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二 廃校

旅館を出たときには、もう夜もだいぶ更けていた。鬼が岳の空気は昼間よりずっと冷えていて、酔った身体にはちょうどよかった。


舗装の荒い山道を、俺たちは車二台に分かれて走ることになった。


運転は、旅館の若いスタッフを二人捕まえて、金を握らせてやらせることにした。


女どもに運転させるより、その方がよほど安心だったし、酔ってる俺たちがハンドルを握るより面倒もねぇ。


この程度の酒でどうにかなるほどヤワじゃねぇが、飲酒運転だ、何だと騒がれるのは鬱陶しくて仕方ねぇ。


法律なんて、見つからなきゃどうとでもなるのさ。


ただ、車を出す前、スタッフの片方が妙に渋い顔をした。


「……あの学校に行かれるんですか」


「ああ、そうだ。何か文句でもあんのか」


「文句という訳ではありませんが……やめた方がいいと思います。あそこは、夜に行くような場所じゃないですよ」


若いくせに、ジジイみたいな言い方をするので、思わず笑っちまった。


「幽霊でも出るってか?」


「そういう話もありますけど……もっと、何というか、気味の悪い感じがして……昔から、あの辺はよくないって言われています。廃校になってからは、地元の人間でも、夜には近づきません」


そこまで言われると、むしろ面白いってもんだ。


俺は財布から一万円札を抜いて、そいつの胸ポケットにねじ込んでやった。


「だったら、なおさら案内しろや。何か出りゃ、いい土産話になるぜ」


スタッフは露骨に嫌そうな顔をしたが、金を返してくることはなかった。


結局、若いスタッフ二人は、それぞれ別の車のハンドルを握ることになった。


俺は二台の車の内に、デカい方の車の後部座席に腰を下ろし、その隣にナミを座らせた。


こういうとき、どの車のどの席に座るかで、一団の中の序列は決まる。


俺の隣は空けておくべきだし、そこに座るのは、今夜の獲物であるナミ以外にありえねぇ。


ところが、乗り込んできたユウイチの間抜け野郎が、何のためらいもなく、その席に腰を下ろそうとしやがった。


「おい、どこ座ろうとしてんだ!?」


思わず低い声が出た。ユウイチは、きょとんとした顔で俺を見ていやがる。


「え? いや、ここ空いてるんで」


「空いてねぇだろろうが! 見りゃ分かんだろうが!?」


吐き捨てるように言うと、ユウイチは一瞬だけ妙な顔をした。


だが、すぐに「あ、すんません」と頭を掻き、もう一台の車の方へ向かっていった。


何だってんだ、クソが。


ナミは俺の隣で、何も言わずに薄く笑っていた。


車が走り出すと、車内では助手席に座った女が、まだキャアキャアと騒ぎだした。


「本当に出るんですかね? お化けなんて絶対イヤ。でも、ちょっと楽しみかも。ねえ、新弥さん。お化けが出たら、守ってくださいね」


甘ったるい声でそう言ってくる女に、俺は適当に笑って返した。どうせ本気で怖がっているわけじゃねぇ。


こういう連中は、怖い怖いと騒ぎながら、いざ何も起きなければつまらなそうな顔をしやがるし、少しでも気の利いたことをしてやれば、今度はきゃあきゃあ言いながら男にしなだれかかってくるもんだ。


要するに、怖がってる自分に酔いたいだけだ。


肝試しだの心霊スポットだのは、そのための舞台装置でしかねぇのよ。


一方のナミは、ずっと黙ったままだ。俺の隣で、窓の外を見たまま、まったく口を開こうとしねぇ。


旅館でもそうだったが、こいつはやたらと静かなヤツだ。


普通、こういう場に連れてこられる女は、もう少し愛想をふりまくか、逆に面倒くさそうにするかのどちらかだが、ナミはそのどちらでもない。不思議な女だぜ。


「おい、ナミ。さっきから静かすぎやしねぇか?」


そう声をかけた途端、車内の空気が妙にしんとした。


運転席の若いスタッフが、バックミラー越しにちらりと俺を見て、すぐに視線を前へ戻す。助手席の女も、さっきまでのはしゃいだ顔を引っ込めて、どこか落ち着かなさそうに肩をすくめていた。


「……そうですか?」


「ああ、そうだな。怖いなら、今のうちに俺にくっついとけや」


「……別に怖くありません」


それだけ言って、ナミはまた窓の外へ視線を戻した。


かわいげのない返事だった。そういうところが妙にそそる。


簡単に媚びてこない女の方が、落とし甲斐があるってもんよ。


今夜のうちにその澄ました顔を崩してやろうと思うと、自然と口元が緩んだ。


一方で、車内の空気はやたらと冷えていた。


誰も何も言いやしねぇ。


何だ、こいつら?


