六 地獄
俺は、その犬から目を離せなかった。
目の前で、とんでもないものを見せつけられた。
いや、正確には、何も見えなかった。
速すぎたのだ。
犬が動いた瞬間から全てが終わるまで、俺の目では何一つ捉えられなかった。
だが、それでも分かる。
今回の事件で嫌というほど思い知らされたが、俺には人より鋭い霊感のようなものがある。
その感覚が、はっきりと告げていた。
黒い靄は、あの犬により一方的に処分された、と。
さっきまで校舎全体を覆い尽くし、人間など一瞬で食い殺すと思っていた化け物が、あの犬の前では赤子同然だった。
あれは勝負ですらない。
ただ一方的に蹂躙され、処分されたのだ。それは事務処理に近いものがあると、俺は感じていた。
それにしても、信じられねぇ。
あれは、さっきまで貧相な雑種犬だったはずだ。
それが、気づけば、今は全身を黒い金属装甲で覆った巨大な狼のような姿になっていやがる。
いつ変わった? どうやって変わった?
そもそも、本当に同じ犬なのか。
もう、何が何だか分からねぇ。
それでも一つだけ確かなことがあった。
俺の身体は、理屈を無視して震えていた。
逃げろ。
あれには近づくな。
あの犬は、さっきからこっちをじっと見ていやがるが、俺のことを心配しているなんてことはねぇな。人間がモルモットに向ける目だって、もう少し温かみがあるはずだ。
叫んでいた。
本能が、全力で叫んでいた。
逃げろ! 今すぐに全力で! 這ってでも逃げろ!
俺は本能に従い、その場から這って逃げ出そうとした。
逃げなければならない。理由なんて分かりゃしねぇ。
あの犬の前にいてはいけない。
そんな警鐘が、頭ではなく身体の奥底から鳴り響いていた。
正に、そのときだった。
犬の背中を覆っていた黒い装甲が、ゆっくりと左右へ開くと、装甲の内部から、何かがせり上がってきた。
透明な筒と金属製の押し子。その先端には、人間の腕ほどもある長い針。
せり上がってきたものは、管の付いた、巨大な注射器だった。
「……は?」
間抜けな声が口から洩れた。
何だ、あれは?
何で犬の背中から、あんなものが出てくるんだ?
意味が分からない。
あの犬は、あんなもので俺に何をするつもりなんだ!?
治療なんかじゃないはずだ。
巨大な注射器を構えるあの犬の目は、患者を治そうとする医者のものじゃない。
そこには、何の感情も浮かんでいなかった。
蛙を解剖する研究者……いや、違う。もっと酷い。
いらなくなったゴミを捨てるときのような、何の感慨もない目だった。
もう何が何だか分からねぇ。
逃げろ! 逃げろ!!
そう思っても、身体は動かなかった。
膝が壊れているからじゃねぇ。
俺は完全に恐怖で竦み上がっていた。
そのとき、犬の尾が蛇のように伸びてきた。
気づいたときには、俺の身体へ幾重にも巻き付き、鋼鉄の鎖のような力で締め上げていた。
「や、やめろ!」
俺は死に物狂いでもがき、拘束を振りほどこうとした。
だが、びくともしない。
巨大な注射器が静かに向きを変え、その長い針先を俺の腹へ向けてきた。
針先は、真っすぐ、腹の中心、俺のへそを狙っている。
そのことに気づいた瞬間、気が狂いそうなほどの恐怖が全身を駆け巡った。
「待て……」
嫌な汗が噴き出す。
「おい、待てって!」
針は止まらない。
「やめろ! やめてくれ!!」
くそったれ! 来るな!
うわっ、注射器の針が、腹に!
ぶすり。
「ぎゃぁぁぁぁ!」
腹を貫かれた激痛に、俺は絶叫した。
痛ぇ! クソ犬! くたばれ! 死ね! 死んじまえ!
意識が飛んだ。
一秒後、激痛で無理やり引き戻された。
霞む視界の向こうで、透明だった注射器の筒が、一瞬で黒く染まったのを見た。
ドロリとした黒い何かが注射器の針の中を勢いよく流れ、その全てが俺の腹へ送り込まれていく。
俺の体の中へ……ああ、俺の体の中へ、入ってくる、入ってくる!
「やめろぉぉぉ!」
何だよ、それは! 俺に何を入れてんだ!
誰か助けてくれ! この犬はまともじゃねぇ! 完全に狂っていやがる!
