五 呪念 対 ポチ
まったく、やれやれだ。
ここまでポチを連れてくるのに、随分と苦労した。
【鬼が岳で大規模な霊的異常が発生している。このまま放置すれば、被害は岡山県内全域に及ぶ可能性がある。】
私は何度もそう説明したのだが、ポチはなかなか動こうとしなかった。
しかし、それも当然ではある。
ポチには関係がないからだ。
岡山県民が危機に瀕しているからといって、ポチが彼らを救わなければならない理由にはならない。
そもそも、この事態を招いたのは、その岡山県民の先祖たちだ。ポチが夕食後のごろ寝を放棄し、わざわざ汗をかく筋合いはないのだ。
少なくとも、ポチはそう考えているだろう。私も、その考えを否定するつもりはない。
ただ、このまま放置すると、少々面倒なことになる。
鬼が岳を中心として呪念が拡散し、岡山県全域が壊滅的な被害を受ける。
そうなれば、当然ながらポチの家族にも被害が及ぶ。
明日には一家の祖母が、この鬼が岳へ散策に来る予定であることも看過できない。
何事も手口が荒く、意地も口も悪い老婆だが、不思議と家族には慕われている。長男も長女も祖母によく懐いており、もし祖母が事件に巻き込まれ、万が一のことがあれば、あの子供たちの心には大きな傷が残るだろう。
さすがのポチも、それを知ってなお放置することはできなかったらしい。
ポチは、ときどき、こうしてあの一家の誰かのために動くことがある。
それは極めて例外的なことだ。真の怪奇現象だと私は思っている。
ポチは、この世でできないことの方が少ない。万能な犬だ。
それにもかかわらず、何かを成そうという欲求が決定的に欠けている。
万物に対して無関心であり、何より面倒事を嫌う。動かずに済むなら、それが最善だと本気で考えている生粋の怠け犬である。
殊に、人間への関心は薄い。
誰が生きようと、誰が死のうと、ポチにとってはどうでもいいことだ。
仮に明日、人類が滅亡すると告げられても、一つ欠伸をし、いつものように「フンッ」と鼻を鳴らして終わりだろう。
ポチにとって、人間とはその程度の存在でしかない。
むしろ、いつも自分の餌を横取りしようとする近所の野良猫たちを束ねるボス猫の方が、よほど気になる相手らしい。
そんな怠け犬のポチが、あの一家のことになると、ときおり重い腰を上げるのだ。
明確な理由は、分からない。
本人に尋ねても、「飯を食わせる人間がいなくなると困る」とでも答えるのだろう。
だが、それだけでは説明のつかない場面を、私はこれまで何度も見てきた。
ポチとの付き合いは長いが、この一家だけは例外とする理由だけは、いまだに理解できないでいる。
しかし、それで良いと、私は思っている。
私はポチの心の内を暴くために存在しているわけではない。
ポチが動くと決めたなら、私はそれを全力で補佐するだけだ。
ただ、私個人としては、ポチがあの一家のために動くことを、少しだけ嬉しく思う。
そして、ほんの少しだけ誇らしくも思ったりしている。
もっとも、感傷に浸っていても仕方がない。
そうして、我々は鬼が岳へやって来たのだ。
鬼が岳へ到着して早々、私は超常位相観測システムを起動し、周辺一帯の走査を開始した。
この機能は、かつてポチが地球のみならず、数多の異星で怪奇現象に関与した末、私に実装させた観測機構である。
霊体、呪念、異界干渉、高次生命反応、神格存在など、この星の人類が超常現象と一括りにしている事象の大半は、このシステムで観測・解析することができる。
観測結果をすぐに出た。
いや、これは参ったな。
なるほど、なるほど。想像していたより、かなり酷い。
山全体が汚らしい呪念に覆われている。
呪念は地下から今も留めなく噴出しており、廃校を経由した上で特定の霊体を媒介し、急速に現実世界へ拡散して霊的な汚染領域を広げている。
ここで重要なのは、私たちの目の前にいるグズグズの女の霊体だ。
早速、私は解析を開始したが、一秒も必要なかった。
【ポチ、確認した】
私の言葉を聞き、ポチが女の霊体へ視線を向けた。
私は並行して、全世界に散布した観測用ナノマシン群と情報網を照合し、対象の身元を特定した。
