1・来訪のゆくえ・
『この先、誰かと結婚することもあるだろう』
言葉が、ソフィレーナの中で巡って、出口をなくしていた。
船が本土港域に着いたのは午後九時過ぎ。そこからケルッツアに送って貰い、ソフィレーナが寮のリビングに到着したのは、午後九時三十分のことだった。
ケルッツアは夕食をと酒場に誘ったが、ソフィレーナはそれを丁重に辞退した。
リビングについて、朝の残りのスープを温め、遅い夕食とする。
お土産の仕分けを機械的にこなすと、少しのつもりでリビングのソファーに横になった。
がんがんと頭痛がしていた。
旅行に持って行った大きめの肩掛けバッグの中には、ケルッツアに買って貰った、ソフィレーナ自身もとても気に入った貝殻のペンダントがある。
けれどそれを、自室のアクセサリー入れの中に入れる気力までは今の彼女にはなかった。
写真も、デジタルカメラだから見返すことができるものだったが、ソフィレーナは確かに概ねは楽しかった旅の思い出に浸ることも辛すぎてできなかった。
『この先、誰かと結婚することもあるだろう』
ケルッツアが壊したという異世界の遺跡。
その前で言われた言葉が、彼女から考える力を奪っていた。
奇麗だという夕空を一緒に見たことも、異国の幻想的な夕闇の中の街の景色も、帰りにケルッツアと交わした言葉の一欠けさえも。
今のソフィレーナには遠い。
この上、ウィークラッチ島行きの明日の朝一の便ではケルッツアとまた顔を合わせるだろう。
それがあまりに辛くて、ソフィレーナはソファーの上でうつ伏せて、幾つかあるクッションに泣きついた。
化粧もまだ落としていないというのに構わず漏れる声をクッションに吸わせ、次第に酷くなっていく嗚咽をぼんやりと受け止めていた。
春の宴の実家の自室で、髪にロームエッダの花を挿された感触が蘇った。
あんなことをしておいて、という怒りと、ドクターは暗喩を知らない、という悲しみが、彼女をぐちゃぐちゃに乱してゆく。
同時に、四カ月もかけて国外旅行を敢行したのはなんだったのか、という疑問も湧いた。
ケルッツアは、なるべくは助手でいてほしい、とソフィレーナに言うためだけに、ソフィレーナと遺跡の前に行きたがったのだろうか?
『メッシュラ メルリッツ』
両手をケルッツアの額に押し頂かれたときの、真摯な灰色の三白眼の眸が蘇った。
ケルッツア自身はたわごとと言った、片膝をつく儀式めいたことは、とてもたわごとの雰囲気ではなかった。
ケルッツアの哀しげな顔が、ソフィレーナを混乱の渦に突き落とす。
何かを諦めた雰囲気のあったケルッツア。それは何を諦めたのだろうか。
メッシュラ、は彼女の知る限りムータ語で、私の、や、僕の、といった意味になる。
僕のメルリッツ、とはいったいどんな意味なのか。
ただ単に、振られた悲しみから逃げるために、そんなことを思っているのかもしれない。
ソフィレーナは泣きすぎて痛い頭の片隅でそう思った。泣く前も酷かった頭痛は、今こうして泣いている最中もがんがんと頭を苦しめる。
ソフィレーナは、一生分ではないかと思うほど、泣いた。
泣いて、泣き疲れて、夢を見た。
赤い砂の吹き荒れる嵐の中に、ぽつんと一つ、頑丈な造りのテントがあった。
風の勢いも今日見てきた赤い砂の舞う様も酷いというのに、テントの周りだけは、ソフィレーナの髪を巻き上げる程度の微風が取り巻いている、不思議な光景だった。
とても素朴な弦楽器の音が一度、二度掻き鳴らされる。
「姫御。姫御。こちらへおいで」
テントの中の橙の光の中から、妙に張りのある女性の声がした。ソフィレーナは、誘われるように声に従って、上がっているテントの入り口に膝をついた。
「もっと中へおいで」
ソフィレーナが狭いテントの入り口をくぐると、ふわりと清涼な香に迎えられる。テントの中にはランプが一つ。
その傍に褐色の肌の女性とも少年ともつかない目元の切れ上がった美丈夫が、ターバンに蒼い飾り布を編みこんだ姿で一人座っている。
ソフィレーナは、泣きすぎてまだ痛い頭を緩く振って、その人物に問いかけた。
「どなた、ですか? だあれ?」
「さて、誰だろう? あとで、砂漠の子に訊いてごらん?」
その美丈夫は、蒼い袖口に白地の長袖長ズボンに蒼い帯、右肩から掛け垂らした蒼い飾り布といった蒼い色が妙に印象に残るいでたちで、弦楽器を持ちなおすと、おどけたようにそう言った。
「砂漠の、こ? ドクター?」
ソフィレーナが唖然と呟いても、目元も切れ長の美しい顔をした彼女はとぼけてみせるばかり。
「さあ、ねえ?
