3・幸福のゆくえ・
一方、ソフィレーナの休暇届けを手に、ケルッツアはしばらく総館長作業部屋の中に立ち尽くしていた。
明るい部屋の中、ケルッツアは、突然の、嵐のような出来事に頭も体もついていかない。
ソフィレーナが結婚するのはただ一人だという。
そして休暇届けを見るに、ソフィレーナは三日国立図書館を休むらしいので、先程の会話で、明日から三日間で結婚の準備を進めるのだとは、ケルッツアにもわかった。
ソフィレーナが結婚するという。
すでにお相手からプロポーズも済んでいるという。
お相手にその気があるのかはわからないそうだが、少なくともソフィレーナはその人と結婚する気なのだ。
けれど、というか、当然と言おうか。ケルッツアはソフィレーナのお相手に全く心当たりがない。
今、ケルッツアを満たしているのは、悲しみと、遣る瀬無さ。
もう少しだけは傍にいてほしいと言ったのに。
ケルッツアの中で、この言葉がぐるぐると渦を巻いて出口を失っていた。
それは、彼が思う中で一番マシな、ソフィレーナと彼との未来の姿だった。だから異世界に行けなかった遺跡の前で、ソフィレーナにそう懇願した。
そうすれば……もう少しは一緒にいられると思ってた…………
結婚なんて大それたことは望まないから、もう少しだけは傍にいたかった。
それが、ケルッツアの紛れもない本音だった。
ソフィレーナさんは、結婚する……
僕以外のひとと……当たり前だ、それでいいと思ってたはずじゃないか……
ケルッツアは、諦観というにはあまりに強い念に駆られていた。
もう少し…………先のことだと思っていた…………
そんな保証なんて、どこにもなかったのに。
彼は、いざその場に臨んでみて初めて、ソフィレーナと本当はどうなりたかったのか、骨身に沁みてわかった。
その本当の望みは、彼と彼女の年齢差を考えるにどれほども大それたことだとわかっていたが、それでも、ケルッツアは本当のほんとうは。
僕は、ほんとうは………………
遺跡に行く前に見た、流民の、しかも蒼き流砂の使徒の花嫁衣装だって、本当のところを言えば着てほしかった。国境の町にそんなものが出てくること自体、砂漠の神の祝福だとさえ思えた。
貝殻を贈ってしまったのは未練以外の何物でもなかった。
砂漠では貝殻の加工品は滅多に手に入らない。だから特別な人に贈るのが習わしだった。
そんなことはソフィレーナは知らないだろうから、だからそれで自分の気持ちを収めようとした。ただ、それだけの保身だった。
結婚を切り出さなかったことも、明るい将来が待っているソフィレーナのその来歴に汚点を残すようなことをしたくなかったから。
本当は、因縁の遺跡の前で。
ソフィレーナの額に、キスしたかった。
”メルリッツ”と言って、ソフィレーナの額に口づけられたならどれほど幸せだっただろうかと、今は思わずにいられない。
ただ、今は。ケルッツアは思う。
リュシカの、父代わりの男の死して尚の忠告を受け入れられなかったのは、そして、こうなってからも一向にソフィレーナに自分との結婚の意思があるか聞いてみる気が起きないのは。
拒絶されるのが……こわいから、だ。
こんな親子ほども歳が離れた相手に結婚を申し込まれて、気味悪がられない保証がどこにある?