それは、インターネット上の公開情報はもちろん、電子機器の記録、報道履歴、警察情報、現地に残留する情報痕跡まで相関解析した結果である。
【女の霊体の素性を特定した。生前の名称は、鈴乃森奈美。岡山市内で発生した飛び込み自殺の当事者であり、一家の長男・悟が所属する野球部顧問の教師が、生前に面倒を見ていた女子生徒だ】
私は事実だけを淡々と報告する。その情報に基づいて、どのように判断するのは、ポチの役目だ。
【鈴乃森奈美自身も怨霊である。しかし、現在発生している霊的異常の大部分は、彼女自身の力ではない。鬼が岳の地下に長い年月をかけて蓄積された膨大な呪念が、鈴乃森奈美という怨霊を媒体として現実世界へ流出している。言うなれば、彼女は蓋の外れた瓶の口だな。それが無くなれば、瓶から中身は漏れない】
私はこうして悠長に説明しているが、実際には、そのように会話をしていられる状況ではなかった。
私は即座に観測用ナノマシン群をポチの周囲へ散布し、現場全体の俯瞰観測を開始した。
女の霊体から噴き出した黒い靄が、一斉にポチへ殺到している。
いや、狙いは、どうやらポチだけではないな。
黒い靄は、ポチだけでなく、その周囲の空間そのものを包み込み始めていた。
大気が震えた次の瞬間、大地が抉れた。
まるで巨大なアイスクリームディッシャーで掬い取られたかのように、ポチを中心とした地面が、半球状に削り取られた。土地の断面図は大変美しかった。
大量の土砂、岩石、そしてポチ。
それら全てを呑み込んだ黒い球体は、ふわりと空中へ浮かび上がった。
直径は、およそ十メートルか。
それが一気に縮み始めた。八メートル、六メートル、四メートル 、二メートル。
黒い球体の内部には、ポチだけでなく、大量の土砂や岩石まで封じ込められている。それらすべてを内包したまま、直径十メートルの球体が二メートルまで圧縮されたのだ。
黒い球体の中に閉じ込められたのが通常の生物であれば、もはや原形すら留めてはいないだろう。肉体は形状を維持できず、骨格も内臓も押し潰され、泥状の物体へと変わり果てている可能性が高い。
もっとも、ポチがその「通常の生物」に該当するかどうかは、甚だ疑問だが。
私は、自らの機能制限を順次解除した。
ポチの左前脚に巻き付いた黒いリングが静かに脈動し始めた。
【戦闘形態へ移行。変身シークエンス開始】
ポチからの返答はない。
緊急時であるから、私は勝手に作業を進める。
黒い球体は、更に収縮を進めた。
次の瞬間、夜よりもなお黒い一本の長刃が、球体を内側から突き破り、天を貫くように伸び上がった。
無数の黒い斬撃が内部を縦横無尽に奔り、巨大な球体は一瞬のうちに細切れとなって崩れ落ちた。
圧縮されていた土砂が爆発するように飛び散り、その中心から、巨大な黒影が落下する。
音もなく、それは地面へ降り立った。
もはや黒ぶち模様の貧相な雑種犬などどこにもいない。
巨大な黒き狼だ。
全身を隙間なく覆う、漆黒の金属装甲。
四肢には赤熱した鋭い爪。
口元から覗く黄金の牙。
そして、背後でゆらりと揺れる、黒き長刃を備えた長い尾。
【変身完了】
魔犬。
この姿こそが、ポチの基本型戦闘形態である。
女の霊体の中で蠢いていた呪念が、一瞬だけ動きを止めた。
怯んだ。
呪念に恐怖などという感情が存在するのかは疑わしいが、私には、そう見えた。
自分には感情など無いことを思い出したかのように、黒い靄は慌てた様子で、再び動き出した。
女の腕。
子供の腕。
老人の腕。
腐敗した腕。
骨だけの腕。
よくもまあ、ここまで多様な腕を用意できたものだと、私は妙なところで感心してしまう。
それらは一斉にポチへ放たれた。
速い。
推定速度は秒速八百メートル前後。ライフルの弾速に匹敵する。
もっとも、ポチにとっては、あくびの出る速度だ。
ポチの尾が、ゆらりと揺れた。
次の瞬間、音が消える。
尾刃の先端は音速を超え、精密機械を上回る正確さで、空間を縦横無尽に駆け巡った。
飛来する腕という腕を、一つ残らず切り落としていく。
切断された腕は地面へ落ちるや否や、生き物のように激しくのたうち回った。
怨嗟とも悲鳴ともつかない絶叫を撒き散らしながら、地面を這い、跳ね、転げ回る。
