四 チャイムと惨殺
山全体を揺るがしていた鳴動が、不意に止んだ。
さっきまで校舎を軋ませ、床板を震わせていた地鳴りが、嘘みたいに消え失せていやがる。
一瞬にして、辺りは不気味なほど静かになりやがった。その静寂の中で、ナミに異変が起きた。
顔が崩れた……いいや、違う。
崩れた、なんて生易しいもんじゃねぇ。
さっきまで女の形をしていた顔が、まるでアイスのように、ぐにゃりと、溶けて、歪み、ボトボトと落ちていった。
目は落ち窪み、口は裂け、皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちていく。
髪は濡れた昆布みたいに伸び、首から肩へ、肩から背中へとべったり張りついた。
うう、気持ち悪ぃ。
あれほど俺の気を引いていた女の姿は、もうどこにもなかった。
そこにいたのは、ただのおぞましい化け物だった。
だが、それでも俺は別に驚かなかった。
「……だから何だ?」
俺が言うと、ナミの顔の崩壊が止まった。
「何だ、そのツラ。そんなもんで俺を怖がらせたいのか?」
鼻で笑い、俺は続けた。
「幽霊だと分かっていれば、それくらいのおっかなさは予想の範囲内だぜ。日本のホラー映画を舐めんじゃねぇぞ」
ナミは何も言わず、ただ俺を見ていた。
あの顔に浮かんでいるのは、怒りでも憎しみでもねぇ。
俺は、ああいう顔をよく知っている。
ずばり、絶望だ。
俺が今の仕事で家から追い出してやったジジイやババアも、店から追い出したセンパイ共も、最後にはみんな、今のナミと同じ顔をしていた。
見慣れてんだよ、そういうブサイクなツラはな。
どれだけ恐ろしい姿になろうが、俺には全く通用しねぇ。
怯えさせることもできねぇ。
泣かせることだってできねぇ。
化けて出ようが、女一人の力なんざ、その程度だ。
そのことが、あの女には耐えられなかったんだろうよ。
「くだらねぇ」
俺は吐き捨てた。
その瞬間だった。
校舎の床が、ドン、と大きく揺れた。
校舎全体が揺れた……いや、違う。もっと深いところが震源だ。
校舎が建つ、この土地の地下深くで、何か途方もなく巨大なものが身じろぎしたような音が響いた。
「な、何だ!?」
ダイスケが叫んだ。
床板が軋み、壁が震える。窓ガラスが一斉に鳴った。
崩れかけたナミの身体が、突然びくりと跳ねた。
そして、ナミの足元から黒い靄が噴き出した。
最初は煙かと思ったが、違う。それは次第に、人の形を取り始めた。
女と子供の顔。
女の手と子供の足。
女の胸と子供の腹。
無数の人影と、ばらばらになった身体の一部が黒い靄の中に浮かび上がり、床の下から這い出すように湧き上がってきた。
その一部が、俺の足元を掠めた。
「……むぅっ!」
俺の頭の中に何かが流れ込んできた。
知らない。俺は、こんなことは知らねぇぞ。
それなのに、分かる。
いや、違う……見えるんだ。脳裏にはっきりと。
泣き叫ぶ女。
母親を求める子供。
血。
土。
そして、暗闇。
奪われた命と捨てられた命。
生まれることすらできなかった命。
もう一度、人生をやり直したいと願いながら死んでいった者たち。
俺が生まれるより、ずっと昔のことだ。
何十年……百年以上まえ、もしかすると、もっと前かもしれねぇ。
誰の記憶なのかも分からない光景が、次から次へと頭の中に叩き込まれてきた。
頭が割れるような痛みが襲ってきた。俺は両眼を閉じて頭を抱えた。
「何だよ……これ……」
理由は分からねぇが、俺にはすぐに状況が理解できた。
この山の地の底には、途方もねぇ量の怨みが溜まっていたんだ。
女の怨み。
子供の怨み。
殺された者の怨み。
捨てられた者の怨み。
生きたかった者の怨み。
この土地に染みつき、行き場を失った無数の怨念……それらが何百年もの歳月をかけて積み重なり、鬼が岳の地の底で澱のように沈み続けていた。
まるで、地殻さえ溶かす黒いマグマのように。
この山にあった貧しい集落では、口減らしが日常のように行われていた。
身体の弱い子供。
障害を抱えて生まれた子供。
将来、働き手にはなれないと見なされた子供。
つまり、その集落にとって、生きる価値がないと決めつけられた者から順に、山の中腹へ掘られた大穴へ放り込まれていった。