第一、聞いてみるまでもなく、ソフィレーナには心に決めたひとがいる、とケルッツアはもう知っている。
だから、あれで良かったんだ。
これで……いいんだ。
確かに覚えた諦観が、視界の色を薄れさせる頃。
ケルッツアは立ちっぱなしで痛くなった足を青い対置きソファーに落ち着けた。こういうとき有用なのは酒と、少しのタバコだと、彼はもう知っている。
もう慣れっこになった色彩の褪せた感覚は酷いスランプのときによく似ていたが、やはりどこかが違っていた。
それも錯覚だろう。
ケルッツアは、寂寞と諦めがなじむまで、永いこと青いソファーから動かなかった。
酒を飲んで、少しタバコを吸えば、明日の朝には元通り。
けれど、ソフィレーナの結婚という事実は、そんな程度の憂さ晴らしでは効かないほどケルッツアを傷つけていた。
翌日も、翌々日も。ケルッツアは、よく見える視界が健在だろうと、逃げるように取り掛かった図書館業務の傍ら鬱々とした時間を過ごしていた。幸いにもその間友人たちとは出くわさなかったので、無駄に事情を聞かれることもなかった。
そんな折、休暇中であるソフィレーナがケルッツアの元を訪ねてきた。
急なソフィレーナの来訪に、ケルッツアは驚きに驚いた。
ソフィレーナは、真っ白なワンピース姿で、一重咲きのロームエッダの花を髪に挿してケルッツアの前に現れた。腕にはいつもの通勤用のピンクのバッグではなくロームエッダの花を覗かせた小さな編籠を持っていた。
そのいでたちがあまりに春の宴のときの格好と似通っていたので、ソフィレーナの姿を見たケルッツアは数瞬息を忘れた。
一瞬、あまりにひどい落ち込みに幻覚でも見ているのではないかと思うほどだった。
「え? あ、ソフィレーナさん。ど、どどど…どうしたの?」
国立図書館最上階禁書庫で作業をしていたケルッツアの元にやって来たソフィレーナに、ケルッツアはどもりも動揺も酷く応じた。
対するソフィレーナはといえば、それはもうにっこりと音が付きそうなほどの笑顔でケルッツアに応じた。その頬が若干赤みを帯びているのは化粧のなせる業か否か。
「ドクターに、どうしても書いていただきたいものがあってやって来ました。ここではなんですから、少し、作業部屋の方に来ていただけませんか?」
そんなことを赤々と頬を染めた笑みで提案してきたソフィレーナに、ケルッツアは動揺半分驚きと、諦め交じり寂しさとでぐちゃぐちゃな心情。
どんな顔をしていいかわからず、とりあえず急ぎの用でもなかった作業を中断するとソフィレーナに応じることにした。
「いいよ。
書く? えと……け、……結婚式の、スピーチとか?」
ケルッツアは、作業部屋に移動しがてらそんなことを聞いてみる。ソフィレーナが休みを取っているのは結婚の準備のためなのだから、この訪問もその一環だろうとケルッツアは思った。自分にできることと言えば、せいぜいが結婚式のスピーチくらいだろうとも。
ケルッツアは、ソフィレーナの、ダリル家の末姫の結婚がどのぐらいの規模で行われるものなのか想像できなかったが、その役に抜擢されたのだとしたら誇らしいものなのかもしれない、とも思った。
同時に心のどこかでは、嫌だな、とも思っていた。
しかし、ケルッツアが懸念していたことはあっさりと否定される。
「いいえ。違いますよ」
そう言ったソフィレーナはケルッツアの横に並んで作業部屋へと向かっていた。
ケルッツアは、結婚式のスピーチが否定されたことに大幅に安心した。
それでも、ソフィレーナの、ダリル家の末姫の式がどれほどの規模のものなのか考えてみる。
貴族や王族、と言ってもエメラルグラーレンの結婚式と、グルラドルンの結婚式に呼ばれたことのあるケルッツアは、その壮麗さを思い返した。
教会に行って誓いを立て、その後披露宴が盛大に続けられたはずだった。
それはもう抜け出すのに苦労するぐらい絢爛でいて華やかな席だった。
じゃあ、ソフィレーナさんの披露宴も、きっと……
と、ぼんやり考えている間に総館長作業部屋に着いた。
するとソフィレーナは、ケルッツアの横手から彼を振り仰ぎ、にっこりと笑った。
「ドクター、ちょっとソファーに座っていただけませんか?」
また有無を言わせぬ――――それは休暇届けを提出した日のような雰囲気で、ソフィレーナはケルッツアに青い対置きソファーの上座に手を向ける。
ケルッツアは、作業部屋に来ればてっきりソフィレーナから、その何やら”書いてほしい”書類を渡されるものとばかり思っていたが、その話は何処へ消えたか。