腕は呪念の塊でありながら、まるで神経を断ち切られた生物のように激痛へ悶えていた。
その苦悶は長く続かなかった。
一つ、また一つと黒い霧へ崩れ、風に溶けるように消滅していく。
数秒後。
ポチの周囲から、動くものは何一つ消え失せていた。
私は、ポチが尾をぶんぶんと振り回している間も、周辺状況の解析を続けていた。
そして、ようやく全容を把握した。
【ポチ、解析が完了した】
ポチは欠伸をした。
聞いてはいるらしいので、続けよう。
【鈴乃森奈美の霊体内部に、二百七十七の残留霊反応を確認した。解析結果から判断するに、それらは悪性へ変質した人間の残留霊である。全個体が極めて高濃度の怨念を放出しており、一体ごとの力はそれほどでもないが、二百七十七体も集まれば話は別だ。さらに、それらは長い年月をかけて互いに混ざり合い、凝縮され、一つの大きな意思を持つまでに至っている。周囲を覆う黒い靄の正体は、それら残留霊の怨念が形を成したもの、つまり呪念だな。事態は深刻で、一刻の猶予もないが、幸いなことに、解決方法は極めてシンプルだ。鈴乃森奈美を、内部の残留霊ごと消滅させることを推奨する】
私の提案は、最も合理的な方法だった。
媒体となっている鈴乃森奈美を消滅させれば、呪念の流出経路を断つことができる。
後は残された呪念を処分すればいい。
並の僧侶や神職者なら百年はかかるだろう浄化作業だが、ポチなら一秒で片付けられる。
しかし、ポチは動かなかった。
【どうした、ポチ?】
「フンッ」と、ポチはいつものように鼻を鳴らした。
私は少し考えた。答えはすぐに出た。
なるほど、そういうことか。
ポチとは長い付き合いである。この程度の意思疎通に、長い言葉は必要ない。
【了解した。それでは、鈴乃森奈美の霊体を維持したまま、内部の悪霊及び呪念を分離する方法を検索する】
どういう理由かは知らないが、ポチは鈴乃森奈美を消滅させるつもりがないらしい。
理由を尋ねても、おそらく答えないだろう。
ならば、私の仕事は一つだ。
一秒でも早く、ポチの望みを叶える方法を見つけ出すことである。
何故なら、私が解析を続けている間も、呪念の攻撃は止まらないからだ。
ポチを只の獣ではないとようやく認識したのだろう。
呪念は脅威の排除を最優先と判断し、ポチへ猛攻を開始した。
数百本の白い腕が飛ぶように伸びてくる。
巨大な人間の顔が、熱した飴のように引き伸ばされ、鋭い牙を剥いて噛みついてくる。
蛸の足や百足を思わせる黒い触手が、波打つように地面を這い寄ってくる。
攻撃速度そのものは先ほどと同じくライフル弾に匹敵する程度だ。
しかし、今度は、数と形状を変えることで突破口を見いだそうとしているらしい。
呪念なりに工夫した結果なのだろうが、その程度ではポチを攻略するなど夢のまた夢だ。
ポチはそれらを尾の黒刃でことごとく薙ぎ払った。
瞬きの間に千を超える多様な攻撃を、たった一本の刃で処理している。驚天動地の精密作業だが、ポチはそれを、欠伸をしながらこなしていた。
戦闘経験には、天と地ほどの差があるのだ。
呪念の猛攻への対処はポチに委ね、私は新たな解決策の検索を続けた。
鈴乃森奈美。
二百七十七体の残留霊。
そして、それらを束ねる呪念。
三者は複雑に絡み合っているものの、完全に融合しているわけではない。それぞれの霊的境界は、まだ辛うじて維持されている。
ならば、対処は可能だ。
ポチの魔人技能の一つを使う。
『霊核分離』
対象同士を結び付ける霊的核のみを摘出・分離し、その後に浄化を施す技術である。
完全融合が完了した相手には通用しないが、現状ならば適用可能なはずだ。
本来は、悪霊などに憑依された者に用いる技術で、不可能を可能とする魔人技能の中では極めて容易な、児戯にも等しい代物だった。
まさか、こんなところで役に立つとは驚いた。
【ポチ、分離方法を確立したぞ。魔人技能の一つ『霊核分離』を使う】
ポチの耳が僅かに動いた。
【技の行使について、具体的な案内が必要か?】
ポチから何の反応も無いが、これは案内が要るなと思った。