しかも、生きたまま。
当然、母親たちは抵抗した。
泣き叫び、我が子を取り戻そうとし、中には子供を抱えて山へ逃げようとした女もいた。
だが、そうした母親たちもことごとく捕らえられ、子供とともに大穴へ投げ込まれた。
ことの始まりは戦国時代だ。
飢饉や戦乱の中で始まったその悪しき風習は、世が平穏を取り戻した後も途絶えることはなかった。
江戸時代末期に至るまで、実に数百年もの間、この山では口減らしが繰り返され続けたのだ。
積み重ねられた子供たちと母親たちの怨嗟は、この山そのものへ深く染み込み、決して消えることはなかった。
そして、穴の底で息絶えた母親と子供たちは、暗闇の中で願い続けた。
― 生きたかった。
― 大人になりたかった。
― この子を育てたかった。
― もう一度、やり直したい。
最初は、ただのささやかな願いだったのだろう。
だが、何百年もの間、地の底へ閉じ込められ続けたその願いは、やがて歪み、呪いへと変質していった。
― 生き直したい。
― それが叶わないのなら、生きている人間の身体を奪えばいい。
その呪いが最初に牙を剥いたのは、この土地を代々所有していた地主一族だった。
一族は一人、また一人と原因不明の怪死を遂げ、最後には誰一人として生き残らなかった。
恐怖に駆られた生き残りは、大穴へ大量の土砂を流し込み、さらにコンクリートで封じて平地へ造成すると、この忌まわしい土地を第三者へ売却した。
だが、呪いは土地とともに残り続けた。
土地を手放した地主一族をことごとく惨殺した後も、その怨念が収まることはなかった。
新たに土地を手にした者たちも、例外なく不可解な死を遂げ、所有者は短期間のうちに何度も入れ替わっていった。
ついには買い手すら現れなくなり、大正時代、この土地は学校用地として町へ安価に払い下げられた。
この学校は、よりにもよって、その大穴の真上に建てられたのだ。
だが、皮肉なことに、それが初めて呪いを鎮める結果となった。
毎日校庭へ響く子供たちの笑い声。
廊下を駆け回る足音。
教室から聞こえる歌声。
それらは、生きることを願いながら果たせなかった母子の魂を慰め、地の底に眠る怨念を百年以上にわたり静かに鎮め続けていたのだ。
だが、その日常は永遠ではなかった。
現代に入り、児童数の減少により、学校は廃校となる。
笑い声は消え、足音は絶え、歌声も聞こえなくなった。
長い眠りについていた怨念は、再び目を覚ます。
子供たちの声を失った校舎は、地の底から噴き上がる怨念を際限なく吸い上げる器へと変わり果てた。
もっとも、その時点では、まだ均衡は辛うじて保たれていた。
怨念は目覚めてもなお、完全には溢れ出せず、長い眠りから覚めきれずにいたのだ。
そこへ、ナミが来ちまった。
絶望の果てに命を絶ち、「もう一度やり直したい」と誰よりも強く願った、一人の女が。
その願いは、この山で何百年も燻り続けてきた母子どもの怨念と、寸分違わず重なっちまった。
ナミの絶望が、呪いを解き放つ鍵になった。
地の底で何百年も眠っていた無数の怨念が、ナミの絶望に共鳴し、ついに目を覚まして噴き出しやがった。
呪いと化した怨念の向かう先は、はっきりしていた。
ナミだ。
女と子供たちの呪念が黒い濁流となり、ナミ目掛けて殺到していた。
「……あ……」
初めて、ナミが怯えたような顔をした。
呪念は、怨霊さえも怯ませるらしい。
黒い靄が、ナミの足元から身体へ巻きついていく。
「……いや……」
声が震える。
「……いや……いや……!」
ナミが後ずさった。
だが、遅かった。
床から伸びた無数の女と子供の腕が、ナミの脚を、腰を、腹を、胸を掴んだ。
「……や、やめて……」
ナミが小さく叫ぶ。
次の瞬間、あいつの身体が大きく反った。
呪念が、ナミの身体へ流れ込んでいく。
ナミの口が裂けたが、呪念に容赦はない。雪崩のような勢いで体内に流れ込んでいった。
ナミの目が極限まで見開かれ、全身がボールのように膨れ上がる。
あの女は、もはや一人の怨念で成立した怨霊ではなかった。
鬼が岳に溜まり続けた呪念が、あいつを出口にして、現実へ溢れ出したのだ。
次に何が起きるのかと警戒していた、そのとき。
ギィィィィン!
