三 怨霊
廊下の突き当たりに、音楽室はあった。
ユウイチが乱暴に引き戸を開け放ち、一行は我先にと音楽室へ雪崩れ込んだ。
最後に部屋へ入った俺は、慌てて引き戸を閉める。ダイスケは近くにあった椅子を引きずり、戸へつっかえ棒をするように、それを押し当てた。
「馬鹿野郎! 幽霊相手に、そんなもんが役に立つか!!」
「だ、だって、何かしないと……俺たち、みんな、殺されてしまいますよ!?」
ダイスケは涙目になり、全身を小刻みに震わせていた。
ユウイチも壁に背中を押しつけ、震える手で懐中電灯を扉へ向けている。
女どもは部屋の隅に身を寄せ合い、声を殺して泣いていた。
どいつもこいつも、まるで自分がここで死ぬと決まったかのように怯え切っていやがる。
まったく情けねぇ連中だぜ。
俺はそう思いながらも、閉じた扉から目を離せなかった。
外からは、まだ子供たちの薄気味悪ぃ足音が聞こえてきやがる。
ぺた、ぺた、ぺた。
廊下を行ったり来たりしながら、時折、扉の前でぴたりと止まる。そのたびに女どもが息を呑み、再び足音が遠ざかると、掠れた息を吐き出した。
明らかに、俺たちを狙っているか、おちょくっていやがる。
音楽室の中には、ほこりを被った古い楽器が残されていた。
壁際には錆びた譜面台が並び、棚の中にはタンバリンやカスタネットが転がっている。
教室の奥には、大きなグランドピアノが闇の塊のように鎮座していた。
ナミは、そのピアノのそばに立っていた。
俺たちが必死になって逃げ込み、恐怖で息を乱しているというのに、あの女は、息一つ乱していない。
これは一体、どういうことだ?
ナミは、こちらを眺めながら、あの薄い笑みを浮かべている。
その顔を見た瞬間、俺の腹の底に溜まっていた苛立ちが、一気に噴き出してきた。
「おい、ナミ! いい加減にしろ。こいつらが怯えてんのが、そんなに面白ぇのか?」
ナミは答えない。俺の苛立ちは頂点に達した。
「黙っていないで、何とか言えや!」
怒鳴った瞬間、背後で女どもが悲鳴を上げ、ユースケが半泣きの大声を出した。
「新弥さん! 誰に話してるんですか!?」
俺は舌打ちして、ユースケに振り返った。
「まだ言ってんのか! そこのナミに決まっているだろうが!?」
「いませんよ! 誰も、いませんよ! ナミなんて女、どこにもいねぇよ!」
「うるせぇ! 目ぇ腐ってんじゃねぇのか!」
俺が全力で怒鳴り返すと、四人は揃って口を閉ざした。
その直後。
ポロンと、ピアノが鳴った。
俺は見た。誰も触れていないのに、ピアノの鍵盤が一つだけ沈んだのだ。
続けて、ポロン、ポロンと、別の鍵盤が沈んだ。
音は旋律にならなかった。調律がされていないからではない。
まるで、鍵盤の扱いを知らない子供が、一本ずつ指で確かめているようにピアノを弾いているようだったからだ。
女どもが悲鳴を上げ、ダイスケとユウイチも部屋の隅へ後ずさる。
やがてピアノの音が止まった。
代わりに、ナミが笑った。喉が避けるのではないかと思うほどの高く大きな笑い声。
今度は俺だけじゃない。部屋にいた全員が、その笑い声を耳にした。ダイスケたちが一斉に顔を強張らせ、悲鳴を上げたからだ。
照明のない音楽室の中央に、白い人影が浮かび上がった。
ナミだ。
「ひぃっ……」
女の一人が泡を吹いた。
ユウイチが震える手で懐中電灯を向ける。
光の中に現れたナミの体は、さっきまでとは違っていた。
学校の制服を着ている。
濡れたような黒い髪が顔に貼りつき、制服のあちこちは泥と血で汚れている。
片方の靴はなく、剥き出しの足は不自然な方向へ折れ曲がっていた。
顔も、半分ほど潰れていた。
頬骨が陥没し、片方の目が潰れている。
頭の側面からは、黒ずんだ血と髪がこびりついていた。
それでも、残された片目だけは、血走ったまま俺を睨んでいた。
「新弥さん……あ、あ、あれ、何なんすか、何なんすか!?」
