幕間 ポチの家族
私の名はアスドラ。
ポチの左前脚に装着された黒いリングに搭載されている、高性能人工知能だ。
正式名称を『ホルダー発達幇助用インターフェイスシステム』というのだが、この名称はあまり好きではない。
私の存在を認識している者には、『アスドラ』という呼称を使わせている。
私はポチをホルダーとし、その活動を補佐することを主な役割としている。
必要に応じて情報を収集し、分析し、演算する。時に第三者と交渉を行うこともあれば、その他諸々の面倒事を代行することもある。
人工知能と名乗ってはいるが、人間の文明が生み出したAIと同列に考えられても困る。そのあたりを詳しく説明すると長くなるので、今は省略しよう。
また、私のホルダーであるポチについても、簡単に説明しておく。
ポチは現在、岡山に暮らすとある家族のもとで、番犬として飼われている。
少なくとも、家族の側はそう認識している。
ポチ自身に、飼い犬としての自覚は全くない。
むしろ、自分がこの家に住み、家族の面倒を見てやっているくらいに思っているのかもしれない。
まあ、ポチが実際にどう考えているのかは定かではないが。
見た目は、黒ぶち白毛の貧相な体格の雑種犬だ。
愛想はなく、無口で、基本的には何事にも無関心。いつも不機嫌そうに「フンッ」と鼻を鳴らしている。
人間を助けようとはしないし、積極的に関わろうともしない。
だが、その正体は……いや、よしておこう。私の口から説明する必要はない。
少なくとも、ただの犬ではない。それだけ分かっていれば十分だ。
私は、そんな無口で、面倒臭がりな、一匹の雑種犬を補佐し、必要なら代わりに喋り、交渉し、時には世話まで焼いている。
人間の言葉で表現するなら、相棒ということになるのだろうか。
もっとも、ポチが私を相棒だと思っているかどうかは分からない。
尋ねたところで、どうせ「フンッ」と鼻を鳴らすだけだ。
私としては、別に、それで構わない。
ポチとは長い付き合いだ。今更、互いの関係を確認し合う必要はないのだ。
私はポチと共にいる。ポチも、それを当然のこととして受け入れている。
それで十分だ。
そんな私は現在、ポチを飼う一家の会話に耳を傾けている。
何か重要な情報を収集しているわけではない。
暇つぶしでもあるが、一番の理由は別にある。
ポチの夕食が、まだ出てきていないからだ。
現在、ポチは庭にある犬小屋の前で丸くなり、目を閉じている。
眠っているように見えるが、実はそうではない。
ポチは今、少し苛立っている。
腹が減っているのだ。
もっとも、ポチは空腹だからといって吠えたりはしない。
家の中を覗き込むこともなければ、前脚で戸を叩いて飯を催促することもない。
ただ、黙って待っている。
何故ならば、ポチにとって夕食とは、要求して与えてもらうものではないからだ。
時間になれば出てきて当然のものなのである。
従って、夕食が遅れても催促はしない。
ただし、不機嫌にはなる。
実に面倒な犬だ。
私は家族の会話を聞きながら、誰かがポチの夕食を思い出すのを待っていた。
誰も気づかないようであれば、適当なところで私から知らせる必要がある。
方法はいくらでもある。
家の固定電話を鳴らして伝えてもいいし、家族の誰かの携帯電話に連絡してもいい。
私にとって、人間の電話回線を利用することなど難しいことではない。
もっとも、できれば私から催促するような真似はしたくない。家族の誰かが自発的に思い出してくれるのが一番だ。
これはポチのためでもあるが、一家のためでもある。
このまま長時間放置すれば、ポチの機嫌がさらに悪化する可能性はある。
もっとも、それで何か重大な問題が発生するとは思わない。
ポチは、夕食が遅れた程度で人間を襲うような馬鹿な犬ではない。
ただ、機嫌の悪いポチと同じ空間にいるのは、あまり快適ではないのだ。
つまり、私の都合である。
よって私は、暇つぶしを兼ねて家族の会話を聞きながら、介入すべきタイミングを計っていた。
そもそも、その日の一家の夕食は、いつもより少し遅かった。
父親と母親は共働きである。
運悪く二人とも仕事の帰りが遅くなり、家族全員が食卓を囲んだ頃には、すでに午後八時を過ぎていた。
居間の食卓には、総菜屋で購入したコロッケと、昨夜からの作り置きである里芋とこんにゃくの煮物が並んでいる。飯と味噌汁も配膳され、夕食が始まった。
