
「同じじゃん」
陸は靴を脱ぎながら、部屋の中を見渡した。
床に転がっていた痕跡は、まだそのままだ。
クローゼットの取っ手にトレンチがかかっている。
ローテーブルの上のPC。
床に転がったままのバッグ。
「社会人なんだからもっとちゃんとしろよ」
「してる」
「みえねーって」
陸はキッチンに向かった。
蒼空はソファに座った。
* * *
陸は料理が得意だった。
蒼空より五つ下の弟。
大学生で、一人暮らし。
なぜか姉の生活を心配して、定期的に差し入れを持ってくる。
キッチンから、包丁の音がした。
まな板の上で何かが切られている。
フライパンが温まる音がした。
いい匂いがしてきた。
蒼空はソファに深く沈み込んで、その音を聞いていた。
地上の音の中で、これだけは好きだった。
陸がキッチンに立っている音。
それだけで、部屋の空気が変わる気がした。
* * *
三十分ほどで、食卓に料理が並んだ。
豚の生姜焼き。
ほうれん草のおひたし。
豆腐の味噌汁。
白いご飯。
蒼空は席に座って、箸を取った。
「いただきます」
「どうぞ」
一口食べた。
美味しかった。
バランス栄養食とは、全然違う。
温かくて、ちゃんと味がして、噛むものがある。
当たり前のことが、すごいことのように思えた。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「いつ?」
「……昼は飲んでる」
「ゼリー?」
「うん」
「それ食べてるって言わないから。飲んでるじゃん」
陸が呆れた顔をした。
蒼空は生姜焼きをもう一口食べた。
* * *
「どこ行ってたの、週末」
陸が聞いた。
味噌汁を飲みながら、さりげなく。
「那覇と宮古」
「旅行?」
「……まあ」
「いいな。宮古って海きれいんだろ」
「うん」
「泳いだ?」
「泳いでない」
「じゃあ何したの」
「飛んでた」
陸が少し首を傾けた。
「飛んでた?」
「那覇と宮古を往復してた」
「観光は?」
「してない」
「……それ旅行じゃなくない?」
蒼空は少し考えた。
「旅行じゃないかもしれない」
正直に言った。
陸はしばらく蒼空を見た。
それから、なんとなく納得したような顔をした。
「まあ、姉ちゃんがいいならいいけど」
それだけだった。
追いかけてこなかった。
詮索しなかった。
それが陸だった。
* * *
食事が終わった。
陸が食器を片付け始めた。
蒼空も立ち上がって、手伝おうとした。
「いい、座ってて」
「手伝う」
「いいから。姉ちゃん絶対食器割るし」
蒼空は黙って座った。
否定できなかった。
先月、マグカップを割った。
陸がキッチンで食器を洗っている音がした。
水の音。
スポンジの音。
蒼空はソファに座って、その音を聞いていた。
地上の音は、だいたいノイズだ。
会社の声。電車の音。街の雑踏。
全部、遠い場所の音みたいに聞こえる。
でも陸の立てる音だけは、違った。
近くにある。
ちゃんと、ここにある。
* * *
陸が戻ってきた。
ソファに座って、スマートフォンをいじり始めた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
蒼空はPCを開いた。
フライトプランの続きを確認する。
来月の候補ルートが、画面に並んでいる。
「また行くの?」
陸が画面を横目で見ながら言った。
「うん」
「いつ?」
「来月」
「どこ?」
「まだ決めてない」
陸はふうん、と言って、またスマートフォンに目を戻した。
蒼空もPC に目を戻した。
同じ空間で、それぞれのことをしている。
会話はほとんどない。
でも、静かだった。
うるさい静かさじゃない。
ちゃんと、静かだった。
* * *
陸が帰る時間になった。
玄関で靴を履きながら、陸が言った。
「冷蔵庫に作り置き入れといたから。三日分くらいある」
「ありがとう」
「ちゃんと食べて」
「食べる」
「ゼリーだけじゃなくて」
「……食べる」
陸がドアを開けた。
「じゃあね」
「うん」
ドアが閉まった。
蒼空は玄関に立ったまま、しばらくそこにいた。
地上では、人間関係はだいたいノイズだ。
来ては去る。声をかけてくる。
蒼空はそれをやり過ごす。
でも陸は違った。
ノイズじゃない。
ちゃんと、聞こえる音だ。
蒼空は部屋に戻った。
PCを開いた。
フライトプランの続きを始めた。
冷蔵庫の中に、陸が作った三日分の作り置きがある。
それだけで、なんとなく今夜は大丈夫な気がした。
読んでくださって、ありがとうございます。
蒼空にとって地上の生活は、空へ戻るための助走であり、削ぎ落とされた静かな時間です。
その中で唯一ノイズにならない存在が、陸。
彼の料理の音や、さりげない会話が、蒼空の世界にだけ許された“地上の温度”になっている。
そしてその温度を胸に、蒼空はまた次の空へ向かう準備を始める。
旅と日常、そのどちらも蒼空の物語の一部です。
もしあなたにも、帰る場所と飛び立つ場所の両方があるなら、この章がそっと寄り添えていたら嬉しい。
Good Day!!




