七 ポチという犬
【作業完了】
暗堂新弥という男がこの世から消え去ると、巨大なしゃれこうべも跡形なく姿を消した。
山に静寂が戻る。
やがて、恐る恐るという足取りで、一人の少女がポチへ歩み寄ってきた。
「……あの……」
鈴乃森奈美だった。
先ほどまでの鬼気迫る姿はなく、憎悪に染まっていた顔にも、ようやく人間らしい感情が戻り始めている。人間の姿さえ取り戻していた。
「……一体、何が起きたんですか?」
鈴乃森奈美には、あの巨大なしゃれこうべの正体も、その先に何があるのかも明確には分かっていないと思う。
それでも、人間よりはるかに冥府に近い存在である彼女には、暗堂がどこへ連れて行かれたのか、何となく察することができたのだろう。
しゃれこうべに放り込まれる瞬間、暗堂が上げた絶望の叫び。
そして、その直後にあの男の気配が、この世から跡形もなく消え失せたこと。
ただ命を落とした者が消えるのとは、明らかに違う。
暗堂の身に『死』以上の何かが起きたのだと、霊体である鈴乃森奈美は、本能のようなもので悟っていた。
だからこそ、長年燃え続けてきた怨念は、ようやく静まり始めていたのだ。
鈴乃森奈美の問いに、ポチは何も答えない。
ポチは、既に巨大な魔犬の姿ではなく、赤い首輪をつけた、どこにでもいそうな貧相な黒ぶち模様の白い雑種犬へ戻っている。
当然、ポチに説明する気など毛頭ない。帰りたそうに、そわそわしている。
いつものことだから仕方がないので、私が代わりに話すことにした。
【暗堂新弥は、生きたまま地獄へ放り込まれた。以上だ】
「えっ……」
鈴乃森奈美は思わず声を漏らした。
「い、犬が……喋った?」
目の前にいるのは、赤い首輪をつけた貧相な雑種犬だ。
その犬が、人間の言葉を喋った。そう思ったようだった。
だが、すぐに違和感に気づいた。
ポチの口は、微動だにしていない。
代わりに、左前脚にはめられた黒い腕輪が淡く明滅し、それに合わせて声が響いていた。
「……輪っかの方?」
鈴乃森奈美は呆然と呟いた。
腕輪が喋っている。生きた人間であれば、到底信じられる話ではない。
だが、鈴乃森奈美自身、すでに死者である。この世の理から外れかけた幽霊なのだ。
ましてや先ほど、巨大なしゃれこうべが現れ、生きた人間をこの世ならぬ場所へ呑み込む光景まで目の当たりにしたばかりである。
腕輪が喋る程度のことなら、もはや受け入れられない話ではなかった。
鈴乃森奈美はしばらく腕輪を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
「……そういうことなんですね……」
驚きは残っていた。それでも彼女は、目の前の現実を受け入れた。
それでも、鈴乃森奈美は青ざめていた。幽霊でありながら、実に器用な存在だと思った。
「……あの……地獄……と言いましたか?」
【ああ。本物の地獄だ】
私は淡々と続ける。
【ポチが奴の体内へ押し込んだ呪念は、一つの都市を滅ぼしかねないほどの規模だった。だからこそ、あの男ごと地獄へ放り込み、この一帯から切り離したのだ。地獄そのものが、膨大な瘴気に満ちた世界だ。あの程度の呪念が加わったところで、大海に一匙の水を足すようなもの。地獄全体には何の影響もない。もっとも、あれが暗堂の体内で一気に爆ぜれば、近くにいた獄卒くらいは怪我をするかもしれないがな】
私の言葉に、鈴乃森奈美は目を丸くした。
「そ、そんなことして……大丈夫なんですか?」
【何がだ?】
「その何というか……地獄のような場所を勝手に利用して……怒られたりしないんですか?」
