4・誓約のゆくえ・
ドクター、と。そっと掛けられた隣からの声に、ケルッツアは静かにそちらを見やる。
この世の者とは思えないほど、美しく着飾った白い花の姿に、眦を細めた。
国立図書館の仮定図書一覧表作成のスケジュールとすり合わせ、十二月半ば、ソフィレーナとケルッツアの結婚式は静々と執り行われた。
ソフィレーナは当初ダリル家の末姫の降嫁に相応しく、ドレスを着て教会で誓いを立てるだけのつもりだった。
けれど、それを知ったケルッツアが、小さくとも記念に披露宴をしようと提案したことで、招待客への招待状の用意など、準備期間も大幅に延びた先、少しだけ豪華な式を催すことになった。
ソフィレーナは、そっと、薄く紅の刷かれた唇に、白いレース製の指先をあてる。
さきほど、ケルッツアと初めてキスをした。
それは、教会での誓約の――――誓いのキスだったけれど、まだ、感触が残っている。
ふわふわした心地のまま、教会から車でダリル邸に運ばれてきていた。
ダリルの家に生まれて初めて入る一室は、ソフィレーナが使えないはずの部屋。
ケルッツアの――――現賢者の結婚式ということで王から直々に貸し出しが許可された外交上の設備。
煌めくシャンデリアが三つも天井から吊り下がっていた。
室内は白を基調に整えられ、幾つもある丸テーブルに大学の学友や、国立図書館の友達、他、ケルッツア側の――――ソフィレーナが知らない顔もある、名前を三音に縮めて呼び合う仲間の姿がある。
丸テーブルに用意された料理は繊細で、キラキラと輝いていた。
温かな雰囲気に包まれた会場を、大好きなケルッツアと、腕を組んで奥のひな壇へと向かっていく。
余りの幸福に、ソフィレーナはこけないようにと、気持ち、長い裾を持つ優美なウェディングドレスを持ち上げて動くようにしていた。
それでも、高揚感で空を飛べそう。
そんな彼女を、背を丸めて、気遣うケルッツアの歩みは遅い。
灰色の短髪に、新婦であるソフィレーナとお揃いで、近年の流行に則って飾った花はダリル家の象徴花であるロームエッダの白い花と、丁度十二月頃、国の南方で開花する一重咲きの蒼いリタンという花。
リタン――――それが、ケルッツアも大して気に留めていなかったディス・ファーン姓の象徴花。
ケルッツアが異世界に行こうとした際、この国の家臣となる誓約を王の前で結んでから決められていたのだと、彼が知ったのは一か月前。
リタンの花はその季節でないと見受けられない野草だったため、偶然とはいえ花の咲く時期に式ができて、ケルッツアは、ホッと胸を撫でおろした。
隣を歩くソフィレーナは、歩きづらそうだったが、とても美しかった。
栗色の輝くような髪は、この日のために少しだけ伸ばされて結い上げられている。
頭に飾ったロームエッダの白に、小さく蒼が混じる。ケルッツアはそれが誇らしく思えた。
肩をレースで覆ったウェディングドレスも、彼女の母の物を直したと聞いていたが――――知らなければ、ソフィレーナ専用に作られたのだと思ってしまうぐらい、よく似合っていた。
司会はダリル家の当主であるサラフィーネが行う、内輪で進んでいく式の中、ソフィレーナはこっそりと隣に座る白い燕尾服姿のケルッツアの袖を引いた。
気づいたケルッツアが、その褐色の顔を寄せてくる、その耳元に、ソフィレーナはそっと。
「ドクター。披露宴を催してくださって、ありがとうございます。
私、今、世界一幸せだわ」
しっとりと、まるで一輪の花のように微笑むソフィレーナに、ケルッツアも耳を赤くしながら応じる。
「そう言って貰えると本当に嬉しいよ。
僕も、世界一幸せだ」
そう言ってひな壇で微笑みあう新郎新婦を、その場の誰もが温かな笑顔で祝福していた。
披露宴の後、ソフィレーナはケルッツアと一緒に、ケルッツアの持ち家の王都港域の小さな家に車で送られていった。
すでに国立図書館の今年度分の業務を終えている二人は、これから年始にかけてたっぷり休みを取っていた。新婚旅行ということで、ソフィレーナの外出許可証も手元にあり、国内旅行に行く手筈も整っている。
ケルッツアとソフィレーナとは、この国内旅行をもってしばらくは、また離れ離れの生活になる予定だった。