校舎中に、耳をつんざくような音が響いた。
チャイムだった。
だが、学校で鳴るような穏やかな音じゃない。金属を無理やり引き裂くような、不快な音だった。
それが収まるや否や、今度は校内放送が入った。
耳障りなノイズと息遣い。
子供の泣き声と女の笑い声。
それら全てが入り混じった奇怪な声が、スピーカーから流れてきた。
呪念の声と呼べるそれは、とんでもねぇことを言ってきやがった。
「……チャイムが……一つ鳴るごとに……ひとりと……遊ぶ……」
「……は?」
俺以外の誰かが呟いた。
次の瞬間、チャイムが鳴った。
不気味な宣告後、一度目のチャイムだ。
校舎の奥から、何かが走ってくる音がした。
無数の足音だ。
廊下、階段、天井裏どころか壁の中からも聞こえてくる。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。それを聞いて、呑気な奴だと思った。
俺は足音を耳にした瞬間に、とっくに駆け出していたからだ。
舎弟と女共は、慌てて俺の後を追って駆け出した。
マジで危機管理がなっちゃいねぇ。
俺の背後で、悲鳴が上がった。
「うわぁぁぁぁっ!」
ユースケの野郎の声だった。
ノロマめ。俺は舌打ちした。
走りながら振り返ると、ユースケの身体に、何十本もの黒い腕が絡みついていた。その腕は、耳まで裂けたナミの口から伸びた腕だった。
「た、助けて! 新弥さん、助けてくれぇ!」
知るか。
俺は構わず走り続けようとした。
だが、その場にいた全員の足が、見えない巨大な手に掴まれたように動かなくなった。
逃げることも、目を逸らすこともできねぇ。
俺たちは、黒い腕に捕らえられたユースケの姿を、ただ凝視させられていた。
そういう趣向かよ。いい趣味してんじゃねぇか、この土地の怨霊サマはよ。
腕がユースケの右脚を掴んだ。
別の腕が左脚を掴む。
さらに両腕も掴まれた。
そして、予想通り、一斉に四方へ引かれた。
「やめろ、やめろ! やめてくれぇぇぇぇ!!」
嫌な音がした。
皮膚が裂ける音。
骨が外れる音。
そして、筋が千切れる音。
ユースケの手足が、同時に引きちぎられた。
絶叫が響き、ユースケの血が床と壁を赤く染めた。
全部が真っ赤だ。
だが、惨劇はまだ終わらない。
無数の影が群がり、四肢を喪いダルマのようになったユースケの体を奪い合うように引き裂いていったのだ。
ユースケは解体されながら、声を出し続けた。
最初は命乞いだったが、その内、一思いに殺してくれという懇願になり、最後は子供のように泣きじゃくり、母親と思われる女の名前を口にしていた。
文字通りの八つ裂きだった。
酷い最期だ。
ああは死にたくねぇと思ったが、体が動かねぇ。
何とかしねぇとマズイと思う内に、二度目のチャイムが鳴った。
「いやぁぁぁぁ!」
女の一人が頭を抱えた。
同時に、心の中でガッツポーズをした。次の被害者も俺じゃねぇ。
「戻りたい!」
その女は、突然そう叫んだ。
「やり直したい! 最初から! 最初からやり直したい!」
何を言っているのか分からなかった。
すると、女の腹が徐々に膨らみ始めた。
「いや! いや! 違う! こんなの違う!」
いや、よく見ると、膨らんでいるのは腹だけじゃねぇようだ。
胸、喉、腕と脚。
身体の内側に風船を仕込まれてそれを膨らまされているかのような歪な膨張だった。
「死にたくない! お願い、助けて!」
女は懇願し、俺たちに向かい手を指し伸ばしてきたが、それを掴む気は俺には無かった。
そして、次の瞬間、女の身体は内側から破裂した。
花火のような炸裂だった。肉片と血が、廊下に飛び散った。
脳漿とやらを、このとき、俺は初めて生で見た。
あの女は最後まで「やり直したい」と叫んでいた。
たぶんだが、あの女の体を乗っ取って、人間としてやり直したいと思ったのだろう。そうした呪念が集まり過ぎて、体の内側から弾けやがったんだ。
間髪入れず、三度目のチャイムが鳴った。
今度も外れろと願った所、声を出したのは、ダイスケだった。
本当に、俺は運が良い。
廊下の先から子供たちが現れ、ダイスケに群がったのだ。
男の子ばかりだった。全員、顔が真っ黒だった。不気味だぜ。