姫御。姫御。私の語りを聴いておくれ。
静かにねえ? 耳を、よく、よく、そばだてて。
目を閉じて。流れた涙は拭えたかい?
ならばならば。始めよう」
そう言って、ぽろり、ぽろりと褐色の指先で弦楽器を弾く。
それは、ソフィレーナが聞き惚れるほど鮮烈でいて美しい旋律と歌声だった。もの悲しげに進んでゆく物語は、砂漠の神であるというサロという人物と、その奥方の今生の別れのシーンを歌っていく。
砂漠に倒れた美しい奥方の亡骸に、サロが縋っているシーンだった。
≪逝くな。逝くな≫
”サロ様。サロ様”
≪貴女のいない日々など、私にはとうてい耐え切れぬ≫
”貴方を残して行きたくない”
≪これから私に、どう、貴女のいないときを過ごせというのだ≫
”わたしに、この方を残してどこへ行けというの?”
≪己が課した贖罪に、すでに意義など見出せぬのに≫
”どこに行けるというのでしょう”
≪逝くな。逝くな≫
”行かない。行かない”
≪どうか逝かないでおくれ≫
”この方を残してなど行かない”
ソフィレーナの聞いている物語の中、サロと奥方とは離れがたくあるようだった。
弦楽器の弾き手は語る。
三日月の死の国の使者が二人を別つためにその場に現れた。そのことを悟ったサロは、死した奥方の両手を己の額に押し頂き、奥方の額に口づけた。
ソフィレーナの、ケルッツアに取られた両手が、微か、震えた。
それは、その仕草は。
眸を丸くするソフィレーナを、美しい歌が包み込んだ。
≪変じる命よ、赦しておくれ≫
”おとうさま、おかあさま。罰ならばわたしに”
≪この方と共に在れるなら、私はどう変じても構わぬ≫
”この方と在れるなら、わたしはどうなっても構わない”
≪だからどうか愛しい人よ、どうか受け入れておくれ≫
”だからどうか愛おしい人、どうか泣かないでくださいな”
≪メルリッツ(共に在ろう)≫
”メルリッツ(共に在りましょう)”
ソフィレーナは、ここでもまた驚く。
ケルッツアの言った、メルリッツ、という言葉が出てきた。
曲の中では、奥方の魂も泣き縋るサロの額にキスを贈ったようだった。
今まで悲しげだった曲調は見る間に転調し、瞬く間に喜びの様相を呈した。
≪ああ、貴女の声が在る。私の片割れを受け入れてくれたのだね≫
”ああ、わたしと貴方が砂になった。貴方はここに在るのに”
≪貴女の片割れは私の命。これで、共に在れるのだ≫
”貴方の片割れはわたしの命。ならば、共に在りましょう”
≪我が贖罪が永久なれば≫
”常しえに、わたしも貴方の御許に”
蒼い飾り布を編みこんだターバンの女性は語る。こうして、サロは死した奥方と共に姿を失った。
身体は砂と崩れ落ち、声は風へと溶け消えた。と。
そこから曲調はいかにも寓話を語るような穏やかでいて優しい調べになった。
≪今でもサロは片割れと共に、この砂漠に加護と慈悲とを与えてくださるよ。蒼く澄んだ空に、風が高く鳴くのは。サロの奥方が、サロに請われて歌うからだ。
随分と悲しげに歌うって?