【当然、怒る。またぞろサタンやら、冥王やら、地獄の十王やらが文句を言ってくるだろう。だが、そんなことはどうでもいいことだ。魔界と地獄の連中が手を組んだところで、結局、ポチには勝てないからな】
それだけ言って、私は説明を終えた。
当のポチはというと、最初から興味など無いと言わんばかりに、大きく口を開け、退屈そうな欠伸を漏らしている。
鈴乃森奈美は、そんなポチを驚愕の眼差しで見つめていた。
生きた人間を地獄へ放り込める。それだけでも常識を超えた存在だ。
しかも、その行為に激怒したあの世の猛者たちが相手であっても、力でねじ伏せられるという。
自分はいま、途方もない存在の傍らに立っている。
鈴乃森奈美は、ようやくその事実を実感し始めているようだった。
私にとっては、毎度のことなので、感慨はない。
そんなことより、私には別の仕事が残っていた。
【お前に話がある。聞け】
「は、はい」
私の言葉に、鈴乃森奈美は体をびくりと震わせ、ポチへ視線を向けた。
【我々は、お前に新たな使命を与える】
鈴乃森奈美は目を瞬かせた。
【この廃校を拠点とし、校庭に転がっている霊たちを導け】
「えっ……?」
【子供たちも、女たちも、魂が深く傷ついたままだ。お前が彼女たちを癒やし、この土地を護りたいと思える霊へ育てるのだ】
「私が……ですか?」
【そうだ。まずは女たちと信頼関係を築け。そして協力を得ながら、子供たちを導け。そのためにお前を残した】
私は校舎の裏に聳える鬼が岳へ目を向けた。
【鬼が岳を見ろ】
私の言葉に従い、鈴乃森奈美は廃校の山を見上げた。
【あの山には、本来いるべき山神が存在しない。その理由は分からん。長年積み重なった呪いと穢れによるものか、時代の流れの中で信仰が絶えたからか……あるいは、我々がこの土地へ移り住んだことが何らかの影響を及ぼしたのか……まぁ、推測はいくらでもできるが、真相は不明だ。だが、重要なのは原因ではない。鬼が岳には、山を治める神が存在しないという事実だ。山神とは、山に宿り、その霊的な均衡を保ちながら、人や獣の営みを見守る存在だ。林業や狩猟の安全を守り、水を巡らせ、麓の田畑に実りをもたらす。人間は古くから、その加護を受けて山と共に生きてきた。その山神を失った山は、やがて現実的にも霊的にも均衡を失うことになる】
私は校庭に横たわる無数の霊へ視線を落とした。
【今回の事件も、その表れなのかもしれん】
もちろん断言はできない。証拠もないし、それを探すほど我々は日までもなければ酔狂でもない。
【鬼が岳を見ろ】
私の言葉に従い、鈴乃森奈美は廃校の裏に聳える鬼が岳を、恐る恐る見上げた。
【あの山には、本来いるべき山神が存在しない。その理由は分からん。長年積み重なった呪いと穢れによるものか、時代の流れの中で信仰が絶えたからか。あるいは、我々がこの土地へ移り住んだことが何らかの影響を及ぼしたのか。推測はいくらでもできるが、真相は不明だ。だが、重要なのは原因ではない。鬼が岳には、山を治める神が存在しないという事実だ。山神とは、山に宿り、その霊的な均衡を保ちながら、人や獣の営みを見守る存在である。林業や狩猟の安全を守り、水を巡らせ、麓の田畑に実りをもたらす。人間は古くから、その加護を受けて山と共に生きてきた。その山神を失った山は、やがて均衡を失う】
私は校庭に横たわる無数の霊へ視線を落とした。
【今回の事件も、その表れなのかもしれん】
もちろん断言はできない。
証拠もないし、それを探すほど我々は酔狂ではない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
この山に、新たな護り手が必要だということだ。
もっとも、山神とは、力が強ければ務まる役目ではない。