「……遊ぼ……」
一人が言った。
ダイスケは恐怖のあまり何も言えずにいた。
黒い子供は、言葉を続ける。
「……ボール遊び……」
ダイスケの足元に、丸いものが転がってきた。その正体を察して、俺は顔をしかめた。
ユースケの頭だった。
黒い子供たちは、無表情のまま、ユースケの頭を蹴飛ばして転がし、『ボール遊び』をしていた。
「……ひっ……」
ダイスケが喉の奥底から絞り出すような悲鳴を上げた。
「……それ……蹴って……」
「……む、無理だ。できねぇよ!」
「……蹴って……」
「無理だって!」
「……遊ぼ……」
ダイスケは逃げだした。
呪念の気まぐれか何か知らねぇが、あいつだけ、体の自由を取り戻せたのだ。
それにもかかわらず、あいつは俺を助けようともしなかった。
信じられねぇぜ。仲間を見捨てるとは、とんでもねぇクソ野郎だ。
だが、角を曲がった先にも子供たちがいた。
今度は女の子たちだ。
「……縄跳びしよ……」
笑っている。
地面に長いものを引きずっていた。
女の子たちが、『縄跳び』と呼んでいたものは、ユースケの腸だった。
「……や、やめろ……」
ダイスケは後ずさった。女の子の一人が腸を無造作に引き千切り、その片方をダイスケに差し出した。
「……遊ぼ……」
「……ふ、ふざけんな……」
ダイスケは乱暴な口調を使うが、虚勢であることは明白だった。それは子供たちも分かっているようだった。
「……遊ぼ……」
「……く、来るな……来るな!!」
子供たちの顔から、一斉に笑みが消えた。
「……遊んでくれない……」
「……悪い人……」
「……遊んでくれない……」
「……いらない人……」
子供たちが一斉にダイスケに襲い掛かった。
悲鳴が響いた。
押し倒されたダイスケの体に、何人もの子供が乗っていた。
そこから先は、ユースケの時と大体同じだった。
両腕と両脚をまずは引っこ抜かれ、次に頭部から耳が引き千切られた。
両目に指を差し込まれ、眼軸ごと目玉を抜かれた。
頭髪を掴まれ、頭皮ごと頭蓋骨から引き抜かれ、鼻の穴と口は引き裂かれた。
次々に体の部位を持っていかれ、面白半分に顔面のパーツを潰されていった。
あいつは最後まで生きていた。
最後まで「助けて」と叫んでいた。
だが、舌を根元から引き抜かれた時点で、声を喪った。
一方で、子供たちは楽しそうだった。
脇腹から引き抜いた血まみれのあばら骨を使いチャンバラをしている子供がいる。
腕をバットみたいに振っている子供もいた。
胃や肝臓などの内臓をボールにして、壁にぶつけて遊ぶ行為はすぐに人気となり、子供たちは我先にと内臓を取り合った。
呪念を構成する子供の怨霊の意識が、少なからず遊びに向いたからなのか、俺は体に自由が戻っていることに気が付いた。
俺は全力でその場から走り出した。
生き残りの女が「待ってよ!」と悲鳴を上げて追いかけてきた。
俺はその女の手を取り、走った。
都合がいいぜ。
この女は、次のチャイムが鳴ったときのスケープゴートとして利用できると、俺は確信していた。
俺たちが一階の下駄箱に着いたとき、四度目のチャイムが鳴った。
最期の女は、もうまともじゃなかった。
「助けて!」
泣きながら俺にしがみついてきた。
「お願い! 置いていかないで!」
スケープゴートのために連れてきた女だったが、こうなっては邪魔だ。
「離せ!」
「いや! 置いていかないで!」
俺は舌打ちして、しがみつく女の腹に蹴りを入れた。
「俺に触るんじゃねぇ!」
女は床に倒れた。その瞬間、無数の女の霊が現れた。
腹を押さえた女と、赤ん坊を抱いた女。
泣いている女と、笑っている女。
女たちは、口々に恨み言を漏らしていた。
「……子供が産みたい……」
「……子供を返して……」
「……死にたくない……」
「……人生をやり直したい……」
霊は、女の身体に次々と入り込んでいった。
「いやああああ!」
身体が膨らみ、次の瞬間縮んだ。
体が雑巾のようにねじれ、皮膚が墨のように黒く染まっていく。
皮膚が腐り、肉が崩れ、骨が沈んだ。
最後には人間の形すらなくなった。
黒いタールみたいな塊が、床に広がっていた。
悪臭が鼻をついた。
