記念日の宵
「今日の夜、一緒に晩酌しない?」
そう誘いをかけてきたケルッツアの無邪気な顔に、ソフィレーナは、にっこりと応えた。
内心の哀しみはおくびにも出さず。
***
十二月の身を切るような寒さも厳しい、ある冬の朝。
ケルッツアは起きて早々に布団を跳ね上げると、上機嫌で、今日は僕らが結婚した日だね、と。隣で縮こまったソフィレーナをそっと揺り起こした。
彼女は、少しぐずると、まだ眠い目をこすりこすり、寝床の近くのカレンダーを見て、あ、と。小さく声をあげる。
「本当だわ! やだ、私なにも用意してない……!!!」
そして慌てたように飛び起きると、深い息とともに両手で顔を覆った。
そんなソフィレーナを包み込むように抱きしめて、ケルッツアはゆったり、なにもいらないよ、と空中に笑う。
「僕からしたら、ソフィレーナさんが一緒にいてくれるだけでうれしいから。
ああ、でも……今日の夜、一緒に晩酌しない?」
シルドから結婚前に貰ったワイン、まだ封開けてないの残ってるんだ。そう無邪気に体を揺らすケルッツアに。
ソフィレーナは少し無言になった後、にっこりと提案する。
「じゃあ、せっかく朝早くに起きたし、あなたもお休みだから。
本土に晩酌のおつまみとか、買い出し、行かない?」
こうしてふたりは、早々に朝食を片付けて買い出しに出かけた。
昼間のデートは楽しかった。朝早くの船便に乗って本土にふたりして出かけ、王都の方まで足を運んだ。
途中、早くも春向けの華やかなショーウィンドウに釣られて足を止めたソフィレーナに、ケルッツアは文句ひとつ言わず、どころか楽しそうに店の中に彼女を誘うと、試着を勧め、彼女が気に入った服を数着買ってくれた。
これにソフィレーナは貰ってばかりは嫌だと、ケルッツアを万年筆専門店へ誘い、ケルッツアも遠慮することなく栗色の万年筆を求めた。
お昼は高級料理、とはいかなかったが、露店で、この頃王都で流行っているというファストフードに舌鼓を打った。
ケルッツアが大切なときにしか開けないワイン、に合わせる食材も、妥協することなく、少し奮発。
そうしたいちいちの買い物の間中、ケルッツアとソフィレーナとはずっと指を絡めて手を繋いでいた。
ソフィレーナは、学者になる試験に備えるために週三回しかケルッツアと同居することができない。
けれどケルッツアは嫌な顔一つせず、ソフィレーナが帰ってくるその時には、手ずから、料理や紅茶を振る舞ったりと何かと気遣ってくれる。
同居する三日間は、一緒にも眠る。本当に一緒に寝るだけだが、ケルッツアは朝までソフィレーナを離さない。大好きな人の体温を感じて眠りにつく瞬間は、ソフィレーナの一等好きな時間でもあった。
でも、ケルッツアがお酒を飲んだ夜だけは。
今日、ひとりで寝るの…やだなあ……。
少しの憂鬱を振り切るように、ソフィレーナはケルッツアの好物であるチキンのトマト煮を作るべく、キッチンに立った。
夕食も楽しかった。他愛もない話をして、笑いあって。
お互いにシャワーを浴びて蒼いパジャマとえんじ色のパジャマに着替え、宵の口。
二つのワイングラスに琥珀の液体を注ぐケルッツアの仕草は浮かれている。
おつまみを用意したソフィレーナは、ほんの少しの憂鬱にそっと息をはいた。楽しいことを考えよう、とにっこりと意識的に笑う。
小さな円卓に向かい合って座り、乾杯、と揃ってグラスを合わせた後、彼女は、もう一年なのね、と口火を切る。
「あの、パパの暴走から、一年たったと思うと……感慨深いわ……」
その言葉に、ケルッツアは、何とも言えない顔で、ティセラン氏は、本当に君を大切にしているからね。とワインを一口。チーズを片手に、あれは、僕も驚いた、と当時を振り返った。
「披露宴の、宴もたけなわ、といったところで。
いきなり、ティセラン氏がひな壇に上がってきたんだったね・・・」
そう言ったケルッツアは、持っていたチーズをつまみ、美味しい、と顔をほころばせる。
チーズを口に入れつつ、ケルッツアのぼやきは続く。