ポチは時折、技能の名称と、その効能を結び付けられないことがある。自分が身につけている技能でさえ、ろくに覚えていないのだ。
驚くべきことに、ポチは己がどのような能力を持っているのかについてさえ、ほとんど関心がないのである。
【やれやれ。まぁいつものことだから仕方がないな。案内していくぞ。まず、鈴乃森奈美の霊体を縦方向に切開してくれ】
私の言葉が終わると同時に、ポチの尾刃が閃いた。
鈴乃森奈美の霊体が、頭頂から股下まで一息に切り裂かれる。
もし、生身の肉体であれば、血肉と臓物が大地に撒き散らされる光景になっていただろう。
しかし、彼女は霊体であるため、肉体のような凄惨さはない。
切り開かれた霊体の内側は純白の光を放ち、その輝きの奥から、巨大な黒い球体がゆっくりと姿を現した。
直径およそ三十センチ。
あれが霊核だ。
二百七十七体の悪霊が互いに絡み合い、癒着し、その中心に霊核を形成している。
さらに、その外側を膨大な呪念が幾重にも覆い尽くしていた。
悪霊と呪念、その全てを束ねる中枢である。
【霊核を確認】
ここから先は、わずかな誤差も許されない。
【ポチ。霊核の表面に纏わりついている呪念だけを除去してくれ】
言葉にすれば、それだけのことだ。
しかし、その難度は常軌を逸している。
二百七十七体の悪霊が複雑に絡み合う霊核。そのいずれにも傷を付けることなく、表層の呪念だけを切り離さなければならない。
薄皮を剥ぐという表現ですら粗雑すぎる。
呪念と霊体は互いに浸食し合い、その境界は極めて曖昧だ。その境界を瞬時に見極め、呪念だけを切除しなければならない。
しかも、ポチは、ライフル弾に匹敵する速度で四方八方から降り注ぐ千を超える攻撃を、一つ残らず迎撃しながら、その処置を行わなければならない。
人類には到達不可能な技能だ。
世界最高峰の武人であろうと、その成功率は限りなくゼロに近い。
人の身では、決して成し得ない領域の技能。
故に、魔人技能。
不可能を可能にする、驚天動地の技能である。
もっとも、ポチにとっては、技量を問われる局面にすらならない。
多少の集中を要する、少しばかり細かな作業。その程度の認識だ。
防御に専心していたポチが、おもむろに前に動いた。
尾刃が閃き、全方位から迫る攻撃を寸分違わず迎撃する。
その一方で、ポチが剥いた黄金の牙が、霊核へ静かに食い込んだ。
噛み砕くのではない。
霊核の表面に癒着した呪念だけを、牙で薄く削ぎ落としているのだ。
飛来する攻撃は尾刃で迎撃し、その合間に霊核へ牙を入れ、表面を削る。
ポチがやっていることだけを見れば、それほど複雑な作業には見えないだろう。
だが、実際には違う。
今回、霊核を構成しているのは二百七十七体。それぞれの霊体と呪念が複雑に絡み合い、境界も明確ではない。
ポチはその境界を一つずつ見極め、二百七十七体の霊体には一切傷を付けず、呪念だけを丁寧に、確実に、迅速に、牙で削り取っている。
『霊核分離』は魔人技能の中では、決して難易度の高い技能ではない。
だが、全方位から飛来する攻撃を迎撃しながら、複数の霊体が癒着して形成された霊核から、霊体そのものを傷つけることなく、混在する呪念だけを正確に分離するとなれば、話は別だ。
ここまで精密な処置を同時にこなせる存在は、まずいない。
技量だけを見れば、神業と評して差し支えないだろう。
残念ながら、それを称賛するものは、この場にはいないのだが。
私は、ポチの体内へ流れ込んできたものを解析した。
霊核から削ぎ落とされた呪念である。
霊核への損傷は皆無だ。さすがの手際である。
呪念は、二百七十七体の悪霊を束ねるだけのものではない。その悪霊たちを駆動させ、攻撃を生み出す力の源でもある。
つまり、呪念を削り取るたびに、敵の攻撃能力そのものが失われていく。
現に、攻撃は目に見えて弱まり、その密度も次第に薄くなっていった。
ポチが行なう処置は、刻一刻と容易になっていく。
呪念は見る見るうちに減っていった。
幾重にも霊核を覆っていた黒い塊が削られ、その輪郭が少しずつ露わになっていく。
やがて、霊核を覆っていた呪念は、ほとんど消え失せた。
残っているのは、表面に薄くこびりついた、わずかな残滓だけだ。