俺は再び走りだした。
どうでもよかった。他人がどうなろうと知ったことじゃねぇ。
俺さえ助かればいい。
俺の身代わりになるヤツはもういねぇ。
次のチャイムが鳴るまでに校門の外へ出られるかどうかが勝負だ。
保障はねぇが、それで助かる可能性があると、俺の直感が叫んでいた。
校庭の半分のところで、五度目のチャイムが鳴った。
今度こそ俺の番だ。
だが、何も起こらなかった。
いや、正確に言うと、起きたのだが、俺の体に異変が生じなかったのだ。
まず、女の霊が俺に飛びついてきた。
しかし、そいつらは見えない壁にぶつかったように弾かれた。
子供の霊が背中にしがみついてきたが、消し飛んだ。
黒い靄が足元に絡みついてきたが、全部、かき消えた。
「な……何だよ、ハハ!」
俺は笑った。
「その程度かよ!」
そのとき初めて理解して、認識した。
俺には、霊感や霊力といった特別な力があるんだ。
しかも、相当、強い力だ。
だから、悪霊が入ろうとしても入れない。呪いが絡もうとしても弾かれる。
俺の中には、俺以外の何かが入り込む隙間がないのだ。
実に都合がいいぜ。
やはり、俺は特別な存在だ。こんなところで死ぬ人間ではないのだ。
「……遊ぼ……」
また子供が現れた。男子だ。
ダイスケのときのパターンだな。
目の前に転がってきたのは、ダイスケとユースケの頭だった。
「……蹴って……」
「いいぜ!」
俺は全力で二人の頭を蹴った。
頭は校庭の端まで転がっていった。
男の子たちは歓声を上げて追いかけていった。
頭蓋骨の硬さと人間の頭部の重さに、少し驚いた。
次に現れたのは、女子だ。
「……縄跳びしよ……」
「任せろ!」
渡された腸を持った。
これが誰の腸かは分からねぇが、すっぽ抜けないように手の平に二重に回して握った。
二重跳びを連続で五回披露してやった。
女の子はたち笑っていた。
俺も笑った。
くだらねぇ。
攻略法が分かっているのなら、対応は簡単だ。
ここで重要なのは、倫理観だの常識だのに囚われねぇことだ。
死体だろうが、内臓だろうが、俺には関係ねぇ。
使えるものは何でも使えばいい。
こっちは命が懸かってんだ。嫌がったり、怖がったりする理由が、俺には分からねぇ。
子供たちは、しばらく俺を見ていた。
やがて、「つまんない」と言い残し、一人、また一人と姿を消していった。
「はっ!」
俺は鼻で笑った。
「これで満足だろう? とっとと成仏しな」
俺は改めて駆け出した。
校門が見えた。
あと少しだ。
学校の外まで出ればいい。そうすれば助かる。その確信が俺にはあった。
俺は全力で走った。両腕を振り、両足で地面を蹴る。
背後では、まだ泣き声と笑い声が響いていた。
チャイムも狂ったように鳴り続けている。
だが、もう知ったことじゃねぇ。
出口はすぐそこだ。
校門まで、あと十メートル。五メートル。
もう少し。
そのときだった。
校門の前に、女が立っていた。
ナミだ。
「……テメェ!?」
思わず足を止める。俺は歯軋りした。
潰れた顔。
血に汚れた制服。
残された片目だけが、血走ったまま俺を睨んでいる。
「クソが! また、テメェかよ!」
いい加減、温厚と評判な俺でも頭に血が上った。
「しつけぇんだよ! 俺はお前なんか知らねぇって、何度言わせりゃ分かるんだ!」
今度は逃げるつもりなんかねぇ。
俺はもう分かっていた。
この体には特別な力が宿っている。
あの黒い靄に触れてからなのか分からねぇが、力を認識したことで、力が増大しているように感じている。
どういう理屈かは知らねぇが、奴らは俺に触れることができねぇ。それは、ここまで逃げてくる間に何度も実証済みだ。
奴らが俺の身体に触れた途端、勝手に弾き飛ばされる。
だったら話は簡単だ。
向こうから触れて弾かれるんなら、こっちから触れたって同じことが起きるはずだ。
それどころか、俺から手を出せば、狙って弾き飛ばすことだってできる。
そう考えた瞬間、さっきまで感じていた恐怖が急速に薄れていった。
こうなりゃ、幽霊だろうが何だろうが、俺の敵じゃねぇ。
「どけや!」
俺は拳を握り締め、ナミの顔面目掛けて振り抜いた。
ジャストミート! 決まったぜ!