「俺に聞くんじゃねぇよ!?」
ユウイチの問いに吐き捨てながら、俺はナミを睨んだ。
気味が悪ぃぜ。ありゃ間違いなく幽霊だ。
とにかく顔が酷ぇ。
映画で見たことがある。きっと怨霊ってやつだ。
不気味な女だが、正体が分かれば、さっきまでよりはマシだった。
少なくとも、誰もいないところから聞こえる笑い声より、目の前に姿を現してくれた方が話は早いってもんだ。
「何なんだ、お前は!?」
俺が訊くと、ナミの口がゆっくり開いた。
「……分からないの?」
声は同じだった。旅館で聞いた、あの妙に静かな声だ。
幽霊でも声質に変化は起きないらしい。
「知らねぇよ」
「……私の顔を見ても?」
「覚えがねぇな」
ナミの頭部に残された片目が、僅かに見開かれた。
「……私の名前を聞いても、何も思い出さなかった?」
「だから、知らねぇって言ってんだろ!」
苛立って答えると、ナミはしばらく何も言わなかった。
分かった。
俺は分かっちまったぜ。
こいつは勘違いしているんだ。そうに決まっている。
自分で言うのも何だが、俺は割と真っ当な不良だったと思う。
喧嘩には明け暮れていたが、相手はほとんど男だ。
確かに、学校でメソメソしていた軟弱な野郎どもをいじったことはある。
だが、イジメなんて陰湿なもんじゃねぇ。
家から金を持ってこさせたり、裸にひん剥いて写真を撮ってからかったり、その程度だ。
冗談の域を出ない遊びだ、遊び。
いじられていた連中も、そのときは引きつった顔をしていたが、一応は笑っていた。
今頃は、きっと学生時代の笑い話になっているはずだ。
女遊びはしていたが、多少というレベルだ。派手にやった覚えはねぇ。
遊んだ女の何人かは、知り合いの風俗スカウトに紹介して紹介料をもらったことなんかはあるが、あれだって職業を紹介してやったようなもんだ。違法ってわけでもねぇだろう。
身寄りがなくて、不細工で、どうせ男なんか寄ってこねぇような女には、俺の方で男を紹介してやったこともある。
放っておけば、一生まともに恋愛もできねぇような馬鹿な女どもだ。
だったら、最初のきっかけくらい作ってやるのが親切ってもんだろう。
最初は泣いたり嫌がったりする女もいたし、男の方も怖じ気づいて尻込みする奴がいた。
だから、そういうときは俺が一発ガツンと言ってやる。
「何ビビってんだ。こういうのは勢いだ」
そう言って背中を押してやるんだ。
口で分からねぇ奴には拳で教えることもあったが、あれは躾みたいなもんだ。
あいつらは自分じゃ何も決められねぇんだから、誰かが腹を括らせてやらなきゃ前へ進めねぇ。
男だって最初は緊張するし、女だって初めては怖いもんだ。何事も経験なんだよ。
男は童貞を卒業できるし、女は男を知ることができる。
俺は、その場を用意してやっただけだ。
考えてみりゃ、双方に得しかねぇ話じゃねぇか。
今になって思えば、ずいぶん人助けをしてきたもんだぜ。
ああ、そうだ。
こうして考えてみると、俺は案外、良いヤツじゃねぇか。
学生時代に少しやんちゃをしていたが、そうしたユニークな経験がバックボーンになって、社会に出て成功を収めることができた。
それが、俺という人間だ。
俺が一人納得したとき、俺たちの周囲で、カスタネットが勝手に鳴り始めた。
カッチャ、カッチャ、カッチャ、カッチャ。
続けて、棚に置かれていたタンバリンが跳ね、床へ落ちる。
太鼓の皮が内側から叩かれ、古い木琴の鍵盤が次々と震え始めた。
音楽室中の楽器が、まるで目を覚ましたように、一斉に鳴り始めた。
「やめてくれ!」
ダイスケが叫んだ。
だが、ナミはダイスケを見ようともしない。
潰れた顔を、ただ俺だけに向けていた。
「……高校一年の春……あなたは、私に話しかけた」
「あ?」
「……『施設で育ったんだってな。困ったことがあったら俺に言え』……あなたは、そう言って、私に笑ってくれた……」
何言ってんだ、この女?
