第400話 スナック紬3
「今日の、いつもよりちょっとジューシーじゃないですか?」
ハンバーグにナイフを入れると、切れ目からじわりと肉汁があふれ出す。湯気と一緒に、甘く香ばしい匂いが立ちのぼる。
「よくわかったわね。合いびき肉の配合を変えてみたの」
ママは少し驚いたように、目を細める。
気づいてもらえたことが嬉しいのだろう。声にはどこか、弾むような柔らかさがあった。
「ママって、本当に料理が上手ですよね。本気で店に出せますよ」
「ふふ……そんなに喜んでくれるなら、作った甲斐があるわ」
素直な感想を口にすれば、ママはやさしく微笑む。
「料理はね、相手が美味しく食べてくれると完成するのよ」
ママは穏やかな声そのまま、こちらの様子を静かに見つめている。まるで出来栄えを確かめる料理人のようで――同時に、どこか母親のようでもあった。
「そんなに好きなら、また作ってあげるから。いつでも来てね」
ママのやわらかな笑みが、自然な感じそのまま向けられる。その表情には、夜の店にありがちな営業めいた色はほとんどない。
ただ静かに、人を安心させる温度がある。見ているこちらまで、肩の力が抜けてしまうような、そんな微笑みだった。
***
「蓮夜君って、今は何歳だっけ?」
ミホさんはカウンターの隣で肘をつき、どこか懐かしむように肩を揺らして笑った。
「十六です。なのに毎回毎回、こんな感じだもんな」
これまで何度も、似たような夜を見てきた。
“飯を奢る”と誘われて付いていくと、だいたい行き着く先はこのスナック紬。そして始まるのは――いつもの流れ。酒を勧められては断り、奥では騒ぎが大きくなり、最後は誰かが出来上がる。
酒を断ること自体は問題ではなく、きっぱり拒めば済む話だ。だが――毎回のこの騒ぎっぷり。誰かしらが酒に飲まれ、店がちょっとした宴会場になる。見慣れてきたとはいえ、できれば少し自重してほしい、という気持ちはあった。
「周りも飲んでいるし。ちょっと手を出しても、って思う年頃なのに。本当に真面目よね。まあ、そこが可愛いいし、そこがいいところなんだけど」
ミホさんは言葉を続けながら、ゆっくりとこちらを見る。
その目は、どこか妖艶だった。酔いも混じっているのか、視線が少し熱を帯びている気がする。
「……おい」
低い声が割り込み――振り向くと、ガイが不満そうな顔でカウンターに寄ってきていた。
「なんでそっちに寄るんだよ。蓮夜なんて、まだガキだし。オレ様のほうが金も使っているし、酒も飲んでいるだろ」
ぶつぶつと文句を垂れるガイは、呂律が少し怪しい。
グラスを持つ手が少し揺れて、完全に酔いが回っている顔だ。それに言葉の端が微妙に崩れていて、説得力はほとんどなかった。
「ガイ、拗ねるな。ほら、蓮夜は聞き役が上手い。そういうのが、意外と刺さるんだ」
司が苦笑しながら、ガイの肩をぐいと引き寄せる。半ば肩を組むような形で、そのままボックス席の方へ連れて行き、二人は赤いソファに腰を落とす。
「ほら、飲め」
司がグラスを取り、ボトルから酒を注ぐ。
「オレ様だって聞き役くらい――」
ガイは不満そうに言いかけながら、そのグラスを受け取って一気に口へ運んだ。
「ミホさんは、ガイのこと……どう思っているんですか?」
そんな光景を横目で見ながら、好意が透けている気がして、そんな質問が口から出ていた。
「そうねー。お客様だし。嫌いってわけじゃないわよ」
軽く肩をすくめるミホさんの言い方は、――明らかに前置きだった。
「でも、声が大きいし。それに乱暴だし。酔うとすぐ女の子に触るし。そう言うところは、嫌ね」
ミホさんはグラスを揺らしながら、テーブルの方へ視線を向けて言う。
言葉には容赦がない。しかしたしかに――言っていることは、全部その通りだ。
声は大きいし、態度も豪快すぎるし、酒が入ると距離感も雑になる。酔いが深くなると、さっきのように豪快に笑うだけでは終わらない。時には、今みたいに妙に感情的になって泣き上戸になることもあるのだから。
「でもね、蓮夜君。好きとか嫌いとか、大人は軽々と口にしないものなの」
ミホさんは少しだけ目を細めて、静かに言った。
叱るような口調ではない。けれど、その言葉はどこか――釘を刺されたようにも聞こえた。
「でも嫌いじゃないなら、それでよかったぜ。なんかガイが、いたたまれないもんな」
さっきのやり取りを思い出しながら、小さく息を吐いて肩をすくめる。
ミホさんの言葉には、まだ何か含みがありそうだ。だが――今は、それ以上深く聞かない方がいい気もした。
「友達思いなのね。蓮夜君は、しっかりしていて安心だわ」
そう言ってミホさんは、ふっと柔らかく笑う。そしてグラスを持つと、くるりと向きを変え、再びテーブル席の方へ戻っていった。
「クソ……羨ましいんだよ。酒も飲まねぇのにモテやがって」
その背中を見送った直後に、――ぐずぐずとしたガイの声が聞こえる。
「ちょっと。泣くのはいいけど、ぐずぐず言うのはなし」
席に戻ったミホさんは、すぐにガイの背中をパシンと叩いた。
軽い音が響く。だが、そこに遠慮はない。それでもガイは文句を言うでもなく、むしろ子どものように鼻をすすっていた。
「世界が終わったわけでもないし。ガイ君の魅力は、そう言うところじゃないでしょ?」
俯いているガイの顔を、ミホさん言葉で上へ向けさせようとしている。
「へぇ〜。それなら、ガイの魅力ってどんな感じ?」
司は身を乗り出し、面白がるように口を挟んだ。顔にはいかにも、いたずらを思いついた子どものような笑みが浮かんでいる。
「……そうね。良い意味でも悪い意味でも、裏表がない。それに、シンプル明快でわかりやすい!!」
ミホさんは少し考える素振りを見せてから、指を一本立てて答えた。
「裏表がない。シンプル明快でわかりやすい。それって要するに、単純馬鹿ってことじゃん!! ギャハハハ!!」
次の瞬間、司は腹を抱えて笑い出す。せっかくのフォローは、あっという間に台無しだった。
「おい!! 司!!」
さすがに見ていられず、思わず声が出る。やはりこれは、――悪い酒だ。
「クソっ!! オレ様はどうせ、単純馬鹿なんだっ!!」
ガイは司の言葉を真に受けて、さらに不貞腐れた顔になる。そして半ば意地のように、グラスを掴んで酒を流し込んだ。
笑い声と文句と、氷の鳴る音。赤いソファの周りには、騒がしい夜が広がっている。
こうして夜は更けていく。騒がしくて、くだらなくて。それでも――確かに、居心地のいい夜だ。
「あとで請求額を見る顔が楽しみね」
テーブルの上に並んだグラスを眺めながら、ママはくすりと笑ってそう呟いた。




