3・告白のゆくえ・
「少し、ついてきてほしいんだ」
ソフィレーナにそう告げたケルッツアは、大きな街の中、土地勘があるのかゆっくりと進んでいった。
どんどん港から遠ざかっていくことに、ソフィレーナは不安も覚えたが、賑やかな大道芸や色とりどりの布、道行く人々の見慣れない格好と肌の色、異国の景色が珍しくて、とうとう街の外れ、見晴らしの良い小高い丘にまで来ていた。
街を一望するその丘からは、北にはソフィレーナの国の森林が見え、西には港と街、南には赤き砂に覆われた砂漠が見える。小高い丘はまばらだが木々も立っていた。その奥の方に、赤茶けた色の洞窟が一つあった。
「ドクター…これ、遺跡ですよね?」
ソフィレーナは、ウィークラッチ島の遺跡以外初めて見る他の遺跡に目を見張った。
茶けた色の洞窟は、よく見ると石造りの人工物に見えた。入口は今は取って付けたような木製の扉が閉まっていて中に入ることはできない。
ケルッツアは懐かしげに遺跡の方を見ると、僕が壊してしまった遺跡だ、と言った。
「異世界への入口、第三十五号遺跡だ。
君とね、ここに来てみたかったんだ」
言うと、辺りを見回し、にっこりとする。
ひょうと、乾いた風がケルッツアとソフィレーナを撫ですぎていった。
ソフィレーナは不思議そうに、ケルッツアと同じように辺りを見回した。確かに景色は良いが、遺跡以外特に目立ったものもない場所だった。
「ここに? どうして……?」
ケルッツアが異世界に行けなかった遺跡、そこに一緒に来たかったと言うケルッツアの心理が、不思議混じりに何か特別なことのように思えて、ソフィレーナは緩く鼓動を速めながらそう聞いた。
ケルッツアは、うん、と一つ頷くと、今まで地面を見ていた視線をソフィレーナに移した。
「ここなら、お願いができると思った」
ソフィレーナは、お願い? とおうむ返しに問う。ソフィレーナが見る横のケルッツアは揺るぎない眸でソフィレーナを見つめている。
ケルッツアの灰色の三白眼は澄んでいた。澄んで澄み切って、切ない色をしていた。
その眸に、ソフィレーナは言い知れぬ不安と、また、ゆるゆるとした、さらに強い鼓動の高鳴りを覚えた。
ケルッツアは続ける。
「そう。ソフィレーナさん。
ちょっとだけ、この老いぼれに付き合ってくれないか?」
言うと、丁度西にある太陽を背にしてソフィレーナの前に対峙する格好になった。
「付き合うって、何を?」
ソフィレーナは、急に変わった空気の質に、ケルッツアが太陽を背にしたことで生まれた影の中にいることに、ますます強い鼓動の高鳴りと軽いめまいを覚える。
「ちょっとしたこと。君は、ただそこにいてくれるだけでいいから」
ケルッツアはそう言うと、す、とその場に片膝をつく。動揺したソフィレーナなど構わずに、彼女の白い両手を取った。
「あ…の……」
「……メッシュラ、メルリッツ」
ケルッツアは掠れた声でそう呟き、ソフィレーナの両手を褐色の額に押し頂いた。
取られた手に動揺するソフィレーナの前、流れるように立ち上がると彼女の美しい栗色の前髪ごし額に褐色の手を置く。
屈むと、その手の甲ごしに軽く口づけた。
「メルリッツ、ソフィレーナ……さん」
もう一度、ムータ語でそう言ったケルッツアは、とても真摯で切なげな表情をしていた。
そっと解放されたソフィレーナは、ぼんやりと春の宴のときを思い出した。あのときも似たような眸で、奇麗だ、と額をなぞられた。
その雰囲気と、今とがよく似ている。ただし、あのときは黒かった灰色の三白眼は、今はただただ澄み切って、切れそうなぐらい切ない色を宿しているだけだった。
「め、めるりっつ、って、なんて意味ですか?」
ソフィレーナは、何故そんな眸を向けられるのかわからない。だから、ケルッツアが呟いていたムータ語の意味を聞いた。