まあ、酔った勢いで心霊スポットに向かってるからな。気味が悪くなってきたのかもしれねぇ。気にすることでもねぇか。


やがて車は、山道の途中にある小さな広場のような場所で止まった。


舗装はそこで途切れていて、先は細い砂利道になっている。


ライトに照らされた先では、黒々とした木立が口を開けていた。


風が吹くたびに枝が揺れ、葉擦れの音がざわざわと鳴っていやがる。ゾクゾクするぜ。


「ここからちょっと歩く必要があります」


そう言ったのは、運転してきた旅館の若いスタッフだった。


こっちが何か言うより先に、そいつは面倒くさそうな顔で続けた。


「それでは、一時間後にまた迎えに来ますから、それまでには戻ってきてください」


それだけ言うと、俺たちの返事も待たず、さっさと車を切り返して山道を引き返していきやがった。


もう一台の車も、その後を追うように去っていった。


テールランプの赤い光が木々の向こうに消えると、辺りは急に静かになった。


「感じの悪い野郎共だぜ」


思わず舌打ちが出た。


こっちは金を払って使ってやってるのに、まるで厄介払いみたいな態度を取りやがって、ムカつくぜ。迎えに来たら、あの生意気な面を一発ぶん殴ってやろうと思った。


もっとも、今はそんなことより先にやることがある。


俺は目の前の闇に視線を向けた。


「それで、廃校ってのは、この道を真っ直ぐなのか?」


そう訊くと、ユウイチが懐中電灯のライトを掲げながら、砂利道の先を指さした。


「はい。この先を真っ直ぐです。十分も歩けば着くと思います」


「十分もかかるのかよ。くそっ、思ったよりダリィな」


文句を言いながらも、俺は先頭を切って歩き出した。


こういう場で、誰より先に足を踏み出すのは俺であるべきだ。


男は度胸を示してこそ格好がつく。


後ろで女どもが騒いでいる。そういう声を聞くと、妙に気分がよかった。


怯えている連中を後ろに従えて、山の闇の中を進む。


なかなか悪くねぇ構図だ。


砂利道は思った以上に荒れていやがる。


足元の石がごろごろと転がって、踏む度に、じゃりじゃりと乾いた音が鳴った。


両脇の木々は背が高く、枝葉が頭上を覆っているせいで、空はほとんど見えねぇ。


懐中電灯の明かりが届く先だけが、白く浮かび上がり、その向こうはとんでもなく深い闇だ。


風が吹くたび、木々がざわめいていやがる。


気の弱い女なら、これだけで泣き出しそうな雰囲気だった。


「新弥さん、ちょっと待ってくださいよぉ!」


「ヒールじゃ歩きにくいんですけど!」


「だったら、最初から履いてくんじゃねぇよ!」


振り返りもせずに俺が怒鳴ると、後ろで小さな笑いが起きた。


ユウイチだかダイスケだかが、女を気遣うようなことを言っていやがる。


相変わらず甘い連中だぜ。だからいつまで経っても、俺の後ろをついてくるしかできねぇんだろう。


ナミは俺のすぐ横を歩いていた。


やはり何も言わねぇ。


足元の悪さに文句を言うでもなく、怖がる素振りもない。


白っぽい顔だけが、懐中電灯のライトに照らされるたび、ぼんやりと浮かび上がる。


「おい、ナミ。お前、ほんとに怖くねぇのか」


「……別に」


「可愛くねぇ返事だな、オイ?」


「……そうですか」


それきりだった。


静かな女だとは思っていたが、ここまで反応が薄いと、さすがに少し不気味だぜ。


十分ほど歩くと、木々の向こうに黒い影が見えてきた。


最初は、大きな岩か何かかと思ったが、近づくにつれて、それが建物の形をしているのが分かった。


屋根の輪郭、窓の並び、壁の白さ。


懐中電灯の細い光が闇を撫でるたび、古びた木造校舎の姿が少しずつ浮かび上がった。


こいつが、廃校か。


なるほど、なかなかの迫力だぜ。


正門は半ば倒れかけ、校庭は膝丈まで伸びた雑草に埋もれている。


窓ガラスは割れているものと残っているものがまばらで、壁の白い塗装はところどころ剥がれ落ちていた。


完全に朽ち果てた廃墟という感じではない。


誰かがたまに草を刈っているのか、玄関までの道だけは妙に歩きやすく、校舎の前に立つ古びた石碑にも、最近拭いたような跡があった。


「うわ……ほんとに学校だ」


「何か、思ったよりちゃんとしてる……」


女たちの声が、さっきまでより一段小さくなる。


ふざけ半分だった空気が、ここへ来て少し変わり始めたのが分かった。


目の前の校舎は、ただ古いだけじゃねぇ。


人の気配が消えた場所特有の、妙な静けさと圧倒的な不気味さがあった。


だが、俺は校舎を見上げ、鼻で笑った。


「何だよ。もっとボロボロかと思ったのに、案外まともじゃねぇか」


「そうっすね。地元じゃ昔の学校ってことで、たまに老人会とかが見に来るらしいっすよ。あと、遠足のコースに入ったりしているそうです」


「そんな場所を心霊スポットにすんなよ」


そう言いながらも、耳の奥では、さっきから風とは別の音が鳴っている気がしていた。


キィン、と鳴っていやがる。


金属を爪で弾いたような、細く高い音だ。ほんの一瞬で消えるくせに、妙に耳に残りやがる。


耳障りだぜ、一体、こいつは何だ?


俺は眉をひそめて辺りを見回したが、もちろん何もねぇ。


闇と、校舎と、木々だけだ。


「おい、今、何か鳴らなかったか?」


「え? 何がです?」


「いや……何でもねぇ」


気のせいかと思って首を振った。


こんな山の中だ。虫の音か、木が軋む音か、その手のものだろう。


俺たちは砂利道を外れ、校舎へ続く細い通路を歩き始めた。


玄関までは百メートルもねぇはずなのに、その短い道のりが妙に長く感じやがる。


雑草は膝の高さまで伸び放題で、足元を擦るたびに、さらさらと乾いた音を立てた。


校庭の遊具はとっくに撤去されているらしく、広い空間には何もねぇ。


風に揺れる草と、夜露に濡れた土の匂いだけが漂っていた。


誰も口を開かねぇ。


さっきまであれほど騒いでいた女どもまで黙り込み、自分たちの足音だけが、やけに大きく耳へ響く。


じゃり。じゃり。じゃり。


気のせいか。俺たちの足音に混じって、ときどき、もう一つ別の足音が聞こえた気がした。


ガキが裸足で土を駆けるような、ぺた、ぺた、という軽い音だ。


振り返っても誰もいない。


女どももユウイチもダイスケも、俺の後ろを歩いている。


気のせいか?


そう思った瞬間、また、耳の奥であの音が鳴った。


キィン!