「ぐあああああっ!」
腹の奥から、とてつもない圧迫感が込み上げてきた。
腹が風船みたいにぶくぶくと膨らんでいく。
「う、嘘だろ……」
腹だけじゃない。腕が、脚が、胸が、首が、額までが、膨らんでいく。
全身が、醜く膨れ上がっていく。
筋肉が肥大しているわけじゃない。脂肪が増えている訳でもない。
俺の体の中に流し込まれた黒い何かが、俺の肉も骨も血も押し広げ、人間の形そのものを変えていっているのだ。
「や、やめろ……もう入れるな! やめろ! やめてくれ!」
俺の叫びなど無視するように、黒い何かは注射器の針を通って俺の腹へ流れ込み続けた。
丸太のように膨れ上がった両腕を見た瞬間、全身から血の気が引いた。
これは浮腫じゃない。いいや病気ですらない。
俺は、人間じゃない何かへ変えられている。
そんな確信だけが、頭の中を埋め尽くしていく。
止まらない。膨らんでいく。まだ膨らんでいく。
やがて、犬の背中から現れた巨大な注射器は、中身を全て吐き出してから、その長い針をゆっくりと俺の腹から引き抜いた。
「……はぁ……はぁ……」
息ができない。必死に喘いでも、肺が酸素を受け付けてくれない。
体内で、何かが蠢いている。
血管を這い回り、肉を押し広げ、骨の隙間にまで入り込んでくる。
瞬間、俺は理解してしまった。
いる! いやがる!!
俺の体の中に、何百人分の人間の怨念がある。
泣き叫ぶ女。
憎悪に狂う女。
怨みを吐き続ける子供。
苦しみと絶望。
狂気と殺意。
何百ものどす黒い邪悪な気配が、一斉に俺の身体の中で蠢き、声を上げ、それぞれが好き勝手に暴れ回っていた。
こんなもの、人間が耐えられるはずがない。
恐らく、普通の人間なら、その存在に気づくことすらできないだろう。
だが、俺には分かってしまう。
俺の霊感のせいだ。
霊感が人より鋭いばかりに、このおぞましい気配を、一つ残らず感じ取れてしまう。
こんな感覚、要らねぇよ!
誰がこんな忌まわしい力を俺に押しつけやがった!?
そうか、俺の親か!?
ふざけるな、あのクソ野郎ども!
金の無心しかしてこねぇクズどもめ!
挙句、こんな欠陥みたいな能力を俺に残しやがった!
まともな体に生んでさえくれていれば、こんな地獄みたいな苦しみを味わうこともなかったんだ!
畜生! 畜生! 畜生!
クソッタレ、そもそも、何で俺がこんな目に遭うんだ!?
俺は何も悪いことなんかしてねぇぞ!
真面目に働き、自分の力で成功を掴み、社会に貢献してきた人間様だ。
こんなところで失われていい命じゃない。
そうだ!
俺が死ぬことは、日本にとっての損失だ!
俺ほど稼ぎ、俺ほど世の中に価値を生み出せる人間が、どれだけいると思っているんだ!?
俺は、年収三千万を超える暗堂新弥だぞ!
俺のような人間こそ、社会に必要とされる人間だ!
こんな化け物に殺されていい人間じゃねぇ!
死ぬべきなのは、俺じゃない。
死ぬべきなのは、俺じゃない。
死ぬべきなのは、俺じゃない。
死ぬべきなのは、俺じゃない。
俺は、必死になって、自分の魂を説き伏せるように心の中でそのように唱え続けたが、そうしている間も、俺の体は何百もの怨嗟に内側から喰い荒らされ続けていった。
「ぐうっ……おぼぇっ!」
唐突にこみ上げられた吐き気に耐えきれず、俺は仰向けで噴水のように吐いた。
吐しゃ物が顔全体に掛かり、地面に垂れ落ちていく。
胃の中が空になるまで吐き続けても、苦しさは少しも消えなかった。
吐しゃ物には、コールタールのような真っ黒な粘液が交じっていた。
「な、何だよ……何だよ……これ……」
震える手で顔を拭う。
指先が黒く汚れた。
鼻からも、耳からも、目尻からも、黒い液体が、とめどなく流れ落ちていった。
それは鼻の粘膜を腐られるような酷い悪臭を漂わせ、俺に更に強烈な吐き気を催させた。
まるで身体の中身そのものが、腐り始めているようだった。
恐る恐る自分の身体を確認した。
腹は樽のように膨れ、胸も肩も腕も脚も、人間とは思えないほど丸く膨張している。
学生時代から鍛え続けてきた筋肉は完全に消え失せ、そこにあるのは、醜く膨れ上がった異形の肉塊だけだった。
「う、嘘だ……」
こんなの、俺じゃない。
こんなの、人間ですらない。
こんなの、まるで化け物じゃねぇか。
そう理解した瞬間、全身の震えが止まらなくなった。
「……何しやがったんだよ……俺に……何を入れやがったんだよ……ちくしょう……」
涙と鼻水を垂れ流しながら、俺は犬を見上げた。
頼む。
頼むから、教えてくれ!