「うん? うん。たわごとだ。忘れて」
けれどケルッツアは意味を教えてくれなかった。
その眸は、その表情は、ソフィレーナが嫌いな、ケルッツアが何かを諦めたときのものとよく似ていた。
ソフィレーナは、たわごと、と言われた一連のケルッツアの動作を思い出す。
片膝を折って、両手を額に頂く行為は、とても、とてもたわごとで片付けられるようなことではない気がした。
ケルッツアが、ソフィレーナの及びもつかない何かを諦めたのだということがよくわかった。
「たわごとって……そんなこと」
「ねえ、ソフィレーナさん」
だから彼女は――――そんな切なげな表情で諦めた何かを知りたいと、少なくともたわごとで片付けられることではないと言い募ろうとした。また何か諦めたのだと、悲しみにも似た怒りも湧いていた。
その声に被せるようにして、ケルッツアがソフィレーナを呼ぶ。ソフィレーナが、何を、とケルッツアを見ると、彼は切なげな眸を諦めに浸した顔で、斜め下手を眇め睨んでいた。
大きな影は、動かない。
うん、と一つ頷き、彼はソフィレーナを見返す。
「これから先、なるべくは僕の助手でいてくれないかな……」
そんなことを言ってくる。
ソフィレーナは、ますます意味がわからない。なるべくとはなんだろうか。何故急にそんな話をしてくるのか。
「なるべくは、って」
悲しみと困惑に揺れながらおうむ返しに呟くソフィレーナなど構わず、ケルッツアはすでに揺るぎない眸でソフィレーナを見ている。
「君の将来は有望だ。これから先、どこかの機関に所属することもあるだろうし、勿論、誰かと結婚することもあるだろう。
でも、あともう少しだけは、僕の傍にいてほしいなって……」
「もう少しって……結婚、なんて……」
ソフィレーナは、次々未来のことを言われて、頭がくらくらした。
どこかの機関に所属する、それはソフィレーナとて思わないことはない。菌糸研究のできる機関への所属。
けれど、結婚などと、ソフィレーナは思ってもみなかった。
第一、もし結婚するなら相手はもう決まっているようなもの。
それを、何を。
春の宴の際、髪に差されたロームエッダの白い花の感覚が、ソフィレーナを絶望の淵へと誘う。
ケルッツアはその暗喩を知らない。
そうわかっていても、ロームエッダの花を髪に飾られた感覚が抜けてくれない。
それを、そんなことまでしておいて、ケルッツアは、ソフィレーナが誰かと結婚する、だなどと言った。
ケルッツアは、母親が流民である蒼き流砂の使徒だ。つまり半分だけでも蒼き流砂の使徒のはず。
その花嫁衣裳を拒絶したのは、ソフィレーナにはそれを着る資格がないからだろうか。
そのくせ遺跡の前で片膝を折って両手を額に押し頂いたのは何。たわごとと言ったあれは友愛か何かの、儀式。
儀式めいていたのもますますソフィレーナの混乱を呼び起こす。
なんでそんな……他人事みたいに…………!!!
私……今、失恋してるの、かしら…………
ケルッツアは哀しげに、宙に微笑んだ。
「僕は、君がどんな未来を選んでも、応援するから。……それだけ」
ソフィレーナは。
めるりっつとはどんな意味なのか。
ケルッツアはなにを諦めたのか。
心がぐちゃぐちゃだった。
もう少しだけは、傍にいてほしいって……
「それ、だけ?」
「え?」
ケルッツアが訊き返す。その眸の色は、灰色。
その目が、そっと瞑られた。
「――――そう、だよ」
声は、静かに置かれる。
ドクターは……私を、結婚相手としては、みない………………
呼吸が、うまくできなかった。
開かれたケルッツアの眸は、揺るぎない。
彼女は思う。自分はケルッツアの助手である以上のことは何もない。先程貝殻のペンダントを買ってくれたのも、単なる記念だ。
何かがあると……思ってた…………?