ソフィレーナは、前よりもっと赤い顔でニコニコするばかり。
書類の話が出てこなかったことに、ケルッツアは、内心、拍子抜けしていた。
「え? うん、いいけど……」
ケルッツアは言われるがまま、青い対置きソファーの上座に座る。
と、立ったままのソフィレーナが、何故かロームエッダの花を一輪手に持って、彼に近づいてきた。
「ああ、これなら丁度いいですね。私でも届くわ」
そう言って――――ソフィレーナは赤々と震える指先で、ケルッツアの右のこめかみの辺りにロームエッダの花をそっと挿し込んだ。
ケルッツアは驚いた。
「……え? えええ????」
急なことに、固まってしまったケルッツアを尻目に、顔から首元、花を持っていた手の指先までも赤々と震えさせて、ソフィレーナは、頑迷なドクター、とケルッツアに有無を言わせず語り掛ける。
「いいから話を聞いてくださいね。
この国では、花嫁は結婚式に自分の家の象徴花を髪に飾って嫁いでいくんです。そして嫁ぎ先で、その上から相手の家の象徴花を髪に挿します。
でも、近年では、花婿も象徴花を髪に飾る式も増えているんですよ。
転じて、自分の家や相手の家の象徴花を髪に挿す行為は、男女共にプロポーズと同義です」
「は、はい????」
ケルッツアは、ソフィレーナの言ったことについていけない。勿論、行われた行為にも。
書いてほしい書類があるからと作業部屋に来た。ら、自分の頭にダリル家の――――ソフィレーナの実家の象徴花を飾られた。それは、ソフィレーナが言うにはこの国ではプロポーズと同義なのではないか。
ソフィレーナがケルッツアにプロポーズした。それは何故か。ソフィレーナには心に決めたひとが一人いるのではなかったか。
ケルッツアの混乱をよそに、今や顔と言わず全身を真っ赤に染め上げて、ソフィレーナは、それと、と口火を切った。
「ダリル家の娘の髪にロームエッダの花を飾る行為も、プロポーズなんですよ!!!」
若干怒っているような口調で、ソフィレーナは、春の宴のときを忘れたなんて言わせません、と早口にまくしたてる。
「え……、えええええええ!?!?!?」
ケルッツアは、灰色の目ン玉をひん剥いた。
やっと、もう四カ月も前の春の宴の日、ソフィレーナの髪にロームエッダの白い花を添えたことが、意図せずプロポーズの意味を持っているのだと知るに至った。
ぼ……僕は! なんてことを……!!!!!!
同時に、ダリル家の元当主と現当主が、お立場やら、抗議やらと言っていたことや、ダリル家側の国外外出許可印が何故あんなにあっさりと出たのかにも、年齢差や身分差を考えれば信じられないことだが、得心がいった。
ケルッツアの動揺など知らぬ存ぜぬ、今やニコニコ顔も怖いソフィレーナは、私言いましたよね、と粛々と言葉を放っていく。
「自信がなくて子供っぽいドクター。
ロームエッダの花の暗喩は、知らなかったじゃ済まされません。
貴方が先にプロポーズなさったのだから、私のプロポーズも受け入れてくださいますよね?」
ソフィレーナはそう言うと、ロームエッダの花が覗く編籠の中から、折りたたまれた紙を一枚取り出した。そしてそれをケルッツアの前に広げて見せる。
それは、花嫁の欄が埋まった結婚誓約書。
ケルッツアは、それを恐る恐る褐色の手に取り、困った、今にも泣きそうな顔でソフィレーナを見返す。
「君は、――――君の結婚相手が、こここ…こんな、おお…老いぼれでいいの?」
全ての情報が提示されて初めて、ケルッツアはソフィレーナが心に決めたひとがケルッツア自身なのだと気づいた。
頑迷で自信がなくて子供っぽい相手。
僕……好き嫌いとか多いから……子供っぽいって、それで……。
それにしても、である。ケルッツアは、飛び上がってしまいそうなほど嬉しいことは嬉しいが、やはり年齢差が気になった。
こんな老いぼれを結婚相手に選んで、ソフィレーナは本当に幸せなのだろうか。
もしかして、春の宴の日に、知らないとはいえプロポーズしたから。
優しいソフィレーナさんが、それに応えてくれているだけ、なんじゃ……。
だとしたら自分はソフィレーナの未来の可能性をどれほども潰してしまっているのでは――――ケルッツアはそう、不安でいっぱいになりながらソフィレーナを見つめる。
対するソフィレーナは、真っ赤な顔で――――少し前の怖い顔ではなく、優しげな眉の線をさらに困ったように八の字にした本当に柔らかな笑みで、歳は関係ありません、ときっぱりと言い放った。
「歳は関係ないんです。私は、貴方が良いの!!!
