第403話 凛とヘッドハンティング3
「なんだよ。それ。メリットばかりだな」
思わず漏れた言葉には、率直な実感がそのまま乗っていた。
話を聞く限り、合理性しか見えてこない。効率も、成果も、スピードも――すべてを手に入れられる手法に思えた。
「そんなこともないよ。法的な問題や、元会社との関係もあるし。敵対的引き抜きって見られることもあるの」
苦笑を浮かべる凛の表情は、理屈だけでは割り切れない現実を知っている者のものだった。
契約。義務。しがらみ。人を動かすということは、その背後にある関係性ごと揺らすことでもある。場合によっては、単なる採用では済まない。企業同士の対立に発展することすらあるのだ。
「それから資金」
「一番現実的だな」
凛は短く返しながら、答えに肩をすくめる。どれだけ理想を並べても、最後にものを言うのは現実。人を動かすには、それに見合う対価が必要になる。
だが――この点に限って言えば、不安は薄い。ジェネシス社の資金力。それは業界の中でも、頭一つ抜けた存在だ。金銭面で競り負ける構図は、想像しにくい。
「あとね」
凛はカップを静かにテーブルへ戻し、その動作を境に――空気がわずかに引き締まった。
先ほどまでの説明とは違う、もう一段踏み込んだ話。そんな予感が、自然と背筋を伸ばさせる。
「この人はたぶん、試してくる」
「試す?」
凛の言葉に思わず、眉をひそめる。
交渉は駆け引きだ。だが“試す”という言葉には、それ以上の含みがあるように聞こえる。
単なる条件交渉ではない――人としての資質や覚悟。あるいは、この場に立つ資格そのもの。そういったものを見極める意図が、そこには滲んでいる気がした。
「わざと矛盾したことを言ったり、意地悪な質問したり。私たちの力量を測ると思う」
凛はタブレットを閉じると、静かに膝の上へ置いた。そのままソファに身を預け、視線をわずかに落とす。
――数秒の沈黙。先ほどまでの情報整理とは違う、“対峙する覚悟”を整えるような間だった。
「なんだかそれだと、俺たちの方が面接される側みたいだな」
素直な感想を、苦笑混じりに呟く。引き抜く側のはずなのに、立場が逆転しているような感覚。それは、どこか落ち着かないものがあった。
「こちらが相手を見るように、相手もこちらを見る。ヘッドハンティングって、だいたいそういうものだよ」
凛は顔を上げ、小さく笑う。その言葉は穏やかで、しかし核心を突いていた。
選ぶ側と、選ばれる側。その境界は、思っているほど一方通行ではない。優秀な人材であればあるほど、“どこに行くか”を選ぶ権利を持っているのだから。
「だからね。焦らないこと」
凛は指を一本立てる。その仕草は軽いものだったが、言葉には重みがあった。
「俺、そんなに焦って見えるかな?」
「少なくとも、焦って見えるかも」
助言に対して問いかけると、凛は申し訳なさそうに笑う。
「即答かよ」
軽く顔をしかめながらも、否定はしきれない。経験の差や、場数の差。それはどうしても、態度の端々に出てしまうものだ。
まだ見習い。その事実が、無意識に余裕を削っている。だが――だからこそ、今この場で学ばなければならない。
焦らず、崩れず、見極める。それができて初めて、“対等な交渉”に立てるのだと――そう感じていた。
「でもね。蓮夜くんの良いところは、そこじゃないよ」
凛はふっと楽しそうに笑ったあと、ほんの少しだけ表情を引き締める。軽やかだった空気に、静かな芯が通った。
「じゃあ、どこだよ?」
首を傾げたまま、まっすぐに問い返す。自分では測れない“自分の価値”を、他人がどう見ているのか――その答えを、素直に求めていた。
「真っ直ぐなところ」
凛は一度だけ視線を落とし、言葉を選ぶようにしてから答える。
飾りのない、率直な評価だった。その一言はどこか照れくさくて、小さく鼻を掻き――視線をわずかに逸らす。
だが同時に、それが嘘ではないことも、なんとなく理解できてしまう。不器用でも、曲げない。損をするとわかっていても、貫く。それは交渉の場では弱点にもなり得るが――人と向き合う上では、何よりの強みになるときもあるのだ。
「難しい質問は、私が受けるよ。蓮夜くんは安心感を作る役」
凛は続けて言い、タブレットを静かにテーブルへ置いた。
役割分担は明確だった。切り込む者と、支える者。論理で攻める者と、空気を整える者。そのどちらが欠けても、交渉は成立しない。
「よし」
短く息を整え、コーヒーを飲み干す。
苦味が喉を抜け、意識がはっきりと前へ向く。カップを静かに置いた音が、合図のように響いた。
「今日の仕事、成功させよう」
凛も同じようにタブレットを閉じ、立ち上がる準備を始めた。
時間は、もうすぐ。ジェネシス社が求めるのは、替えの利かない人材。そしてそれを掴み取るための、真剣勝負。静かなラウンジの空気が、わずかに張り詰めた。