「顔合わせの時も、”賢者の称号があろうとも、異人の、しかも遺跡を壊した大罪人、その上歳も私とそう変わらぬなど”、って、あからさまに渋い顔してたから、何かあるかなーとは、思ってたけど……。
まさか、披露宴の席で、飲み比べするとは…………思わなかったなぁ」
遠い目をしているケルッツアに、釣られたソフィレーナも、ナッツに手を伸ばすと、ママも、と話し出す。
「止めてくれるかと思ったママも、お酒なら穏便ね、って。席を用意するとは思わなかったわ」
そう言って、ワインで口を湿らせた。
うーん、と。ケルッツアはワイン片手に、天井を仰ぐ。
「ティセラン氏は、若くして王立騎士団の筆頭だった、と聞いたから……。お酒で手を打ってくれただけ、温情とは思う、かなあ」
一つ息をはくと、でも飲み比べ、受けておいて良かった、と。打って変わってにこにこ。干し肉に手を付ける。
「相手の鍵の開いたときは、お前も無条件で鍵を開けよ、ってね。
週に三日間の同居の許可も、禍根なく貰えたし。
ソフィレーナさんは知らないかもしれないけど、ティセラン氏とは、時々差し飲みしてるんだよ」
そう言って、美味しそうに干し肉の加工品を食べているケルッツアに、パパもあなたを認めたってことかしら、とソフィレーナは少し首をかしげて、微笑んだ。そっと訊く。
「その、相手の鍵が開いたとき、っていうの、素敵ね。
お義母さまの――――蒼き流砂の使徒、でしたっけ?
その一族のことわざ?」
ソフィレーナが訊くと、ケルッツアは一拍置いた後。持っていたワインを一息で片付けた。ソフィレーナが、ちょっと驚きつつお代わりを注ごうとワインボトルに手を伸ばす。
それを制し、自分でワインを注ぐと、低くうなった。
「……。僕と君が砂漠に行った日の事、覚えてる?」
斜め下手を眇めながら、そう聞いてくる。
ソフィレーナの中で、いやに鮮やかな記憶が蘇る。プレゼントされた旅行。嬉しかった。プレゼントされた貝殻のネックレス。嬉しかった。
蒼い綺麗な花嫁衣裳。
遺跡の前で言われた言葉。
「ええ、いろんな意味で忘れられないわ」
その当時の複雑な気持ちに、今の、ほんの少しの不満が合わさって、ソフィレーナは少し硬い声が出てしまった。
その声の質に気づいたか気づかずか。ケルッツアは、なみなみ注がれたワインの琥珀色をまるく撫でた。
「……。僕もね。
蒼き流砂の使徒、なんだ」
落ちた言葉は、そっと。
ひとりごとのように、ケルッツアは続ける。
「僕は当時、……民の誇りの体現である大切なナイフをある人に預けていて……。それは返ってきてたけど、預けていた期間が長かったから。
言い出せなかった」
本当は。と、ケルッツアは苦笑する。
「本当はあの時、砂漠で……花嫁衣裳、着てほしかったよ」
そう言って、ケルッツアが琥珀の液体に口をつけるより早く。
あなたは、と。ソフィレーナの声が、響く。
「……。
あなたは、お義母さまにうんとうんと感謝しなくちゃいけないわ」
思った以上に響いてしまった声を恥じるように少し沈黙した後、ソフィレーナはぷく、っと頬を膨らませた。視線をケルッツアに向けないまま、こちらも一気にワインを空ける。
酒の勢いか。
「あの日、私大泣きしたんだから……失恋したって!」
言うつもりのなかったことを吐露していた。
「え? ええええ???? ど、どう????」
向かいで途端慌てだすケルッツアを恨めしげに見、特徴的な虹彩――――一等濃い紫水晶に下の方から栗色を煙らせた眸に少し涙を光らせ、ナッツをポリポリ。好きな人に、と。ワインボトルを手に取り、自分のグラスに注ぐ。
「好きな人に、他の人と結婚することもあるだろう、なんて言われたら、ふつう、悲しいの!!!」
ソフィレーナの向かいで、息の潰れるような小さな音がした。
それきり、音はしない。
穏やかな晩酌の雰囲気は、どこにも残ってない。
それでも、ソフィレーナは謝る気になれなかった。無駄に高い矜持が泣き出しそうな眦の熱も許さない。チーズを一口。どうせ彼がお酒を飲んだ日は。思う。
どうせ、ひとりで寝るんだもの。
思う存分飲み食いして、勝手に席を立ってやるわ…!