週三日だけ、ケルッツアの住み着く国立図書館か、彼が時々帰る王都港域の家に、ソフィレーナが通う生活。
ソフィレーナは今年の十一月の誕生月で二十四になった。学者を名乗れる試験は二十五歳から受けることができるため、彼女はこの国内旅行が終わってしばらくはその試験への準備に専念するつもりでいた。
なのでまだ国立図書館の職員専用寮は借りたままである。
勿論それはケルッツアにも告げてあることで、ケルッツアもソフィレーナの学者としての未来に、できる限りのことをしようと、その案に賛成していた。
それでもソフィレーナは、学者を名乗れる試験の準備と、国立図書館の業務の合間を見つけて、度々旅行に行くつもりだった。
ソフィレーナは――――ケルッツアに告げたとき大賛成されたが、これから先、二人で、なるべく沢山の国内旅行をしようと思っていた。
ケルッツアは国内旅行であれば許可証は必要なく、ソフィレーナも、国内旅行であればダリル家の略処理でも許可が出るようになったためだった。
ケルッツアと一緒に旅行に行きたい。
それは、ソフィレーナ自身の我儘でもあった。ほとんど勢いで結婚まで押し切ってしまった手前、ソフィレーナにはケルッツアとの思い出が国立図書館内のことと、国外旅行に行ったことくらいしかない。
大好きな人と一緒にいたい。大好きな人の旅行先での違った一面をもっと見たい。
大好きな人と、沢山の思い出が欲しい。
ソフィレーナの願いは、言葉にしたならば、そんな些細なものだった。
新婚旅行は、国の南方に広がる、国立公園の中。
国立公園のそこかしこ、点々と、蒼い一重咲きの――――リタンの花が咲いている。
「なんだか、一つ一つの株が、寄り添ってるみたい」
ソフィレーナはそう言って、その花にそっと手を伸ばす。中腰の白いてのひらの中、蒼い花が風に揺れた。
「かわいい」
そう言って、しゃがみ込んだソフィレーナに、ケルッツアも真似して近くにしゃがみ込んだ。ソフィレーナは、花を傷つけないように、そっと撫でる。
「ここでしか見れないのが、少し切ないわ。
国立公園の中じゃあ、株を持ち帰ることはできないものね」
結婚式のときは、特別の許可が下りただけだもの。そうケルッツアに苦笑したソフィレーナの胸元には、花形に磨き抜かれた貝がいくつかと小さな貝殻を一つつけたデザインのペンダントがある。
そのペンダントが微か光に当たるのを眩しげに見たあと、ケルッツアは、にっこり。
「エルグから少しだけ、採取の許可を貰ってるんだ。
お祝いだって。
驚いた?」
落ち着いた声音に、ソフィレーナは特徴的な眸を見開いた。
そんな様子のソフィレーナに、成功した! と嬉しげにケルッツアは、どこからか取り出した、小さなスコップで、リタンの株を傷つけないように土ごとビニール袋の中に入れた。
「王都港域の気候でも育てられるといいんだけどね」
そう言って、採取した株を大切そうに抱えるケルッツアは、それから少しだけ苦労して。
ディス・ファーン家の庭の片隅に、リタンの花を根付かせた。
ソフィレーナは、二十七歳で学者としての資格を得た。
それから、三十九歳で国立図書館を辞め、ソフィレーナがずっと取り組んできた菌糸研究のできる機関の所属職員になった。その後、菌糸研究の第一人者となり、機関の所長にも抜擢。七十歳で引退するまで第一線を走り続けた。
その間に、ソフィレーナとケルッツアとは、毎年二回は国内のあらゆる箇所に旅行に出かけた。
それはソフィレーナが国立図書館を辞めても続くディス・ファーン家の恒例行事と化していた。
ケルッツアが八十五でこの世を去るまで、そして、去った後も、ソフィレーナは折を見つけては国内旅行へ出かけた。
ソフィレーナは、晩年は、二人で新婚旅行に行った場所を中心に、一人で遺影と共に旅先を巡ることが多くなっていった。
ケルッツアは、ウィークラッチ島の遺跡の解明発展研究を手伝う傍ら、生涯国立図書館の総館長でい続けた。
ソフィレーナが助手を辞めて以降は、別の助手を持つことはなかった。
穏やかな日差しに囲まれた、三月某日――――王都港域のディス・ファーン邸にて、年老いたソフィレーナは一人、小さな庭に出て、草木の水やりをしていた。
その中には、透明な材質で小さく囲われた咲き終えのリタンの株がある。
