2・憤怒のゆくえ・
「おはようソフィレーナさん
昨日はよく眠れた?」
ケルッツアは、ソフィレーナが国立図書館最上階禁書庫の掃除を終えて総館長作業部屋に来たとき、そんなことを言った。
ソフィレーナは、本当に自分を振った自覚がないのだなと思いながら、愛想よく、ぐっすり眠れました、と答えた。
ソフィレーナの受け答えにあからさまにケルッツアは詰めていた息を吐き出すと、良かった、と破顔する。
「疲れていたようだから、少し心配してたんだ」
そういうケルッツアに、ソフィレーナはそつない顔でこんなことを切り出した。
「心配してくださってたんですね。ありがとうございます。
ドクター、昨日のお昼に私が食べた魚料理があったでしょう? あれ凄く美味しかったんですが、なんて料理ですか?」
ソフィレーナの言ったことに嘘はなかった。できればまた食べたいほど薄いパン生地の中に挟まれていた昨日の魚料理は美味しかった。
ケルッツアはあれは、と思い出すように宙を見、ソフィレーナに料理名を教えてくれた。
その後、こう続ける。
「あのね。もし、良かったらさ、今度、ムータ語圏の辛くないご飯を食べに行かない?
バスでも行ける場所で、南の方にある美味しいお店を知ってるんだけど……どうかな?」
このケルッツアからの提案に、ソフィレーナは正直どんな顔をしていいかわからない。
嬉しいことは嬉しいが、砂漠の歌の夢や辞典のコーナーを見ていなかったら、自分はどんな声と顔でケルッツアの誘いを断っていただろうか。
本当に、私を振った気は……微塵もないのね。
「素敵ですね。バスで一時間ぐらいのところなら外出許可証は要らないから、今度、行きましょうか」
いっそ感心するくらい、ケルッツアは普通にソフィレーナを食事に誘った。
ソフィレーナも、昨日大泣きしたのが嘘のように、誘いに乗った。
ソフィレーナは思う。大体、バスで何十分もかかる場所に食事に誘うこと自体が、普通の上司と部下からはかけ離れている、と。
ケルッツアのありようが普通の上司とかけ離れているといえば、そもそも、国外外出に誘うこともその例に漏れない。
如何に、プロフェッサー・ディム・ゲールの試験の打ち上げとはいえ、二人きりでワインやチーズを買い込んで、上司の家でお祝いなどするのだろうか?
今年の四月某日、ウィークラッチ島の雨が殊更酷かった日に髪を撫でられた。
だから、子供扱いは嫌だと伝えていたはずだった。
そのとき、ケルッツアは何と答えたか。
少なくとも、雨の中手を繋いで国立図書館に帰還したのは、子供扱いではなかったのだと、ソフィレーナは記憶している。
春の宴のときも、ソフィレーナはケルッツアに髪を撫でられた。
撫で返したいと言ったときのことを思い出すと羞恥を覚えたが、それも、今度撫でてくれ、と返されたはず。
どんなに親しい者でも、家族でもなければ普通髪を撫でたり撫で返したりする訳がないと思えた。
勿論、暗喩を知らないとはいえ、ダリル家の娘の髪にロームエッダの花を飾るなど論外も論外。
それは。
プロポーズ、だもの。
ロームエッダの白い花が髪に挿し込まれた感覚が蘇る。
ここまでしておいて……振る、なんて……っ!
煩い血流の音を、朝っぱらから、と鬱陶しく思う傍ら、ソフィレーナはふつふつと湧き上がる赤い感情を、解き放つことにした。
国立図書館は、もうすぐ半期仮定図書一覧の作成時期を迎える。
その騒動が例年ならば十月中旬には始まる。
その前に、覚悟を決めた。
彼女は、昼の休憩時間に携帯電話で実家との連絡を取り、急ぎロームエッダの花とドレスの手配をお願いした。
そしてその日は一日何食わぬ顔で過ごし、では本日の業務はこれで終了といった総館長作業部屋でのこと。
ソフィレーナは、窓辺にある作業机の辺りで佇むケルッツアに、切り出した。
「ドクターは、私がどんな未来を選んでも応援してくださるんですよね」
青い対置きソファーの下座で帰り支度を終えたソフィレーナにそう言われて、ケルッツアはちょっと驚いた顔をしたが、頷く。
「え? う、うん。でも、突然どうしたの?」
至極真っ当なケルッツアの問いに、ソフィレーナは何でもないです、と澄ましてこう答え返した。
「私、結婚するなら心に決めた人が一人いますので、他の人とは結婚しないんですよ」
そうソフィレーナが言うと、ケルッツアは、ソフィレーナの澄ました答えに、わずかに、灰色の三白眼を揺らした。
「それは……い、許婚?」
「いいえ。違います。でももうプロポーズは済んでるんです」
毅然としたソフィレーナの言い分に、ケルッツアはさらに灰色の三白眼を揺らし、喉から声を絞り出す。
「……え……?」
対するソフィレーナは澄ました顔のまま、手に用意していた休暇届けを固まっているケルッツアに差し出した。そしてまた、きっぱりとこんなことを言った。
「向こうにその気があるかはわかりませんけど言い逃れはできません。
という訳でドクター、私準備があるので少しの間お休み貰います」
「え? えええ????」
ケルッツアはソフィレーナから渡された休暇届けを手に困惑するばかり。
対するソフィレーナは、用事は済んだとばかり通勤用のピンクのバッグを片手に颯爽と総館長作業部屋を横切り、出入り口へと歩いて行った。
「本当に、言い逃れはできないんですからね!!!」
と、くるりとケルッツアに振り向き、赤い顔で念押しのように指を突き付ける。
ケルッツアは、きょとん、としたまま、突き付けられた指先と手元のソフィレーナの休暇届けを交互に見比べた。
「う、うん? うん? それは、誰に……」
「頑迷で自信がなくて子供っぽい未来の旦那様に!!!
では、失礼します」
ソフィレーナは、ケルッツアの困惑など知らぬふりで一気に言い切ると、総館長作業部屋の扉を通り、急ぎ国立図書館から本土港域に出、その足で実家へと帰った。
ソフィレーナの母、マリアーナは、前代未聞の娘の我がままに快く応えてくれた。
ソフィレーナは、ティアレーヌとサラフィーネ、彼女の二人の姉に、母の花嫁衣装を直すことを伝えて快諾を貰い、次の日には仕立て屋を呼び、ドレスの直しの採寸もした。
急なことに呼び出された職人に驚かれたが、愛想笑いでごまかす。
それが終わると、結婚誓約書の花嫁側の欄だけ埋めて、また本土港域の自身の寮に取って返した。
片側が空欄の結婚誓約書と実家から数輪の一重咲きのロームエッダの花を携えて。
二日間でここまで動いたソフィレーナはいささか暴走気味の自覚がありながらも止まらない。
本当はドレス姿のまま殴り込んでやろうかとも思ったが、それは流石に羞恥心が勝ったのでやめて、代わりに、ロームエッダの花を髪に挿し、真っ白な造りの良いワンピース姿で、ひとり、ウィークラッチ島行きの船に乗り込んだ。
ソフィレーナを動かしているのは、明らかな憤怒だった。