だから、ソフィレーナは気づかなかった。ワインを一気に片付けて、グラスを置くと同時。
「ソフィレーナさん」
「きゃあ!」
いつの間に立ち上がり移動したのか。ソフィレーナのそばに来ていたケルッツアに、後ろから、椅子の背ごと抱きしめられた。
ケルッツアの、抱き寄せる力は強い。ケルッツアはソフィレーナの肩口に顔を埋めたまま、静かに呼吸を繰り返している。
「な、なあに? どうしたの?」
悲しい気分でいたソフィレーナは、急なケルッツアの行動についていけない。思わず、体の前に硬く回された蒼いパジャマの腕を、ぺちぺち、とたたく。
ケルッツアは、顔をあげない。
と、蒼いパジャマの長袖に包まれた腕が、そっと動いた。
ソフィレーナの頤に褐色の指先がかかる。
ソフィレーナがケルッツアの顔を窺おうとするより早く、メルリッツ、と掠れた声がした。ついで、額に熱。
ついで。
「んっ……!」
ソフィレーナが怒りを感じるより一つ早く、口づけられた。
口づけは一度離される。すぐに有無を言わさず角度を変えてまた口づけられる。そんなことが、二度、三度と続き、ソフィレーナは目を白黒させた。
いつもは、一回で終わるのに
息が上がり、悲しい気持ちも怒りも口づけに溶けてゆく。
こんな口づけは、はじめてだった。
どれだけ口づけを受けたかわからない。僕は、という酷く掠れた声に、ソフィレーナはゆっくりと気がついた。
「僕は、君に対して、……もう少し、驕っていい?」
呆然と、このひとの声が掠れるのは。と。ソフィレーナは唾液で濡れた口元から荒い呼吸を繰り返しながら、思う。
このひとの声が掠れるのは。
とても、照れている時。
頭の芯がまだぼうっとしていた。
荒い呼吸は、二つ。
掠れた声は続いた。
「僕が、お酒に強いことは、知ってるよね?」
その言葉に、ソフィレーナはゆっくり一つ頷く。思った。このひとはお酒に強い。パパも強いのに、飲み比べは、最後はふたりして顔を赤くして、それでも、このひとが勝ったぐらい、つよい。
ただただ息をしているソフィレーナを抱きしめ、だから、と続いたケルッツアの言葉には芯があった。
「この行動は、決してアルコールに浮かされたからじゃない。
……僕の、意思だ」
その言葉はとても深く、ソフィレーナの、静かな憂鬱に沈んでいく。
掠れた声は続けられる。
「僕は、男女のそういったこと、に興味はないけど。
……君だけは、例外だったんだ……」
その声は、懺悔の響きをしていて、どこか甘く、ソフィレーナの内にとどろいた。
ソフィレーナは。
その言葉をゆっくりと咀嚼し、さらに抱き寄せられた熱い腕の中、そっと、ケルッツアの頸動脈に、耳を押し当てる。どくどくと煩い血流の脈がわかる。
わかる。
柔らかな栗色の髪に、褐色の大きな手が沈みこみ、くしけずられる感覚。
「ソフィー」
大好きな声で、愛称を呼ばれて、ソフィレーナは、一筋、涙を。
「赦して、ほしい」
噛んで含めるような言い方は、哀願の様相を呈して、どこか熱情に浮かされていた。
何を、赦すのか。
ソフィレーナは、彼の頸動脈にぐりぐりと頬ずりする。ずるい、という言葉は自然と漏れた。それも赦して、と囁きが落ちる。
ケルッツアにこんな風にされたことは、ソフィレーナにはないことだった。
まして彼にお酒の入った日は、どことなく避けられるのが常。
一緒にだって、寝てくれないというのに。
「ソフィー」
呼ばれる。掠れた、あたたかな声。
降ってくる。
「僕は君に、分別のないことをしないようにしてたけど……。
あの砂漠の日、君を泣かせてしまっていたのなら……。
この我慢も、解いてもいいのかもしれないと、思う」
赦して、ともう一度囁きが生まれる。
ソフィレーナは。