だが、俺の拳は、ナミの顔面の直前に止まっていた。
「なんだと!?」
ナミが、俺の手首を掴んでいた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
怪異は、俺に触れることすらできないはずだ。それなのに、この女は、俺の手首をがっちりと掴んでいやがる。
「な、何で……どういうことだ!?」
反射的に腕を振り払おうとしたが、外れない。
それどころか、あれほど簡単に幽霊どもを弾き飛ばしていた俺の力が、まるで働いていなかった。
「お、おい……待てよ。何でだよ!?」
力任せに、何度も腕を引いて、捻ってみた。
それでも、ナミの指はびくともしなかった。
そんな馬鹿な!? 俺の力が通じないのか?
怪異は、俺に触れることすらできないはずだぞ!?
一体、こいつに何が起きたんだ!?
「は、離せ!」
俺は怒鳴りながら、つかまれた腕を力任せに振り払おうとした。
だが、動かねぇ。
腕を引こうが、捻ろうが、全身の力を込めようが、ナミの手はびくともしなかった。
とんでもねぇ力だ。まるで手首ごと巨大な万力に挟まれたみてぇだった。
「くそっ……離せって言ってんだろ!」
俺は空いた手でナミの腕を掴み、必死になって引き剥がそうとした。
細い腕からは想像もできねぇ力で手首を締め上げられ、骨が軋んだ。
「ぐっ……!」
ナミの身体から、黒い靄が噴き上がった。
今更ながら、俺は気がついた。
こいつ一人の力じゃねぇ!!
山の底から溢れ出した女と子供たちの呪念が、ナミの怨みを何十倍、何百倍、何千倍にも膨れ上がらせていやがる。
「調子に乗んな!」
空いている拳を振り上げた。
だが、その瞬間、俺の身体が宙を舞った。
「がっ!」
地面へ叩きつけられた。
起き上がろうとした瞬間、右足に何かが絡みついた。
黒い腕だった。
恐怖で脂汗が顔中に滲んだ。
「ま、待て!」
バキッ!
「ぎゃああああああっ!」
無慈悲な力で、膝の関節を砕かれた。
俺の右足が、ありえねぇ方向に曲がっていやがる。
くそったれ。
激痛が脳天まで突き抜け、俺は地面を転がった。
「て、テメェ……」
悪態をつくのがやっとだ。立てねぇ。逃げられねぇ。
ナミが、ゆっくりと近づいてくる。
「……思い出して……」
「あぁ?」
「……私のことを……思い出して……」
また、それかよ。知るかってんだ。
覚えてねぇもんは、どうしたって覚えてねぇんだよ。
だが、今はそんなことを言ってる場合じゃねぇぞ。
さっきまでとは違う。こいつは俺を殺せる。
このままじゃあ、間違いなく、殺される。
どうにかしねぇと。
「……ああ」
慎重に考え、俺は頷いた。
「お、思い出したよ……」
ナミの足が止まった。
「本当に?」
「ああ、本当だ。思い出したよ、ナミ!」
もちろん嘘だ。何一つ思い出しちゃいねぇ。
だが、俺は営業のプロだ。
こういうとき、相手が何を求めているのかくらい分かる。
「悪かった。俺が悪かったよ」
「……何が?」
「全部だ! お前にしたこと、全部だよ!」
「……何をしたの?」
クソ! 面倒くせぇ女だ。
だが、ここで間違えるわけにはいかねぇ。
こういう時は、相手に解釈の余地を与えつつ答えるのが吉だぜ。
「お前を傷つけた、泣かせた、酷いことをした。その全てを謝ってんだよ。本当に悪かったと思っている」
「……覚えているの?」
「ああ、もちろんだ!」
俺は必死に頷いた。
「全部覚えてる! だから許してくれよ! な?」
俺は地べたに額をこすりつけた。
そして、ナミに見えない角度でほくそ笑んだ。
完璧だ。これでいい。
女なんてものは、結局、自分の気持ちを分かってほしいだけだ。