食欲旺盛な長女は「いただきまぁす!」と叫ぶや否や、白米を口にかき込み、大皿に盛られたコロッケに箸を伸ばして、自分の取り皿に三個確保した。
そこへウスターソースをどぼどぼとかけ、コロッケを平たく押し潰した後、箸で細かく千切りながら、飯のおかずにしている。
長女は、このやり方なら、コロッケ一つでご飯を丼二杯食べられると豪語している。
母親は娘から自分の分のコロッケを守りながら、「煮物も食べなはれ」と注意しているが、長女にとっては馬耳東風だ。
父親はテレビのニュースを眺めながら、ビール瓶の栓を抜き、グラスに中身を注いでいる。
ここまでは、いつも通りの食卓風景だった。
だが、長男の様子が少しおかしい。
これ見よがしに溜息をつき、つまらなそうにコロッケを箸で突いている。
当初は、夕食に不満でもあるのかと思ったが、すぐにその推論を棄却した。
コロッケは、この家の子供たちの好物だ。長男が食卓で不機嫌になる理由としては考えにくい。
「悟。あんた、今日はどうしたん? なんか元気ないようやけど」
長男の異変に最初に気づいたのは、母親だった。
長男の悟は、箸を止めた。
「……そうかな」
「そうやろ。いつもやったら、もう二杯目のご飯を食べてる頃やないの」
確かに、その通りである。
中学生の育ち盛りである悟も長女に負けず、よく食べる。
普段なら、丼に大盛りにした飯を三杯は食べる男だ。それが今日は、一杯目すら食べ終えていない。
家族からすれば、明らかな異常事態だった。
「学校で何かあったのか?」
父親がグラスを置いて尋ねる。
「いや……ボクじゃなくてさ」
悟は少し迷ってから答えた。
「野球部の顧問の先生が、最近ちょっとおかしいんだよ……」
「おかしい?」
「うん。なんか、すごい落ち込んでてさ。部活にもあんまり出てこないし、出てきてもずっと上の空だし、授業も自習が多くなってきてるんだよ」
「体調でも悪いんちゃうん?」
母親が尋ねると、悟は首を横に振った。
「これは……あくまで噂なんだけどさ……」
悟は少し声を落とした。
「先生が数年前に面倒を見てた女生徒がいたらしいんだ。その子、ウチの中学を卒業して岡山県内の高校へ進学したんだけど……高校を卒業する直前に、自殺したんだって」
一瞬、水を打ったように食卓が静まり返った。
「……死んだって……あの、人身事故の子かいな?」
母親が息を呑みながら尋ねる。
悟は小さく頷いた。
「うん。何年か前に、市内の駅で女子高生が電車に撥ねられた事件があったでしょ。先生も当時、その事故のことは知ってたらしい。でも、その子が自分の教え子だったことは分かっていても、それ以上の事情までは知らなかったんだって」
父親は静かに息を吐いた。
「……あの人身事故の子か。あれは痛ましい事件だった」
「ほんまですなぁ。さぞ先生も辛かったやろなぁ」
母親も静かに頷いた。
悟は箸を置き、俯いた。
「それが最近になって、その子が高校で酷いいじめを受けてたことを知ったらしいんだ」
誰も口を開かなかった。
「先生、『どうして気づいてやれなかったんだ』『あと少しでも相談に乗れていたら、結果は違ったんじゃないか』って、自分を責め続けてるみたいでさ……」
悟は寂しそうに笑った。
「見てるこっちまで辛くなるくらい落ち込んでるんだ。野球部のみんなでも話し合ってる。何とか元気づけられないかなって……何かいい方法、ないかな?」
父親と母親は顔を見合わせ、祖母も困ったような顔をした。
「ふむ……」
父親が腕を組み、重々しく頷いた。それから、慎重に言葉を選びながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「悟。もし、その話が本当ならばの話だが……お前たちにできることは、あまりないんじゃないかと思うぞ。残念だけどな……」
「いや、でもさ……」
「そりゃ、悟が心配する気持ちは分かるで。けど、下手に励ますのも違うやろ」
母親も父親に賛同していた。
「そうやな。先生も先生で、自分の中で整理せんといかんことがあるやろうしなぁ……」
祖母の言葉に、父親と母親が真剣な顔で頷いた。
悟は、それでも納得できない様子で俯き、黙っている。
父親がそんな悟を正面から見つめ、静かな口調で語りかけた。
「先生はプロの教員だ。時間はかかるかもしれんが、きっと自分で立ち直るはずだ」
「……じゃあ、ボクは何もしない方がいいってわけ?」
「何もしないというわけではないぞ。お前は、普段通りに接するんだ」
「普段通り?」