要件がそれだけなら、ポチがいるだけで、地球上の多くの山神はポチになってしまうだろう。
山神となるべき存在は、山を愛し、そこに生きる者たちを慈しみ、長い年月をかけて守り続ける意思を持つ者でなければ、その資格はないのだ。
だから、私は考えた。
なぜポチは、鈴乃森奈美を消し去らず、この土地へ残したのか。
なぜ今、ポチは鈴乃森奈美に霊たちを導く役目を与えようとしているのか。
私は長い年月を共に過ごし、ポチという存在を誰よりも見続けてきた。
あれは理屈を語らない。
しかし、その行動に意味がなかったことは一度もない。
鈴乃森奈美という霊を消し去らず、この地へ残したこと。
そして今、鈴乃森奈美に役目を与えようとしていること。
その二つの意思を把握できたならば、もう私には十分だった。
私は確信している。
ポチは、この山へ再び護り手を……山神を置くつもりなのだ。
そして、そうすることで、鈴乃森奈美の魂を救い、とある中学校教員の心を救い、もって一人の中学生男子の悩みを解決する。
私は、喜んで、その意思を尊重しようと思う。
【今回のような災厄を二度と起こさせない。そのために、この山には新たな山神が必要だ】
鈴乃森奈美は戸惑いながら、小さく首を横へ振った。
「でも……私なんかに……」
【安心しろ。方法は難しくない】
私は静かに告げた。
【教導することだ。傷ついた魂を癒やし、この土地を愛し、護りたいと思える者へ導く。それを積み重ねれば、霊たちはお前を慕い、この土地はお前たちを受け入れる】
鈴乃森奈美は首を傾げた。
「それだけで……?」
【神とは、生まれながらの存在ではない】
私は間を置いて続けた。
【人を守り、土地を守り、その在り方を貫き続けた者を、人はやがて神と呼ぶ。神とは、人と土地が積み重ねた歳月の果てに認められる存在だ】
鈴乃森奈美の表情が少しだけ和らいだ。
「……人を教え導く……まるで……先生……みたいですね」
その声は、どこか嬉しそうだった。その気持ちは理解できる。
生前、彼女には叶えたい夢があった。
教師になることだ。
それはもう、人間として果たせない夢だが、形は違えど、今なら叶えられる。そのことに気づいたのだろう。
鈴乃森奈美の表情には、幽霊とは思えないほど穏やかな希望の光が宿っていた。
しかし、その光は長く続かなかった。不安が、その小さな光を覆い隠していった。
「でも……私、誰かに教えたことなんてありません……」
【当然だ】
私は事実だけを答えた。
資格を持つ教師ですら、最初から教壇に立てる者はいない。経験とは積み重ねるものだ。
能力とは後から身につくものだ。論理的には、それだけの話である。
だが、鈴乃森奈美の表情は晴れなかった。
「……失敗したら……」
彼女のその一言で理解した。
ああ、そうか。これは能力の問題ではないのだな。
自己評価の問題なのだ。
私は奈美について収集した情報を再確認する。
家庭環境、学校生活、交友関係、教師を志した理由。
そして、自ら命を絶つまでに至った経緯。
鈴乃森奈美という人間は、誰かを導く能力を疑っているのではない。
自分自身という存在に価値を見いだせなくなっているのだ。
だからこそ、教師になる夢を諦め、自ら死を選んだ。
そして死してなお、その敗北感から抜け出せずにいる。
さて、困ったな。
私は数千兆通りの対話パターンを試算する。
励ます。
褒める。
成功を約束する。
失敗しても構わないと伝える。
どれも効果は限定的だった。
そもそも私は、そのような会話を必要としたことがない。
人間の心を慰め、勇気づける技術など学習対象ですらなかった。
私はポチの相棒であって、人間共の心理カウンセラーなどではない。
ならば、対処法を講じねばならない。