俺に何をした!? 俺をどうするつもりなんだ!?
だが、犬は何も答えない。
身じろぎ一つしせず、ただ、俺を見下ろしているだけだった。
犬の目を見た瞬間、背筋が凍りついた。
喜んではいない。
怒ってもいない。
哀れんでくれない。
楽しんでいるわけでもない。
この犬から、俺という人間に対する感情が、何一つ感じられない。
まるで俺など、最初から生き物ですらないかのように。
ただ処分すべき何かを見つめる、それだけの目だった。
無価値を押し付けられ、俺の心に黒い絶望が広がった。
犬の尾が伸びて、蛇のように俺の身体に巻き付き、締め上げてきた。
逃げられない。
力が入らない。
「離せ……」
必死に絞り出した声は震えていた。
手足を動かしたが、犬の尾はびくともしない。
そのまま俺の身体を引きずり始めた。
「おい、待て!」
地面に両手の爪を立てて、俺は抵抗した。たちまち爪が剥げたが、そんなこと気にも留めなかった。
必死に踏ん張った。
けれど、止まらない。
まるで空き缶でも引きずるように、俺の身体は地面の上を滑っていく。
俺を縛り上げている犬の尾が、ゆっくりと揺れ、そこから一本の尾毛が抜け落ちた。
宙に浮かんだ尾毛は、すぐに赤黒く染まり、禍々しい瘴気をまといながら巨大化して、一種の内に一振りの細身の刀へと姿を変えた。
柄の拵えはないが、刃部分に幾つもの目を持つ異形の刀剣だった。
俺はそれを見ているだけで、魂が削られていくような嫌悪感を覚えた。
犬は、刀剣の柄部分を咥えると、首を動かして、何もない空間を静かに一閃した。
すると、恐ろしいことに、空間そのものが裂けた。
赤黒い亀裂が空中を走った。
耳障りな軋みを響かせながら、裂け目はゆっくりと左右へ押し広げられ、まるで空間そのものが口を開くように裂けていくようだった。
とても現実の光景だと思えなかった。
その裂け目の縁から白く巨大な骨がせり上がり、上下の顎を形作り始めた。
やがて無数の骨が組み上がり、空間を囲むように、一つの巨大なしゃれこうべが姿を現す。
それは、半端な巨大さではない。
校舎の玄関など丸ごと飲み込めそうなほど巨大な頭蓋骨だった。
眼窩には赤黒い炎が静かに揺らめき、大きく開いた口の奥には、この世のものとは思えない光景が広がっていた。
赤く濁った空。
瘴気を噴き上げる黒い大地。
血肉と膿が混じり合ったような濁流。
天を貫く、刃のように鋭い岩山。
どこまでも途切れることのない亡者の絶叫。
全身の皮を剝がれ、なお這い続ける者。
炎に包まれ、肉が炭となって崩れ落ちても、何度でも焼き直される者。
鋭い岩に全身を貫かれ、臓物を垂れ流しながら助けを求める者。
煮えたぎる血の池へ投げ込まれ、骨が露わになるまで溶かされても、なお沈められ続ける者。
頭に湾曲した角を生やした異形の者たちが、金棒や槍を振るい、亡者の四肢を砕き、肉を裂き、容赦なく責め苛んでいた。
それでも誰一人として、死ぬことだけは許されていなかった。
砕かれた肉体は、何度でも再生させられていた。
そして再び、責め苦を受けていた。
何度も。何度も。
永遠に終わることのない苦痛の中で、亡者たちは絶叫を響かせ続けていた。
「……嘘だ」
思わず声が漏れた。こんな場所があるはずがない。
人間は死んだらそれまでだ。その先は無いはずだ。
理解したくない。目を逸らしたい。
だが、俺の霊感は残酷なほど正直だった。
あれは幻じゃないし、作り物でもない。
現実に存在する世界なのだ。
そして、直感した。
この犬は、俺をあそこへ放り込もうとしている!!