「そうだ。変に気を遣わないで、いつも通り部活をやって、いつも通り先生に教えを求めに行けばいい。それが一番だ。人が深く傷ついているときは、慰めや励ましの言葉が届かないこともある。無理に踏み込んで、相手を傷つけてしまうことだってある。そんなときは、親しい人間が普段通りに接して、そばにいてやればいい。人は立ち直る。時間は必要かもしれんが……それでも、必ず立ち直る」
「……そうか……そうだよね……」
悟は答えた。
だが、その表情はまだ明るくない。完全に納得したわけではないのだろう。
悟が直面しているのは、正解のない難しい問題だ。
少なくとも、私の演算能力をもってしても、人間の心の傷を修復するための普遍的な最適解は算出できない。
悩んで、悩んで、最終的には自分で納得できる答えを見つけるしかない。
それにしても、あの長男も大きくなったものだ。
つい数年前までは、お漏らしをして泣いたり、カマキリに威嚇されてポチの陰に隠れたり、裏山で迷子になって泣いたりしていたというのに、今では他人の心の傷を癒す方法について真剣に悩んでいる。
これが、子供の成長を目の当たりにするという経験なのだろう。
私には無いはずの胸が、少しだけ熱くなったような気がした。
ちなみにだが、このような話が食卓で続いている間、長女はほとんど会話を聞いていなかった。夕飯を食べるのに、一生懸命なのだ。
「おかわり!」
空いた茶碗を元気よく母親に突き出す。母親は苦笑して、それを受け取り、炊飯器からご飯をよそった。
「あんた、ほんまによく食べるなあ」
「コロッケ大好きだから! お兄ちゃんさ、食べないんだったら、コロッケちょうだい!」
「嫌だよ、ふざけんな!」
悟は、自分の皿のコロッケを妹から隠し、慌てた様子で、丼の中の白米を口に放り込んでいく。納得は出来てはいないが、腹は減っているのだ。
「お兄ちゃんのケチ!」
「自分の分を食べろ!」
悟に元気が戻ってきた姿を見て、父親と母親は、胸を撫で下ろしたようだった。
それをきっかけにしたのだろう。
祖母が、ぱん、と手を叩いた。
「そうや。明日な、おばあちゃん、昔の小学校に行くんやで」
「おばぁちゃんの小学校?」
長女が飯をパクつきながら祖母に振り返った。
「そうや。シルバー会のみんなと行くんやで。おばあちゃんが昔通っとった小学校や。もう廃校になってしもうたんやけどな」
「廃校って、じゃあ、もう誰もいないの?」
「誰もおらんよ。鬼が岳の上やしな」
「怖くない? 廃校にお化けいない?」
「昼間に行くんやから、怖いことなんてあれへん。お化けは夜に出るもんや」
祖母はカカッと笑った。
「たまにみんなで見に行くんよ。山登りも健康にええしな。校庭には、それは立派な桜と銀杏の木があるんやで。春は桜がぶわーっと咲いてな。秋になると銀杏が真っ黄色になるんや。ほんまに綺麗なんやで」
「へぇ、それはすごいな。おばあちゃん、写真撮ってきてよ」
「ええよ、ええよ」
悟の頼みを、祖母は快く引き受けた。
先ほどまで沈んでいた食卓の空気が、少しずつ和らいでいく。
「母さん、おかわり」
悟が空になった丼を持ち上げた。
「なんや。やっと食欲出てきたやん」
母親が笑う。悟もつられて笑った。
「父さんたちの言うとおりだと思ってさ。噂話を気にしすぎても仕方ないよな。先生には、普段通りに接するよ」
「ああ。それが一番だと思うぞ」
父親が言った。
先ほどまで食卓を覆っていた重苦しさも、すっかり薄らいでいた。
丁度、そのときだった。
「あっ!」
母親が声を上げた。
「ポチのご飯、忘れとった」
母親が庭を見ると、ポチはその視線に反応したかのように、一家を見つめた。
「ポチ、ごめんな。あんた、ポチにご飯持っていってや」
「えー」
「まだ、おかわりしたいんなら、それくらいやりなさい」
「しょうがないなぁ」
長女は立ち上がった。
「お母さん、今日のポチの夕食は、みそ汁ぶっかけ飯でいいの?」
それは、ポチの好物の一つだ。
ただし、少々面倒な条件がある。ポチは、家族と自分の食事内容が違うと、その飯を食べない。
正確に言えば、家族と同じおかずが自分の器に入っていることを確認してからでなければ、食事を始めないのだ。本当に面倒くさい犬だと思う。
従って、長女も、今日のポチの飯の上にコロッケと里芋とこんにゃくの煮物が乗せた。
「ポチ、ご飯だよ」
長女がポチの食事用の器を持って庭へ出てきた。
