第399話 スナック紬2
「がはははっ!! 酒が足んねえぜっ!!」
スナックの店内奥から、豪快な笑い声が響いてくる。聞き覚えのある声は、腹の底から響くような遠慮のない大声。
カウンターから視線を向けると、店の奥にボックス席が見える。赤いソファがコの字に配置され、小さな丸テーブルがいくつも寄り添うように並ぶ。壁には小さな額縁がいくつか掛けられ、場違いなほど静かなテレビが画面だけを淡く光らせていた。
分厚いカーテンはしっかりと閉められ、外の世界を完全に遮っている。この空間だけが切り取られたような、夜の小さな密室を作り出していた。
「飲むのは勝手だけど、あとで“払えない”なんて言わないでよ?」
すぐ横からぴしゃりと釘を刺すのは、店員のミホさんだ。
肩のあたりで切り揃えられた橙色の髪は、毛先が外側へ軽く跳ねている。大きな瞳はくっきりとしていて、細く整った顎のラインに、少し勝ち気に上がる口元。どこか気の強さを、感じさせる顔立ちだった。
肩を大胆に落とした赤いオフショルダーのドレス。滑らかな布地が身体の線に沿い、無駄のない曲線を際立たせている。
「細けぇことはいいんだよ!! 飲むときは派手に、だろ?」
赤いソファに深く腰を沈めるガイは、豪快に笑った。頬はすでにほんのり赤く、肩の動きも少し大きい。
テーブルの上には、半分まで減ったボトル。グラスの中では氷がゆっくり溶けかけ、表面に小さな水滴が浮いている。
空いた皿に、乱れたコースター。夜がどれくらい進んでいるのか、そこにすべて並んでいた。
「あれ? いつからなの?」
カウンター席からそれを見て、司が声をかける。グラスを軽く揺らし、氷を鳴らしながら横目で様子を窺う。
「そうね。一時間以上は前かしら」
ママは小さく息をつきながら答えた。
視線は店の奥。完全に呆れた、というより――見慣れた光景を眺める表情だ。
「とか言って、前は財布を忘れた。その前は財布があっても、中身が空っぽ。ツケにしていった癖にっ!!」
ミホさんは腕を組み、ぴしりと言い放つ。声には遠慮がなく、完全に前科を把握している口調だった。
信用など、最初からしていない。それもそのはずで、ガイは酒好き。女好き、そしてギャンブル好き。宵越しの金は持たない――そんな生き方を、地で行く男だ。知っている人間からすれば、警戒するのは当然だった。
「今日は、ほらっ。あっち司がいるから、会計は問題ねぇ」
ガイがこちらに、顎をしゃくる。
声は小さくしたつもりなのだろう。だが、その“耳打ち”は店内にしっかり聞こえていた。
「あら、そう。それなら問題はないわね」
ミホさんは、あっさり頷いた。
さっきまでの疑い深い表情が、嘘みたいに消えている。どうやら支払いの保証人が見つかったことで、心配は消えたらしい。
「は!? ちょ、ちょっと待て!! オレはそんなこと、一言も言ってないぞ!?」
カウンターから、司の声が飛ぶ。さっきまで余裕の笑みを浮かべていた男が、珍しく素の動揺を見せていた。
「っしゃあ!! 今日は司の奢りだっ!! どんどん飲めっ!!」
「えっ!? いいのっ!? ありがとう〜!!」
ガイは立ち上がりそうな勢いで宣言し、ミホさんもすぐに乗っかり――完全に飲む気満々の声だ。
「ママ、今の……無効ですよね?」
司は助けを求めるように、カウンターの奥を見る。
「司君。面倒見がいいのね」
しかしママは、にこりと微笑むだけだった。その穏やかな笑顔は、完全に“聞こえなかったことにする側”の顔である。
***
「はい。蓮夜君。ハンバーグ定食」
ママがカウンターの奥から、ふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。
スナック紬の特別メニュー。白い皿の上に、丸く艶めくハンバーグ。湯気が立ちのぼり、デミグラスソースがとろりとかかっている。横には山盛りのごはんに、さらに彩りのサラダまで。夜の酒場らしからぬ、しっかりとした定食だ。
「司やガイは、あれですけど。あ……やっぱうま」
二人の態度に思うところはあるが、一口食べた瞬間――それはどうでもよくなった。肉汁とデミグラスのコクが口いっぱいに、自然と肩の力が抜ける味だ。
「キャハハっ!! 楽しい〜!!」
「っしゃああああ!! もう一杯!!」
笑い声を上げるミホさんは完全に出来上がって、司も向こうのテーブルで宴会状態だ。
さっきまでカウンターで気取った顔をしていた男が、今ではすっかり輪の中だ。グラスを掲げ、何か叫びながら笑っている。最初こそ落ち着いた顔をしていたが、本来――司もあちら側の人間だった。