「待て!」
喉が潰れるほどの大声で、俺は叫んだ。
「待ってくれ!」
犬は止まらない。俺の声が届いていない。
「悪かった!」
何が悪かったのか、自分でも分からない。
ただ、このままでは終わる。それだけは本能が理解していた。
「もうしねぇよ! だから、頼む! 助けてくれ!」
涙も鼻水も止まらない。そんなものを気にする余裕など、俺にはとっくになかった。
「何でもする! 何でもするぜ!!」
ポチは歩みを緩めない。
「金ならある!」
必死に叫ぶ。
「俺は年収三千万だ! 全部くれてやる!!」
返事はない。
犬は無言のまま、俺をしゃれこうべに引きずっていく。
門の向こうから吹きつける風は、生ぬるいはずなのに、魂そのものを凍らせるような冷たさを帯びていた。
俺は初めて知った。
この世には、死ぬことより恐ろしいことかある。
生きたまま、あの場所へ行くことだ。
あれは、地獄だ。
間違いなく地獄なんだ。
例えなんかじゃない。
文字どおりの地獄が、存在していたんだ。
「嫌だ!」
俺は、肺の空気をすべて吐き出す勢いで叫んだ。
「嫌だぁっ!」
必死にもがき、尾に巻きつかれた身体を暴れさせる。
逃げたい。逃げなければならない。あそこへだけは行ってはいけない。
「離せ! 俺を行かせるな!」
泣き叫びながら、俺は必死に足をばたつかせた。
だが、犬の尾は鉄よりも強く、微動だにしない。
俺の抵抗など、赤子が暴れている程度にしか感じていないのだろう。
犬は、俺の叫びにも、涙にも、一切の反応を示さなかった。
煩わしそうにすることすらない。
ただ、予定された作業を淡々と進めるように、尾へ静かに力を込め、俺の身体を宙へと持ち上げた。
しゃれこうべの大きく開いた口へ向かって、ゆっくりと、だが、決して止まることなく。
俺は狂ったように手足を振り回した。
犬の尾にしがみつき、爪を立て、噛みついた。
不格好な四肢を必死に動かして、殴って、蹴ったりもした。
けれど、何をしても、犬の尾はびくともしなかった。
まるで鋼鉄の塊だった。
気づけば、俺は泣き崩れていた。
涙も鼻水も垂れ流し、犬の尾へ必死にしがみつく。
「行きたくない! 俺はまだ死にたくない! お願いだからやめてくれ!」
みっともないことなど、どうでもよかった。
社会的地位も、年収も、誇りも、すべて投げ捨てる。
地獄へ落ちるくらいなら、人間としての尊厳など失っても構わない。
それほどまでに、あの場所は恐ろしかった。
年収だの、社会的地位だの、そんなものは何一つ意味を持たない。
生きたい。ただ、それだけだった。
犬は何も答えない。
俺という人間に興味すらないように、静かに尾を振る。
その動きは、あまりにも自然で、あまりにも軽やかだった。
溜まったゴミをゴミ箱へ放るような、何気ない仕草だった。
「待ってくれ……!」
声は震え、涙で視界が滲む。
「頼む……せめて殺してくれ! 生きたままだけは嫌なんだ! 地獄へ行くくらいなら、今ここで殺してくれぇっ!」
俺の悲痛な覚悟冴え、犬は一瞥すら寄越さない。
ただ尾をしならせた。
「ああ……やめてくれ……」
尾がしなり、振られた。
その一振りだけで、俺の身体は宙へと放り出された。
「いやだぁぁぁぁ!!」
手を伸ばす。
空を掴む。
何も掴めない。
ただ、赤黒く裂けた地獄の口だけが、俺を待っていた。
「助けて! 誰か、助けてくれぇぇぇ!」
返事はない。誰も来ない。
犬は俺を見送ることすらしなかった。
俺は、生きたまま地獄へ落ちていく。
しゃれこうべの口に吞み込まれた瞬間、肌を焼くような熱気が全身を包み、鼻腔を腐臭が満たした。
耳をつんざく亡者たちの絶叫が、一瞬で俺の悲鳴を飲み込む。
「嫌だぁぁぁぁ!!」
絶叫を上げて落ちていく一瞬、ナミと目が合った気がした。
あいつは……笑っていた。