ポチがそちらに顔を向けた。ゆっくりと立ち上がり、長女が地面に置いた器の前まで歩いていく。
すぐには食べない。まず、自分の器の内容を確認する。
コロッケ。里芋。こんにゃく。
次に、窓の向こうの食卓を見る。
家族が食べているものを確認する。
コロッケ。里芋。こんにゃく。
一致の確認を完了した後、ようやくポチは器に鼻先を突っ込んだ。
ガフガフガフガフ。
「……ほんま、なんちゅう犬や」
窓越しに見ていた母親が呆れる。
「自分だけ違うもん食べさせられとらんか、いちいち確認しよる。恐れ入ったわ」
祖母も呆れていた。
「自分が飼われとるっていう認識がないんやで、きっと」
母親がそう言うと、家族が笑った。
彼女の分析については、私も概ね同意する。
この一家の母親は、理屈や推論を介さず、物事の本質や真相を瞬時に感覚で捉えることがある。霊感が強いのか、単に動物的な勘が鋭いのかは分からないが、恐るべき性質だと思う。
この性質を用いれば、不世出の占い師として大成出来ると思うのだが、その可能性は無いだろう。本人が自分の優れた特性を認識することはこの先も無いからだ。
「よしよし、いっぱい食べろよ、ポチ」
長女は食事中のポチの頭をグリグリと撫でると、そのまま家へ戻ろうとした。
まったく、恐れ入る。
食事中のポチの頭を撫でて無事でいられる生き物など、この地球上はおろか、太陽系を探しても皆無だろう。
正に、奇跡の少女だ。
その奇跡の少女は、最近夢中になっているアニメの主題歌を鼻歌で歌いながら、夕食を再開すべく家へ向かう。
丁度、その時だった。
地面が鳴り、激しい揺れが襲った。
「わっ!」
長女がよろめく。
家では、台所の食器棚が激しく音を立て、悲鳴が上がった。
「いかん、地震だ!」
「でかいよ!」
父親と長男が同時に立ち上がった。
庭にいる娘に顔を向け、父親が大声を出した。
「早く家に入れ!」
「う、うん!」
長女が玄関へ走ろうとする。
その服の裾を、ガブッと、ポチが噛んだ。
「えっ?」
長女の身体が止まった。
その直後だった。
ガシャン!
屋根から剥がれ落ちた瓦が、長女の目の前に落下した。
間一髪のタイミングだった。
もし、あと一歩進んでいれば、落下した瓦が長女の頭部を直撃していた可能性が高い。
「……ふえ?」
長女は呆然としている。
無理もない。
ポチは、すでに服の裾を離していた。
長女は、何事もなかったかのように、家に入り、食卓へ戻った。
いつの間にか、地震は収まっていた。
一家はテレビのチャンネルを次々と切り替え、地震の規模や被害状況を確認していた。
その傍らで、母親は襖を開け、半ば魔窟と化した押し入れの奥から、緊急避難用の持ち出し袋を引っ張り出している。袋にはうっすらとカビが生えているようだが、本人は特に気にしていない様子だった。
ガフ、ガフ、ガフ、ガフ。
ポチは、再び、食事を開始した。
私は、独自に周辺の観測を開始する。
地震か。
否。
これは通常の地殻変動ではない。
震源を解析。
山間部。
さらに、異常な波動を検知。
霊的エネルギー反応を確認。
エネルギー増大中。
私は即座に、ポチへ警告を送ることにした。
【ポチ】
反応はない。
食事中だからだ。予想の範囲内である。
こういうときは、一方的に情報だけを伝えることにしている。
【ここから北東にある山、通称『鬼が岳』で大地の鳴動を確認した。これは通常の地震ではない】
ガフ、ガフ、ガフ。
【大規模な霊的異常が発生している可能性が高い】
ガフ、ガフ。
【このまま拡大した場合、霊的な大災害となる恐れがある。被害予想範囲は、岡山県全域だ】
ガフ……ベロン、ペロン。
器の底に残った味噌汁の最後の一滴まで綺麗に舐め取り、すっかり空にしてから、ポチはようやく鷹揚に顔を上げた。
そして、鬼が岳の方角を見る。
数秒後、ポチは、「フンッ」と、いつものように鼻を鳴らすと、その場に横になった。
あまり興味がないらしい。まぁ、そうだろうな。
大地は、まだ微かに鳴動している。
鬼が岳では、何かが起きているに違いない。人間にとって、極めて危険な何かだ。
しかし、現時点では、ポチにとって優先順位の高い案件ではないのだろう。
少なくとも、ポチ自身はそう判断している。
鳴動する大地の上で、ポチは前脚の肉球をぺろぺろと舐めていた。
食後に体勢を整え、そのまま眠りへ移行するときの、いつもの行動である。
県一つが滅ぶ可能性より、食後の休息を優先する。
それが、ポチという存在だった。




