第395話 司とヘッドハンティング1
国帝ホテルのラウンジは、昼の光に満たされている。天井から落ちる自然光はやわらかく、磨き上げられた大理石の床に淡い反射を落とす。間接照明は控えめに、昼の主役を引き立てる脇役に徹していた。
ガラスのテーブルは透明な光を抱き込み、革張りのソファは静かに整然と並ぶ。磨き上げられた黒いグランドピアノは閉じたまま、旋律を奏でられる夜を静かに待っていた。
「本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」
司の声は低く落ち着いて、いつもの軽口も挑発的な笑みもない。
ベースは深みのある赤のスーツで、さりげなく散る白の水玉模様。等間隔ではなく、遊び心のある配置。遠目には上品だが、近づけば“やっている”とわかる絶妙なバランス。無地の白シャツが清潔さを支え、黒のネクタイが全体を引き締める。
鋭い目元にその装いが重なると、いたずらっぽさは影を潜め、代わりに前へ出るのは――“大人の余裕”。場に合わせ、自分を変える。それもまた、交渉者の技術だった。
「話には聞いていたが、若いな。何年目だ?」
声に抑揚なくやや高圧的な物言いをするのは、深海基礎構造の第一人者――ゴーマン。マルクト社のゼネコン技術者にして、今回のヘッドハンティング対象。
重厚な椅子にふんぞり返るその姿は、審問の場で上座に構える者のそれだ。豊かな金髪を後ろへ流し、大きく反った口髭を指先で弄ぶ。
鼻は大きく高く、輪郭は年齢相応のふくよかさを帯びている。しかし目は細く鋭く――半ば見下ろすような視線は、相手を対等とは見ていない。長年“上に立つ側”であった余裕と、他者を値踏みする習慣が滲んでいる。
「五年目になります。隣は見習いです」
静かに答える司の声音は一定で、余計な感情を混ぜない。いつもの司なら、どこかに一刺しの皮肉を忍ばせていただろう。だが今回は相手が相手となれば、さすがに無用な火種は撒かない。
そんなゴーマンの体躯を包むのは、鈍く光を放つゴールドのスーツ。眩しいというより、権威を誇示する色。深みを帯びた金が動くたびに光を反射し、まるで自分自身が財と権力の象徴であるかのようだ。
張り出した肩に、ゆったりと仕立てられた腹部。体格を隠さないその設計が、かえって威圧感を増幅させる。内側は白のシャツで、襟元には太めのネクタイ。深い赤か、あるいは黒。どちらにせよ、金をさらに強く引き立てる色が選ばれている。
「本気で口説きにきたなら、最低でも同世代か、それ以上。せめて、失敗したときに腹を切れる人間を連れてきてもらいたかったな」
口髭を撫でながら、ゴーマンは言う。その声音には、露骨な失望が混じっていた。
若さは未熟さと同義――そう断じている響き。事実、司とは二十年近い隔たりがある。ゴーマンの視界に映るのは、経験を積み上げた交渉者ではなく、まだ青さの残る若造なのだろう。
値踏み。揺さぶり。そして主導権の誇示。交渉の入り口としては、教科書通りの圧力だった。
「……申し訳ありません。しかし本件に関しては、私に一任されています」
声量も視線も呼吸も一定で、司は眉一つ動かさない。
謝罪の言葉を口にしながら、その実――立場を一歩も引いていない。若さを詫びているのではなく、形式を整えただけだ。“一任”その一語が、権限の所在を明確にする。
「ふん。まあ、いいだろう」
鼻で笑うようにして、ゴーマンは椅子に深く背を預けた。渋々、といった体裁。だが本質は理解しているはずだ。
ヘッドハンティングは、される側にとっても旨味のある話。条件次第では、現在の立場を飛び越える跳躍にもなる。権限が目の前の若者にあると知った以上、これ以上噛みつくのは得策ではない。若さが気に入らなくとも、話を聞かぬ理由にはならないのだ。
「ご経歴を拝見しました。ぜひ一度、この資料に目を――」
差し出しかけた指先は迷いなく、しかし押しつけがましくならない角度で止める。この日のために編まれた資料それは、実績の整理ではなく――未来を具体化する“設計図”。
交渉の場に合わせ自身に選んだのは、眩しいほどに清廉な白のスーツ。細身のシルエットは無駄を削ぎ落とし、肩から裾へと真っ直ぐに落ちるラインが、姿勢の良さを際立たせる。
中は純白のシャツ。そこに結ばれるのは、深い紺のネクタイ。黒ではなく紺だからこそ、硬質さの中にわずかな柔らかさが残る。理知と誠実を同時に示す、計算された色。装いは無言のメッセージで、“誠実に話す”という宣言でもあった。
「前置きはいい。気になっているのは、条件だ」
だがゴーマンは資料に一瞥もなく、懐から取り出した葉巻に火をつける。
未来図にも、理念にも興味はない。ゆっくりと煙を吐き出しながら、そう言わんばかりに段階を飛ばす。
「で、いくら積める?」
ゴーマンに問われたのは、もっとも生々しい核心。
金額。煙が白くたなびく交渉は、一気に抽象から現実へ引きずり下ろされた。