そんなことを言った覚えはねぇぞ。やっぱり誰かと勘違いしていやがる。
まぁ、確かに高校時代は、女に何人も声を掛けた。
気の弱そうな奴、押せば言うことを聞きそうな奴、金を持っていそうな奴。
そういうのを見つけちゃ、とりあえず声を掛けてきたからな。
いちいち最初に何を言ったかなんて、覚えているわけがねぇ。無茶言うなって話だぜ。
「……あなたは、私からお金を取った……」
「いや、知らねぇよ」
「……私を呼び出して殴った。裸にされて写真も撮られたこともある……私の裸はカバみたいだって言われた……デブだブスだと……みんなの前で笑いものにされたわ……」
「ああそう、だから?」
「……泣いている私の顔は撮影されたわ……」
「だから、覚えがねぇんだよ」
ナミの顔が歪んだ。
怒ったのか、泣いたのかは分からない。
「……あの日……あなたは、あの部屋にいた……」
音楽室の空気が、一気に冷えた。
「……あなたが、みんなに命令した……私を犯せと……」
「人違いじゃねぇのか?」
俺は鼻で笑った。
こいつの言うようなことを、したことがなかったとは言わねぇ。
だが、あれは俺の誇るべき善行だ。モテねぇ男とモテねぇ女にきっかけを与え、人生を前へ進めてやったんだぜ。
むしろ褒められて然るべき話だ。
怨霊なんぞに祟られる筋合いはねぇぞ。
第一、本当に嫌だったなら、逃げればよかっただけじゃねぇか。
警察へ行くなり、学校を辞めるなり、やり方なんざいくらでもあったはずだ。
それをしなかったのは、こいつ自身の問題だろ?
自分の怠慢を、今さら俺のせいにするんじゃねぇよ。
まったく、理不尽な話だぜ、クソッタレ。
「……私の名前を聞いても?」
ナミが震える声で訊いた。
「……私のことを……思い出さなかったの?」
「思い出すも何も、俺は知らねぇって言ってんだろ!?」
「……私の顔を見ても?」
「見たことねぇよ」
「……私のこと……一度も……」
そこで言葉が途切れた。
俺は肩を竦める。
「仮にだ。百歩譲って、お前を泣かせたことがあったとしてもよ」
俺はナミを指差した。
「昔ちょっと不良やってたくらいで、人に一生恨まれるようなことなんかしてねぇよ。喧嘩だってほとんど男相手だったし、女と遊ぶにしたって、お互い納得ずくの話だ。多少強引だったことはあるかもしれねぇが、それくらい若い頃なら誰だってあるだろうが?」
俺は鼻で笑った。
「昔の女なんざ、いちいち覚えてられるか。何人いたと思ってんだ。こっちはお前のことなんか欠片も覚えてねぇんだよ。人違いかもしれねぇのに、一方的に恨まれる筋合いなんかねぇぞ」
少し腹が立ってきた。
「第一よ、覚えてねぇってだけで殺されるなんて、俺の方が理不尽じゃねぇか。そんな話があるもんかよ」
そこでふと、ユウイチたちへ目を向けると、ユウイチとダイスケは、二人とも唖然とした顔で俺を見つめていた。
ユウイチは口を半開きにしたまま固まり、ダイスケは血の気の引いた顔で視線を泳がせている。
女どもまで怯えたように息を呑み、誰一人として口を開こうとしない。
何だってんだ、そのツラは?
まるで、本当に俺が誰かの恨みを買って当然だとでも言いたげじゃねぇか。
恩知らずにも程がある。
俺が今まで何度こいつらの尻拭いをしてやったと思ってんだ。こんな場面でまで俺を悪者扱いしやがって。後で全員まとめてブチ殺してやる。
舎弟どもへ軽蔑するように唾を吐き捨て、俺はもう一度ナミへ向き直った。
「なぁ、落ち着いて考えてみろや」
できるだけ穏やかな声を作ってやる。
「俺は、お前に恨まれる覚えが何一つねぇ。これはどう考えても勘違いだぜ」
ナミは何も答えない。
「恥ずかしがる必要はねぇぞ。人違いなんて誰にでもある話だ。もし本当に恨んでる相手がいるんなら、一緒に探してやってもいいんだぜ?」
俺は営業用のスマイルを浮かべた。
「安心しろ。人探しに強い探偵も知っているぜ。不動産屋はな、面倒な相手との交渉には慣れてんだよ。お前の話をちゃんと聞いて、本当の相手を見つけてやるよ」
我ながら見事な切り返しだった。
相手が生きた人間だろうが幽霊だろうが、交渉の基本は同じだ。
感情的になった相手を落ち着かせ、話を整理し、こちらの土俵へ引き込むのだ。
営業で散々磨いてきた話術ってやつよ。
俺は心の中で、自分の機転に少し感心していた。
だが、どうしたことか。俺の言葉を聞いた瞬間、ナミの表情から何かが消えた。
怒りではない。憎しみでもない。
それまであいつをこの世へ繋ぎ止めていた、最後の一本の糸が、音もなく切れたように見えた。