囲いの入口からその株をそっと撫でて、ソフィレーナは、今年のリタンの花は見られるだろうか、と。
静かに思った。
表舞台から姿を消して、数年。
彼女は、最近めっきり弱ってきた老体に鞭を打つと、今日の夕飯の支度をするために家の中へと入っていく。
と、妙に眩しい西日に、目を眇めたときだった。
「ソフィレーナさん」
久しく聞くことのなかった、ケルッツアの声を聞いた。その声は、ソフィレーナが覚えているどの声より若々しく張りに満ちていた。
ソフィレーナが声のした方を――――今しがた出ていた庭の方を振り向くと、すでに死したはずのケルッツアが――――ソフィレーナが写真でしか見たことのない、若い姿で立っていた。
「あら、まあ……!」
ソフィレーナは老いた目をさらに瞬かせて、妙に明るい西日の、穏やかな光の中にいる人物を見、花のように微笑んだ。
「若い頃は、そんな姿だったわね……あなた。
……お迎えに、来てくださったの?」
多大なる驚きと喜びと、ほんの少しの悲しみが、ソフィレーナに舞い落ちた。
すでに死した者の姿が――――それも写真でしか見たことのない若い頃の姿が見えるのは、自分の先が長くないからだろう、と。だから、ケルッツアが迎えに来たのだと。
光の中のケルッツアは、静かに一つ頷くと、この日を待っていたようで待ってなかったんだ、と、さっぱりとした諦めを零す。
「僕の声が届いてしまう日は、もう君が亡くなる日だから。その日が早く来ればいいと思う傍ら、生き生きと生きている君を見ているのも好きだったんだ。
僕は、僕が死んでから、身勝手だけど、ずっと君の傍にいた。
――――知らなかったでしょう?」
そう言って、若い姿でも変わらない、苦笑のような、いたずらっ子のような笑みを浮かべている。
ソフィレーナは、そんなケルッツアに、彼が亡くなってから今日までの懐かしい月日を思い出しつつ、小さな理解と共に、小首を傾げてみせた。
思い出すのは、国立公園を遺影と一緒に歩いたとき。
ケルッツアがスコップを入れた場所は、わからなくなっていた。
それでも彼女は、温かな思い出に浸っていた。隣が、温かい。錯覚。
「知らなかったけれど、知っていたみたい。
だって、独りでいても、不思議と淋しくなかったもの」
ケルッツアが亡くなってから、確かにソフィレーナは独りになった。
けれど、常に心のどこかが温かく満ち足りていたように、今は思い返す。それは、思えば、死して尚別れていなかったから、だろうか、と。
ケルッツアにしとやかに笑い返したソフィレーナは、もうどこも年老いてはいなかった。
丁度、ケルッツアと結婚した年の頃、鮮やかに頬を染めて、でもね、と夢見心地、勢いよくケルッツアに抱きついた。
「逢いたかったのも本当のことよ……!」
「僕も、声を届けたかったよ」
ソフィレーナを優しく抱きとめたケルッツアは、一緒にいたのにね、と、どこかおかしげに喉の奥で笑った。
ソフィレーナは、誰よりも何よりも大切で大好きな愛する人の腕の中、言い知れぬ安堵に大きく深呼吸する。
年若いケルッツアは、けれど、年老いていた――――ソフィレーナの知っているケルッツアと同じ温度と匂いがした。それが、何より嬉しくて、ソフィレーナはその両方の眦から大粒の涙を零した。
「これから、どこへ行こうか」
ケルッツアは、喜びに泣きむせぶソフィレーナの耳元に、こちらも嬉しそうに、そして楽しげに語りかける。
「あなたとなら、どこへでも行きたいわ……!」
ソフィレーナはそう言って、涙を拭ってくれる大きな褐色のてのひらに頬ずりした。その顔のまま、かつてはプロポーズの日に、または彼が亡くなったとき、棺桶に眠るケルッツアにしたように、彼の額にそっと口づける。
「メッシュラ メルリッツ」
そして、万感の思いを込めて、息と一緒に誓いの言葉を吐き出した。
「メルリッツ ケルッツア」
ケルッツアは、そんなソフィレーナの額に、彼の葬式のときはできなかった――――口づけを贈って、彼女の美しい栗色の髪に顔を埋めると、誓約を繰り返す。
「メルリッツ ソフィレーナ」
こうして、二人は西日さす庭の光の中に解け消えていった。
どこまでも一緒よ、と。少女のような囁きが風の中に。
どこまでも一緒だ、と。青年のような声がいらえを返す。