――――それでもサインしてくださらないなら、私結婚なんて一生しないわ!」
ソフィレーナはそう言うと、赤々と震える指先を、ケルッツアの持つ結婚誓約書に置いた。
それから、彼の持つ褐色の手の上から、ソフィレーナ自身の手をゆっくりと添わせる。
ケルッツアは、自身の手に添えられた赤々とした小さな手の温もりに、泣きたくなった。
それでも、ケルッツアは聞かずにおれない。
「本当に、いいの……? 僕から君を拒絶するなんてことは、ないよ。
でも、君はまだ若い。この先の将来、僕よりもっといい人が現れたとき……後悔しない?」
年若く、明るい将来を持った者が、今や年老いてあとは枯れてゆくばかりの者を伴侶に選んだとき、当然起こりうる可能性を、ケルッツアはソフィレーナに尋ねてみた。
僕で……いやに、ならない?
内心の声は口に出せない。
ケルッツアは、将来ソフィレーナに捨てられるのが、堪らなくこわかった。
けれど、ソフィレーナは揺るぎない。
「いない人のことを言っても仕方がありません。
後悔なんてしませんよ。むしろ、貴方と結婚しない方が、私は後悔するわ」
そう言って赤々とした顔で微笑むソフィレーナは、本当に幸せそう。
ケルッツアは、やっと。
腹の底から、堪らなく熱く、嬉しくなった。
ここまで、望んでくれるのならば……。
だからケルッツアは、前かがみに持っている結婚誓約書に額を付けて、ソファーの上で丸まり、大きく、息を吐いた。
そして、万感の思いを込めてソフィレーナを仰ぎ見る。
「夢、みたいだ……本当に、僕は……。
僕も、本当は――――君と、結婚したかった」
ケルッツアの感慨に満ちた言葉に、良かった、と、柔らかな応えが返った。それは、ケルッツアのすぐ横に寄り添う、白い花の姿。
「私も――――うれしい」
ソフィレーナの温かな言葉に、ケルッツアは、結婚誓約書を目の前の足の短い机の上に置くと、インク壺にあった羽ペンを取り出した。一瞬、躊躇したものの、一息に書き込む。
ソフィレーナから、そっと、鼻を啜る音がした。
ケルッツアがソフィレーナを見れば、彼女は涙目だった。
それがたまらなく。
ああ……僕の……。
彼女の口元で震えている両手を、遺跡の前でしたのと同じように、赤々と震える両手を、褐色の手に取って包み込み、額に押し頂いた。
メッシュラメルリッツと呟くと、今度は、ソフィレーナの真っ赤な顔に手を伸ばし、その頬を片手で撫でる。
そして、もう片方の手で、真っ赤なまま顔を寄せてきたソフィレーナの美しい栗色の前髪を払うと、額にキスをした。
「メルリッツ ソフィレーナ」
そう言って、ケルッツアはソフィレーナと額を合わせようとしたが、その前に、ソフィレーナによってケルッツアの灰色の前髪が払われる。
驚き固まるケルッツアに、ソフィレーナは涙交じりの笑顔で、メルリッツ、と言うと、ケルッツアの褐色の額に口づけた。
「メルリッツ ケルッツア」
そう言って、今度こそケルッツアと額を合わせる。
「なん!?……な、なんで……????」
ケルッツアは、ソフィレーナがケルッツアの故郷の儀式の続きを知っていることにそれ以上言葉が出ない。
対してソフィレーナは涙の滲む目をそっと瞑り、口元に淡く笑みを浮かべる。
ケルッツアと額をくっつけたまま、告げた。
「貴方と国外旅行に行った夜、夢に、褐色の肌に目元が切れ長の美人な女の人が現れて――――メルリッツの意味を歌で教えてくれたんですよ。
儀式のやり方、合ってましたか?」
「あああ、…合ってる……。サルッサロッツさんまで、来てたなんて…………」
呆然とするケルッツアに、それがお母様の名前? とソフィレーナが聞いた。
ケルッツアはゆっくりと深く頷くと、僕を育ててくれた人の名前だ、と、感慨深げに目を閉じる。
その左目から、一粒、涙をこぼした。