お酒を飲んだ日、一緒に眠らないの、は。
ひとつ、予感を抱えた。
「お酒…飲んだ日……一緒に、眠らないのは・・・」
ケルッツアの腕の中、ソフィレーナは、ぽろぽろと零す。流れる涙もぽろぽろ。嬉しいのか、切ないのか、心がいっぱいでよくわからなかった。
受けたケルッツアがその涙に口づけ、君はあまい、いいにおいがする、と囁く。
「いつもは、抑えられるんだけど…お酒を飲んだ日は、それを無性に知りたくなる。その甘さがどれほどなのか、暴きたくなって仕方がなくなる……んだよ」
赦して、と。また声。
衝動だった。彼女は椅子の背ごと後ろから抱きしめられた状態から、体を捻ってケルッツアの首に抱きついていた。いっぱいいっぱいの心は早鐘に押されて、今感じている心情の名前がわからない。
お酒を飲んだ日は、一緒に眠るのが煩わしいのだろうとばかり思っていた。
それが、違った。もっと複雑なものだった。
ソフィレーナは、赦すも赦さないもないと思う。もう夫婦なのだから、嫌なら結婚などしていないのに、とも思った。
お行儀のよい一回の、触れるだけのキスだって好きだった。一緒に眠るのだって、嬉しかった。
けれど、本当は。はしたないと思わないでもないけれど、ほんとうは。
このひとの分別が、動こうとしている。
それが、そのことが。たまらなく胸を熱くしてどうにかなってしまいそう。
ソフィレーナは衝動で、赦す、と言いそうになった。けれど、ほんのちょっと。ほんの、ちょびっとだけ。
「……お願い、きいてくれたら。赦すわ」
ソフィレーナはそっと、褐色の赤く染まっている耳朶に言葉を吹き込む。涙交じりの声は、少し聞き取りづらい。彼女の、無駄に高い矜持が顔を出した。
ケルッツアは、彼女が振り返って抱きついてきたことでちいさな背を抱く。その背を宝物のように抱きしめなおす。
「なんでも。
君が望むなら、たとえ、この国の伝承の――――砂の中に落としてしまったちいさな耳飾りだって、探し出してみせるよ」
そうして、抱いた背を大きな褐色のてのひらで、そっと撫でた。
ひそやかに零れ落ちたのは、弦楽器の高音部分を爪弾いたかのような笑い声。その声は彼の耳に蜜のように、こうささやく。
「じゃあ、きょう、一緒に寝て?」
ケルッツアは思わずソフィレーナの顔を見た。暴力的な知識欲が鎌首をもたげるから、お酒の入った日は一緒に寝ない、と告白したばかりなのに。
「それは……どういう…………?」
どうとでも取れるお願いに、ケルッツアは困惑気味。
対するソフィレーナは泣いたのがうそのように晴れやかに、笑っていた。
「どっちでも。あなたに任せるわ。――――でも。
……。お酒交じりで思い出を作るのは、私はいやよ?」
そう言って、心底困り顔のケルッツアの額に、キスをする。
「私のメルリッツ。叶えてね」
あざとげに、真っ赤な顔で極上の笑みを浮かべ、小首を傾げて見せた。
ケルッツアは、瞑目。ソフィレーナの肩口に頭を落とすと、小さく、肩をすくめて見せる。
「――――分かった」
敗北宣言に、ソフィレーナは。
そっと、姿勢を戻すと、緩んだケルッツアの抱擁から少し抜け出て、ワインボトルに残った琥珀色の液体を、ふたりのワイングラスに注ぐ。
「さあ、飲みなおしましょ?」
ケルッツアが立ったまま白髪交じりの灰色の後頭部を少し掻いているのを見上げ、ワイングラスを手に持った。
「君には、一生敵わない気がする……」
そう落としたケルッツアもまた、自分の席に戻ると、ワイングラスを手に持った。ガラスの触れた音が小さく。
笑い声が、ふたつ。
ふたりの晩酌は、こうして続く。
これにて『星屑オペラッタif 総館長と助手』は終わりです。
読んでいただき、ありがとうございました!!!