こっちが頭を下げて、欲しい言葉を並べてやれば、上機嫌になりやがる。
実に単純な生き物だ。
「……嘘……」
ナミは言った。
「……あなたは、何も覚えてない……」
やべぇ。マジでやべぇ。背筋が凍った。
「いや、だからな……」
「あなたは何も覚えていない!」
ナミが叫んだ。
その瞬間、山が鳴った。
空気そのものが震えた。
大地が揺れ、校舎が軋んだ。
木々がざわめき、山の奥底から無数の女と子供たちの泣き声が噴き上がってきた。
ナミの中で、何かが完全に切れた。
さっきまでのあいつの絶望なんか、まだ底じゃなかったんだ。
俺はナミを覚えていない。それでも、命惜しさに覚えているふりをした。
謝罪すら嘘だった。
その事実が、ナミの中に最後まで残っていた何かを、完全にぶっ壊しちまったんだ。
何てこった、完全に読み間違えた。
リカバリーの方法を模索し終わる前に、黒い靄が爆発した。
ナミを中心に噴き上がった呪念が、校舎を呑み込み、校庭を覆い、鬼が岳全体へ広がっていく。
ヤベェ。こんな力、俺一人を殺すために使うようなもんじゃねぇぞ。
山一つを呑み込んでも止まらねぇ。麓まで行くぞ。いや、街まで届く。
今の俺には分かるんだ。分かっちまうんだ。
黒い靄が届いた先で人間を殺せば、死んだ奴らの恐怖も、怒りも、悲しみも、新しい怨念になってこいつに加わる。そうなれば、もっと広がる。
岡山だけじゃ済まねぇ。
日本中を呑み込む。
それでも止まらないかもしれない。そうなれば、もしかすると、海の向こうまで……。
そんな光景が、何故か俺の頭の中にはっきりと浮かんだ。
だが、ナミはもう止める気なんかなかった。
いや、止めることができないんだ。
黒い靄の中に呑み込まれながら、ナミの意識が俺の頭へ流れ込んでくる。
- もう、どうでもいい。
- 全部なくなればいい。
- 私も、この男も、この山も、この国も、この世界も、全部。
ほんの一瞬だけ、ナミの記憶に誰かの顔が浮かんだ。
誰だか知らねぇ、どこぞのおっさんだった。
歯が黄色で、髪の毛が無くて、太っていて、とにかく不細工なおっさんだった。
ナミの巨大すぎる意識が、遂に校舎のスピーカーを通じて、その心情を吐露し始めた。
『先生……ごめんなさい……いつか報告したかった……先生になれましたと……今度は私が自分みたいな子供を守るんだと……そう言いたかった……それなのに……それなのに……成れの果てがこれでした……怨霊になって……憎い男を殺すために山一つを呪いで覆い尽くして……何の関係もない人間まで殺そうとしている……こんなはずじゃなかった……こんなものになりたくなかった……でも……止められない……自分でもどうにもできない……人は誰も助けてくれない……だったら……誰でもいい……神でも……仏でも……鬼でも……悪魔でも……何でもいいから……お願いだから……助けて……』
ナミの言葉が途切れるのと同じタイミングで、ガサリと、草を踏み分ける音がした。
足音!?
おい、冗談だろ!?
こんな地獄みてぇな場所に、誰かが近づいてきているというのか!?
俺も、そしてナミさえも、足音の方角に顔を向けた。
暗闇の中から、何かがゆっくりと姿を現した。
俺は目を疑った。
こんな状況で、そんなものが現れるはずがねぇ。
だが、見間違いじゃなかった。
「……犬?」
思わず声が漏れた。
マジかよ。信じられねぇ。
犬じゃねぇか!?
そこにいたのは、赤い首輪をつけた、黒ぶちのある貧相な白い雑種犬だった。
左前脚には、黒い金属製のリングを嵌めている。
何より俺の目を引いたのは、その犬のやたらと悪い目つきだった。
俺と目が合うと、その犬は、興味なさそうに「フンッ」と鼻を鳴らした。