いいや、愛しい者の傍らさ、さぞや朗らかに歌っておいでだろうよ。
でもね、奥方の歌声はサロのためだけのものだから。
それ以外には、ああとしか聴こえないしくみ。
いかに高潔で慈悲深きサロといえども。
奥方のことにだけは、とても狭量でらっしゃるんだ≫
語りを聞き終えたソフィレーナは、己の両手の甲を揃えて見た。
『メッシュラ メルリッツ』
ケルッツアは、ソフィレーナの額にキスこそしなかったが、額に手を当てて、その上からキスをしていた。
ソフィレーナは、急に、胸が熱くなるのを感じた。
「メルリッツ……命の、片割れ…」
ソフィレーナがそう呟くと、歌を終えた蒼い飾り布に包まれた美丈夫が大きく頷く。
「ああ。その顔は大丈夫そうだ。夜が明ける。
……ソフィレーナ」
美丈夫に――――いや、確かに美丈夫だった老婆に呼びかけられて、ソフィレーナは改めて目の前を見た。
蒼い色。あの、花嫁衣装と同じ色。
目の前の蒼い色が印象的な――――おそらく、流民の一つである蒼き流砂の使徒だろう相手をまじまじと見る。
「あの子の狂気に寄り添ってくれて、ありがとう」
若いときは美しかった褐色の顔をしわくちゃにして、老婆は微笑んでいた。
そこで、目が覚めた。
十月初めの明け方は酷く冷え込んでいた。
冷えたリビングで服も替えぬまま泣き疲れて眠りに落ちたソフィレーナは、目覚めて、まだゆるゆると痛む頭を緩く振った。
と、くしゃみを一つ。
薄手のワイシャツと薄手の繋ぎ風のジーパンで何もかけず寝入ってしまったことに身震いをし――――放り出したままだった肩掛けバッグを持つと、服を替えるために自室へと向かってゆく。
途中で洗面台に寄り、酷く泣き疲れた自身の顔にから笑いを一つ。
顔は酷いありさまだったが、ソフィレーナの気分は悪くなかった。
所詮夢。現実でソフィレーナがケルッツアに振られたことは――――ケルッツアの様子を見れば自覚はないようだが、間違いはない。
自室に戻り、買ったばかりのムータ語辞典で”メルリッツ”という言葉を調べてみたが、言葉自体が載ってなかった。
それでも。
「メルリッツ……命の、片割れ」
ソフィレーナの中に、多大なる勇気が生まれていた。
同時に、たわごと、と言ったケルッツアが何を諦めたのか、今は全身を赤らめるほどの理解がある。
ソフィレーナの未来のことを心配し始めたのも、ケルッツアなりの強がりだったのだとしたら。
私は……もし仮に結婚するとしても、ドクターとじゃなきゃ、嫌だわ。
現実だって、そう悪いことはないのだ。
なるべくは助手でいてほしい、と言われたのだから、嫌われている訳ではない。
春の宴のときも、子ども扱いじゃない、とソフィレーナの髪を触っていたケルッツアは。
メルリッツと言ったときの切なげな表情と、何かを諦めた眸。
夢を併せれば出てくる答えは、本当にソフィレーナに都合が良かった。
彼女は現金な自分に呆れながらも、冷え込む洗面台に戻ると化粧を落としお湯で顔を洗い、洗い立てのタオルで顔を拭った。明け方のお風呂場も冷えていたがシャワーで体を温める。
その後、寝なおす気になれず、自室で服を着てペンダントをアクセサリー入れに丁寧に仕舞った後、ふと、貝殻を贈ることに意味はないかと、辞典を調べた。
”大切な人に贈る贈り物だよ!”
”たとえば、妻、恋人、とか?”
記述に、思わず口元を押さえる。
彼女の顔は、真っ赤になった。
「……っふふ」
声が零れる。記述は辞典のちょっとしたコーナーにあったもので、茶化されていて真実はわからない。
ケルッツアの、声を思い出した。
『朱い腕輪は、特別な人へ』
あまり覚えていないが、他の腕輪はもっと丁寧に教えてくれたのに、今思い返せば、それだけ説明が極端に少なかった気がする。
私に、そういうひとがいたら……嫌だった?
想像に、淡く、口元が上がった。
ソフィレーナは、明けた夜空を窓越しに見る。
数時間後にはケルッツアと笑顔で顔を合わせられそうだと思った。
『僕は君がどんな未来を選んでも、応援するから』
この言葉を言質にしてしまおうか、と。前髪の横、丁度右の耳の辺りの髪の毛を触る。
そこは、春の宴の日、ケルッツアがソフィレーナにロームエッダの花を、ダリル家の象徴花を挿した場所だった。
暗喩を、思う。
それは知らないでは済まされないのだと、ソフィレーナは、今は揺るぎない。