今度は、さっきより少しだけ長ぇ。マジでうぜぇ。シカトだ、シカト。


俺は思わず舌打ちし、そのまま玄関へ向かった。


玄関は鍵なんて掛かっていないも同然だった。


引き戸のガラスは片側が割れ、隙間から手を突っ込めば簡単に開く。


ダイスケが先頭に立って戸を引くと、がらり、と古びた音を立てて入口が開いた。


中から、埃と湿った木の匂いが流れてきた。


「うわ、本当に入るんですね?」


この期に及んで、女の一人が震えた声を出していやがる。


「ここまで来て帰るわけねぇだろうが」


俺はそう言って、一番に中へ足を踏み入れた。


下駄箱は半ば崩れ、古い掲示板には色褪せた紙が何枚か貼りついたままになっている。携帯のライトで照らすと、床に積もった埃が白く浮かび上がった。


靴底がその上を擦るたび、ざりざりと乾いた音がする。新調したばかりの靴が汚れることだけが心配だぜ。


女たちは途端に声を潜めた。


さっきまでの浮ついた調子が少し消え、お互い腕にしがみついていやがる。こういう空気になると、場はぐっと楽になる。怖がる女は扱いやすいからな。


しかし、ナミだけは違っていた。


あいつは誰かにしがみつくこともなく、静かに校舎の中を見回していやがる。


怖がるどころか、その口元には、ほんの僅かに笑みさえ浮かんでいるようにさえ見えた。


まるで、ここへ来るのをずっと待っていたみたいな顔していやがる。


本当に変な女だ。


少し引っかかったが、それもすぐにどうでもよくなった。怖がらねぇなら、それはそれでいい。あの澄ました顔を泣き顔に変える方が、よほど面白そうだった。


「ほら、何も出ねえじゃん」


わざと大きめの声で言うと、その声が廊下の奥まで反響していった。


木造校舎特有の、妙に乾いた響き方だ。


下駄箱が置かれた玄関スペースを抜けると、長い廊下がまっすぐ伸びていた。


右手には職員室や保健室らしき部屋、左手には教室が並んでいる。廊下の板は、ところどころ反り返り、踏むたびにみしりと嫌な軋み音を鳴らした。


天井からは、配線の切れた蛍光灯がだらりと垂れ下がっている。当然ながら、電気は来ていないようだ。


ユウイチが先頭に立ち、懐中電灯で廊下を照らしながら進む。その後ろで、ダイスケが思い出したように振り返った。


「そういや、この廃校、本命は二階の音楽室らしいっすよ」


「本命だぁ?」


「地元じゃ結構有名らしくて。夜になると勝手にピアノが鳴るとか、人のいない教室から歌声が聞こえるとか……怪奇現象がしょっちゅう起きてるって噂っす」


「やだぁ、絶対そこヤバいじゃん」


女の一人が腕をさすりながら顔をしかめると、ユウイチが笑いながら振り返った。


「大丈夫だって。新弥さんもいるんだからよ」


その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


女たちも苦笑いを浮かべ、「そうよね」と頷き合う。


俺は鼻で笑った。


ふふん、やっぱりこうなる。


俺が平然としているだけで、連中は勝手に落ち着きを取り戻す。


高校の頃からずっとそうだった。


誰か一人でも腹を括っていれば、人間ってのは案外簡単についてくる。


逆に、先頭に立つ奴が狼狽えれば、それだけで集団はあっという間に崩れちまう。


だからこそ、俺は人の上に立つのに向いている。