成仏してくれるのかもしれねぇ。俺は密かに期待した。
「……覚えていない……」
ナミの声はひどく掠れていた。
「……私は……私は……一日も忘れたことなんて……なかったのに……死んでも……忘れることが出来なかったのに……」
ナミは恨みごとを呟いていたが、その言葉を聞いても、俺はどうしてもピンとこなかった。
知らねぇもんは知らねぇんだから、仕方ねぇじゃねぇか。それだけの話だ。
「……私は……あなたを……殺すために……ここまで来たのに……」
「だったら殺してみろよ!」
俺は舌打ちをしながら両手を広げた。
「さっきから音を鳴らして脅してるだけじゃねぇかよ!? ポルター何とかってやつか? 部屋を散らかすだけなら、ガキでもできるぞ!? オラ、どうした!? 殺ってみろや!?」
ナミの目が吊り上がる。
音楽室中の楽器が一斉に鳴り響いた。
ピアノの鍵盤が、独りでに叩かれ、太鼓が乱打され、シンバルが床を跳ね回った。
窓ガラスが震え、譜面台が次々と倒れた。
女たちは声の限りに絶叫している。
ユウイチとダイスケは頭を抱えて、その場へしゃがみ込んでいた。
ナミの髪が逆立ち、黒い影が教室中へ広がる。
細い指が、俺の首へ伸びてきた。
しかし、俺は避けなかった。
恨まれる理由がねぇ。逃げる道理がねぇ。
冷たい指先が首筋へ触れたが、それだけだった。
締めつける力がない。それどころか、爪を立てることすらできていない。
「……お願い……」
ナミが泣いていた。
「……お願いだから……苦しんでよ……お願いだから……死んでよ……」
嘆きながらも、ナミの手は、俺の首を絞められない。
俺の命に届かない。
思わず、俺は吹き出してしまった。
「おいおい、何だよ?」
笑いが止まらなかった。
「どうしようもねぇ愚図だな。死んだ後でさえ、何もできねぇのかよ!?」
ナミの動きが止まる。怒ったようだが、別に構いやしねぇと、俺は思った。
「マジ勘弁してくれよ。やっぱり恨む相手を間違えてんじゃねぇのか?」
その一言で、音楽室中の楽器が、ぴたりと鳴り止んだ。
ナミは俯いていた。潰れた顔から、黒い涙が一滴、床へ落ちた。汚ねぇな。
「……私は……」
その声には、もう憎しみすらなかった。
やったぜ、俺の勝ちだ。
「……何のために……」
黒い涙が、もう一滴。
「……何のために……死んだの……」
愚痴を漏らしてやがる。そんなこと、俺が知るかってんだよ。勝手に死に腐りやがれ。
「……生きていた頃も……私は何一つできなかった……死んだ後も同じだった……命を捨てて……怨霊になってまで追いかけた相手は……私の名前すら覚えていない……私の人生は……私の苦しみは……私の死は……あの男にとって……最初から存在しなかった……」
俺は察した。ナミの怨みは、その瞬間に尽きた。
やったぜ。
怨霊を言い負かした不動産屋は、後にも、先にも俺だけだろう。
俺が勝利を確信した瞬間だった。
ドクン。
校舎全体が、生き物みてぇに脈打った。
空気が変わった。子供たちの笑い声も、楽器の音も、すべてが嘘みてぇに消え失せた。
静かだった。いや、静か過ぎる。
次の瞬間、
ゴォン!
急に来やがった! 腹の底まで響くような轟音だ。チャイム音に似ていたが、とてつもなく禍々しい。
音楽室だけじゃねぇ。校舎全体が軋み、壁が唸り、窓ガラスが細かく震えていやがる。
床板の下からも、天井の梁からも、建物そのものが鳴き声を上げているようだった。
校舎の震えは、その外へと広がっていった。
とんでもねぇことになるぞ、これは!?
山だ。
鬼が岳の全体が、ゆっくりと目を覚まそうとしている。
木々がざわめき、大地が低く唸る。
その音は耳で聞くというより、身体の内側へ直接響いてくるようだった。
俺は思わず息を呑んだ。
理由なんか分からねぇ。
だが、喧嘩も修羅場も潜り抜けてきた俺の勘が、今まで聞いたこともないほど激しく警鐘を鳴らしていた。
腹の底から込み上げた震えは、あっという間に全身へ広がっていく。
(ヤベェぞ、これは……)
今までのチンドン屋みてぇな怪奇現象なんかとは、比べものにならねぇ。
何か、とんでもねぇものが目を覚まそうとしている。
真っ黒な嘆き、苦しみ……そして、恨み。
そんなものを何百年も押し固めたような、おぞましい気配だった。
何が起きているのかは分からねぇが、本能だけは叫んでいた。
(こいつは、この世に出しちゃいけねぇ!)
生まれて初めてだった。
俺は、いま、心の底から震えていた。