私の分析が正しければ、ポチの目的は、鈴乃森奈美を中心に据え、二百七十七の霊を導き、この鬼が岳に新たな山神を誕生させることだ。
しかし、その中核となる鈴乃森奈美が自己否定から脱せない以上、この計画の成功率は著しく低下する。
私は思考を巡らせ、一つの結論に至った。
そうだ。人格を書き換えればよい。
恐怖も、劣等感も、自信の欠如も、すべて不要な情報として除去し、使命を最優先するよう精神構造を再構築するのだ。
対象が霊体である以上、多少の手間は増えるだろうが、技術的には十分実行可能だ。
経験もある。三十秒もあれば完了するだろう。
結論が出た以上、速やかに実施へ移る。
私はポチへ提案しようとした。
その瞬間だった。
「鈴乃森奈美」
熔けた鋼のような熱い声音が響いた。
予測外の事象に、私の思考は一瞬だけ空白となった。
ポチが、久しぶりに……本当に久しぶりに、人語を発したのだ。
「これはお前の仕事だ。やれ」
短い。
ただ、それだけだった。
だが、その一言は、燃えた鉄塊を胸へ流し込まれたかのような猛々しい熱を帯びていた。
鈴乃森奈美の体が、小刻みに震えている。
恐怖ではなければ、歓喜でもない。それらを遥かに超えた強烈な感情だった。
人間という肉体を捨てた今だからこそ、鈴乃森奈美には分かるのだろう。
目の前にいるのは、一匹の雑種犬ではない。
底知れぬ混沌をその身に宿しながら、それでも静かにこの世を歩く、常識では測ることのできない超越的な存在。
神さえも餌食とする超常の存在が、自分の名を呼んでくれた。
- 鈴乃森奈美 -
彼女にとっては、それだけで十分だったのだ。
自分という存在を認識し、役目を託してくれた。その事実だけで、彼女の胸の奥に積み重なっていた絶望も、自責も、劣等感も、一瞬にして吹き飛ばしてしまったのだ。
鈴乃森奈美の瞳から、大粒の涙が溢れ、ゆっくりと落ちていく。
「……はい……」
震える声で答える。
「必ず、やり遂げます」
鈴乃森奈美は深く頭を下げた。
「私は、この土地を守ります。傷ついた皆を導きます。そして、必ず、あなた様の御意思にお応えします」
その声に、迷いはなかった。
新たな忠臣に対して、ポチは満足そうに笑うことも、褒めることもなかった。
ただ、静かに首を巡らせた。
歩き出したポチは、途中で一度だけ「フンッ」と小さく鼻を鳴らした。
私は即座にその意図を理解する。
【承知した。伝えよう】
私は、鈴乃森奈美へ声を向けた。
【この町にある中学校で教員を務める男が一人いる。野球部の顧問をしているそうだ。最近、少々元気を失っているらしい】
鈴乃森奈美は、最初は不思議そうに首を傾げていた。
だが、その表情はすぐに驚愕のものとなり、そこで固まった。
「この町の中学校……野球部……顧問……」
震える声で呟く。瞳が大きく揺れていた。
「先生……もしかして……まだ……」
彼女の言葉は最後まで続かなかった。
自分の死を悼み、悲しみ、今なお元気をなくしている人がいる。
鈴乃森奈美の瞳から、新たな涙が落ちていく。
【会う機会があれば伝えてやれ。幽霊らしく枕元へ立ち、お前は新たな使命を授かり、その使命のため元気にやっている、と】
「……はい……幽霊らしく……そうさせていただきます」
鈴乃森奈美は何度も頭を下げた。
その笑顔は、つい先ほどまで怨霊だったとは思えないほど、明るく穏やかなものだった。
「ありがとうございます」
その感謝が誰へ向けられたものなのか、言葉にする必要はなかった。
ポチは何事もなかったかのように歩き続けた。
やがて、その小さな姿は夜の闇へ静かに溶け込んだ。
鈴乃森奈美は一度も顔を上げることなく、深く頭を垂れ続けていた。