辺りの景色が一段色を失ったように見えて、ソフィレーナはゆるゆるとせり上がる気持ちに、目頭が熱を持つ前、緩く首を振ると前髪に目元を隠した。
「…………そうですか。
船、出ちゃいますかね? 名残惜しいけど、そろそろ、帰りましょうか……」
そっと帰還を促すと、ケルッツアは彼のお気に入りの銀の懐中時計を見、確かに、と頷いていた。懐中時計は所々黒ずんでいた。ケルッツアは、それを、撫でる。
と、急にソフィレーナに、ほら、見て! と辺りの景色を見るように促す。
ソフィレーナは、前髪の隙間から、ちらり、と空を見た。
砂漠で見る夕焼けは、三層に分かれていた。
焼け落ちるかと思うほど赤い夕陽に、栗色の帯を敷いて紫の夜の色が迫っている。
けれどもその光景などろくに見る余裕はない。
心底嬉しそうな声でケルッツアは言い募った。
「これも君に見せたかった! 砂漠の夕空は、君の目の色によく似ているんだよ!!!」
ソフィレーナは、薄れる視界の中で、確かに自分の目の色に似ているだろうかと思う。
けれどその認識は遠く遠くの方で、今は泣き出すのを必死に堪えるだけで精いっぱい。
「とっても、奇麗だ……」
身勝手な声がする。
ケルッツアは、夕空の色彩に見入っていた。
お願いだから……そういうこと言うの、やめてください……
「…………奇麗な、夕焼けですね……」
ソフィレーナは、ケルッツアが背を向けていることで彼から見えないことを良いことに、涙を乱暴に拭った。
唇を噛むことで、この旅が終わるまではもう泣かないと決める。折角の国外旅行に涙は似合わない。
港への帰り道も、行きと同じく大道芸やら奇麗な布やら、ランプの灯りが辺りを照らしていて幻想的だったが、もうそれらはソフィレーナに何の感慨も抱かせてくれなかった。
記念で写真を撮った華やかな噴水の前に来てもそれらは変わらない。
途中ケルッツアがソフィレーナの元気がないことを気にかけたが、ソフィレーナはせめて悟られたくないと、ちょっと疲れたんです、と答えて誤魔化した。
「疲れた? ごめんね、色々連れまわしてしまって……」
「いえ、楽しかったですよ。ありがとうございました」
船に乗る前、ケルッツアはどこかすっきりとした、それでいて哀しげな顔で、ソフィレーナに笑いかけた。
「君とここに来れて、本当に良かった」
ソフィレーナは、そのケルッツアの笑みが殊更眩しく、切なく思えて、前髪の隙間からケルッツアを見、応えた。
「……。それは、嬉しいです」
応え返す心境はソフィレーナ自身よくわからない。
こうして、ソフィレーナとケルッツアとの、ソフィレーナの人生初の国外旅行は幕を閉じた。
風が鳴く。もう国境の街の港から船の出たあと、もの悲しげな風が鳴き、くるりと渦を巻いた。
≪あーあ。
なんだありゃ≫
風は気ままに、異世界の扉の遺跡の前を行き過ぎる。
≪リュシカ、あの子の中で決めたことは、あの子にとって絶対のこと。
しかし、良い巡りで動いていたのに、決めていたことがあれではねえ?
砂漠の神の祝福も、あの子にはすでに遠いことであったとは。
それでも愛しい我が子なれば。
さてさてリュートが馴染んだか。
仕方がない。異国の姫子には、一つ、語りを聞いていただこう≫
国境の街に、悲しげに楽しげにおどけたように風が舞い、科学大国である、国の古い言葉で千の花を意味する国の方へと流れていった。
空には三日月の細いきらめきが浮かんでいる。