ポチは襲い来る攻撃をまとめて尾刃で薙ぎ払い、その隙に霊核そのものを口の中へ放り込んだ。
ころころと、口の中で転がしている。まるで飴玉のように。
もっとも、味わっているわけではない。
舌で霊核を転がしながら、牙の先で表面に残った呪念だけを丁寧に削ぎ落としているのだ。
霊核を傷つけず、付着した呪念だけを除去する。最後の仕上げである。
数秒後、ポチは綺麗になった霊核を口から吐き出した。
霊核は地面を一度転がると、淡い緑色の光を放った。
次の瞬間、その球体は静かに解けた。
無数の人影が、まるで長い眠りから解放されたかのように、次々と地面へ横たわっていく。
女と子供ばかり、二百七十七体。
それらは、つい先ほどまで一つの霊核として絡まっていた霊体たちである。
しかし、もはや彼女たちは悪霊ではない。
彼女たちを悪霊たらしめていた怨念は完全に浄められ、呪念という枷も失われていた。
本来あるべき、清らかな霊体へと戻っていたのである。
それだけではない。
生前に味わった苦痛の記憶、憎悪、後悔。
そうした彼女たちをこの世へ縛りつけていた負の感情、その全てが消え去っていた。
ポチが、まとめて食べてしまったのだ。
「ベフッ」
ポチがおくびを漏らした。
実に不味そうな顔をしているが、無理もない。
呪念とは、人間の怨念を何百年も煮詰め、凝縮したような代物だ。美味であるはずがない。
ちなみに、ポチの臓腑はブラックホールよりも深く、そして強い。これほど膨大な呪念であっても容易に消化できてしまう。
ただ、消化できるからといって、食べたいものかといえば、必ずしもそうではない。
ポチの好物は、魚のあらの煮物とみそ汁ぶっかけた飯だ。
さて、問題は、ここからだ。
現在、ポチの腹の中には膨大な量の呪念が収められている。
このまま胃の中で消化させることも可能だが、それでは時間がかかる。
何より、ポチが「不味い」と言って吐き出すことも十分にあり得る。
しかし、そうなると、大変なことになる。
解放された呪念は再び暴走し、鬼が岳全体を覆うだろう。
実際にポチの内に収められた呪念の量と質を計測してみたが、これが完全に開放された際は、岡山県一帯どころか、山陽地方全体にまで被害が拡大する可能性がある。
こんなものが、ポチとあの一家が住む近所に眠っていたとはな。あまりぞっとしない。
さて、この呪念、どうしたものか?
私が処理方法を検討していると、ポチがある方向をじっと見ていることに気づいた。
そこには、一人の男がいた。
片足の膝が壊されているのだろう。
壊れた人形のように足が不自然な曲がり方をしており、地面を虫のように這っている。
私は既に、この男について検索と解析を終えている。
暗堂新弥。
今回の事件に、浅からぬ因縁を持つ人間だ。
学生時代から暴力、恐喝、金銭の搾取を繰り返し、多くの人間の人生を踏みにじってきた。
鈴乃森奈美も、その被害者の一人である。
彼女を精神的に追い詰め、自ら命を絶つ原因を作った張本人だ。
社会人となってからも、その本質は何一つ変わっていないようだ。
弱者を食い物にし、他人の尊厳を踏みにじり、自らの利益だけを追い求める。
積み重ねた悪徳の数は多く、その全てが重い。酌量できる事情も皆無だ。
暗堂新弥を率直に評価するならば、人間のクズだ。
生かしておく価値は、ゼロ……いや、むしろマイナスだ。
社会にとって、この男が生きることで得られる利益よりも、生み出される損害の方がはるかに大きい。
つまり、死んで初めて、この世の役に立てる類の人間である。
ポチは、そんな男をじっと見つめていた。
断じて、興味を抱いたわけではない。
ポチは、この手の人間を心底嫌っている。
私は、ポチの視線の意味を解析した。答えは、すぐに出た。
【なるほど。ポチ、それはいい方法だ。私も賛成だ】
実に合理的な発想である。流石は私のホルダーだ。
ポチの考えは、私の好みにも合致していた。
採用だ。
そうと決まれば、早速、行動だ。
私は、ポチが纏う装甲の内部機構を起動した。
ポチの背部装甲が静かに展開し、黒い外殻が左右へゆっくりと開いていった。




