第397話 司とヘッドハンティング3
「司の笑顔って、なんか時々……不気味だよな」
ゴーマンの背中が視界から、完全に消えたその瞬間。張り詰めていた空気がほどけ、思わず本音が漏れる。
ラウンジの静けさが戻ると同時に、交渉用に張っていた神経も緩んだ。
「あはは。何を言っているんだ。蓮夜。いやいや、褒め言葉だろそれ。駆け引き向きの顔ってことじゃん?」
軽く肩をすくめる司は、いつもの調子で声音も柔らかい。
だが――笑っているはずの目が、ほんの一瞬だけ冷えた。感情の温度がすっと落ち、氷の刃のような光が宿り、すぐに消える。
「や、やめてくれよ!! いつもの司に戻ってくれ!!」
不気味さと気持ち悪さに、言いようがなく一歩引く。あの無機質な営業スマイルが、まだ張りついている気がする。
司はその反応を見て、口元の弧をわずかに深くした。距離を詰めると、無言の圧。交渉相手に向けていた心理戦モードが、今はこちらへ向けられている。
「冗談。冗談。っつかーそれ、マジで言っている? そんなにやり過ぎていた?」
司は軽く手を振り、苦笑を浮かべた。張りつめていた空気を、払うような仕草だった。
そして次の瞬間――その目は、いつもの調子に戻っていた。どこか力の抜けた、死んだ魚のような目。先ほどまで交渉相手に向けていた鋭さは跡形もなく、まるで別人のようだ。
「初対面の人とかなら、わからないけど。俺からしたら、少なくとも不気味だったぜ」
初めて会う人間なら、きっと気づかない。だが普段の司を知っているからこそ、違和感ははっきりと見えてしまう。
本来の司の笑顔は、もっと余裕がある。軽口を叩きながらときに下品で、ときに飄々としていた。あれほど張りついたような、冷たい笑みではないはずだ。
「にしても、なんだか……嫌な奴だったな」
ぽつりと漏れたのは、飾らない感想だった。最初から人を値踏みするような視線で、若さだけで相手を見下す態度。そして、あの傲慢さ。
ふとテーブルに視線を落とせば、用意していた資料がそのまま残っている。丁寧にまとめられた資料。だが結局ゴーマンは、一度たりとも目を通さなかった。それを思うと、胸の奥にわずかなやるせなさが残る。
「まあ、あれはダメだな」
軽い声色で、司はあっさりと言った。
その一言で、結論はすでに出ている。交渉の席では最後まで崩さなかった表情も、今は完全に仕事モードから抜けていた。
「でも、司。笑顔で、ペコペコしていただろ」
首を傾げて、問いかける。最初から――あるいは途中の段階で見切りをつけていたのなら、それ以上の交渉は意味がないはずだ。わざわざ下手に出て、笑顔まで作る必要はない。
「これは仕事。相手の立場を理解し、その上で立てる。うまくやるためには、ある程度は我慢も必要だ。そんな対応もわからないとは、蓮夜君はまだ子どもだねぇ」
司はわざとらしく肩をすくめ、煽るように言う。いつもの調子で、軽口の延長のような口調だ。
だが言っている内容は、意外と現実的だった。感情で動かず、相手の立場を理解する。そのうえで波風が立たない落としどころを選ぶ。
我慢というより、調整。単純な忍耐ではなく、冷静さ、配慮、責任感、そして距離感。それらを同時に成立させることが、“大人の対応”という振る舞いらしい。
「いいんだよ。これから理解していくから。にしても、司。司から見て、何がダメだったんだよ?」
結論に至るまでの理由を、素直に問い返した。すべての行動には意味がある。言葉も、態度も、間の取り方も。重要なのは、正しいことを言う力ではない。
通る形で言う力だ。その場で勝つことより、長く関係を続けること。その判断ができるかどうか――そこに経験の差が出る。
「まあ、いくつかあるな。金額と地位でしか人を判断しない。強者には媚び、弱者には横柄。あからさまなパワハラ気質。自己利益優先主義で協調性の欠如」
司は軽く肩を回しながら、一つ二つ……と並べるうちに、言葉は止まらなくなる。まるで堰を切ったように、次々と出てきた。どうやら、表では相当我慢していたらしい。
「こういうことがあるから、ターゲットの選定。調査は重要になる。しかしまあ、今回は例外か。愚痴を酒のつまみに、飲みにでも行くか」
司は最後に、小さく息を吐く。完全な失敗というわけではなく、最初から外れだったというだけだ。
パーティを目前に控え、各国の有力者が次々と来日している。案件は増え、スケジュールは限界に近い。キャパシティを超えかけている状況。こんな交渉は本来、そう何度もあるものではない。
だが現実には起こる。ならば――悪い教訓として飲み込むしかなく、司はすでに気持ちを切り替えていた。
「それと、司。なんで最後に、慈善事業について聞いたんだよ?」
交渉の途中で見切っていた様子も、最後にあの質問を投げた。
あれは単なる雑談ではない。司がそんな無駄なことをするとは思えず、ならば何か意図があったはずだ。
「あの質問は――多角的に物事を考えているか、見極めたかったからだ」
司は歩きながら、淡々と答える。あの場での審査は、まだ終わっていなかったのだ。
「慈善事業だって、名が残る。信用が積み上がる。敵が減り、味方が増える。時には、税金すら軽くなる。偽善的な側面を抜いても、これだけメリットがあるんだ」
司の言葉は、現実的だった。慈善事業という言葉は、しばしば“無償の善意”として語られる。
だが実際には、それだけではない。社会的評価。ブランド価値。政治や地域社会との関係。税制上の優遇。長期的に見れば、組織の信用資産として積み上がる。
つまり――慈善事業とは、単なる善行ではない。戦略にもなり得る行為だ。利益の形を、どこまで広く捉えられるか。それを見るための質問だった。
「それでも興味がないと一蹴し、本来なら得られる利益を手放す。金が第一と言いながら、本当のところは見えていない」
淡々として言う司からして、評価として切り分けているだけだ。
ゴーマンの考え方は理解できる。金を基準に物事を測る姿勢も、合理的と言えば合理的だ。
しかし――視野が狭い。目の前の損得しか見えておらず、その先に広がる利益の連鎖を見落としている。司からすれば、それはむしろ損失だった。
「本当のところって?」
今度は確かめるように、もう一度問い返す。
司が見えていて、ゴーマンが見ていないもの。その差が、まだはっきりとは掴めていない。
「言うなれば、信頼だ。信頼があるからこそ仕事を任せられ、その関係性が広がって莫大な利益を生む。そんなこともわからない人間は、これから先の未来を支えるには相応しくない」
司の答えるそれは、帳簿にも載らず、数字になりにくい。
だが一度築かれれば、人を呼び、機会を呼び、仕事を呼ぶ。関係は連鎖し、連鎖は拡大する。その先で生まれる利益は、単発の金額とは比較にならない。
だから司は、金額だけで人を評価しない。理念でもなく理想でもなく、もっと現実的な基準だ。この人物は、信頼を積み上げられる人間か。それとも、消費するだけの人間か。司はそういう視点で、人を見ていた。