高校じゃ不良どもの頭。


今じゃ会社の営業トップだ。


二十代で役員の椅子まで手に入れ、次は社長を目指す。そのための布石だって、とっくに打ってある。


結局、上に立つ人間ってのは、生まれつき決まってるんだろう。


器の違う人間が、下の連中を引っ張っていく。それが世の中ってもんだ。


そんなことを考えながら、俺は誰よりも先に二階への階段へ足を向けた。


二階へ上がると、俺は何となく一行の最後尾にいるナミへ目をやった。


ナミは、まだ静かなままだった。


悲鳴を上げるどころか、怖がる素振りさえ見せない。


むしろ、廊下の奥をじっと見つめながら、口元には薄い笑みさえ浮かんでいるように見えた。


まるで、この場所へ帰ってきたことを喜んでいるみたいだった。


少し、ぞっとした。


あいつは俺たちの少し後ろを、一定の歩幅でついてくる。その落ち着き方が、さっきから妙に引っかかる。


こういう場で女が騒がないのは別に悪いことじゃねぇ。


だが、怖がらないにしても、少しくらい周りに合わせて愛想を見せるものじゃねぇのか。


あいつには、それがまるでなかった。


女らしくないという単純な話じゃないぜ。


何というか……人間らしくねぇんだ。


俺は歩調を緩め、一行の最後尾へ回ると、ナミへ声を掛けた。


「おい、ナミ。楽しいか?」


「……ええ……」


「全然そういう顔に見えねぇがな」


「……そうですか……」


「お前、さっきからそればっかだな。もう少し、愛想を振り撒いたらどうだ?」


からかうように笑ってやると、ナミはわずかに口元を上げた。


それだけだった。やはり妙に温度の低い女だ。


「……新弥さん?」


ユウイチの声に振り返ると、ダイスケも、女二人も、妙な顔でこっちを見ていた。


「どうしたんすか?」


「何がだよ?」


「いや……誰と話してるんです?」


意味の分からねぇことを言ってきやがる。


「何言ってんだ? ナミと話してんに決まってんだろうが」


四人は顔を見合わせている。


女の一人が青ざめた顔で俺の後ろを覗き込み、廊下を見回してから、小さく唾を飲み込んだ。


「新弥さん……その……冗談……ですよね?」


「あ?」


「……そこ、誰も……いませんよ?」


ふざけたこと言ってやがる。


俺はすぐ隣に立つナミを見た。


ナミは俺を見返すと、小さく首を傾げ、くすりと笑った。


その笑い方が、さっきよりも少しだけ不気味に見えた。


だが、俺はすぐに鼻で笑った。


「お前ら、恐怖で、頭でもおかしくなったか?」


俺の言葉に、ユウイチたちは無理に笑みを作った。


だが、その笑顔は明らかに引きつっている。


女どもに至っては、顔からすっかり血の気が引き、怯えたような目で俺を非難するような目で見つめてきやがる。ムカつく女どもだ。


廊下には、また静けさが戻っていた。


俺はユウイチたちの反応に苛立ち、何か悪態の一つでも吐いてやろうと口を開きかけた。


すると、正に、そのときだった。


廊下の奥に取り付けられたスピーカーから、


ザザッ!


小さな雑音が漏れ、全員がぴたりと足を止めた。


「……今の、何?」


女一人が、ひきつった声で言う。


「スピーカー?」


天井近くに取り付けられた古い校内放送用のスピーカーは、薄暗がりの中で黒い穴みたいに見えた。そこから、また、サザッと、砂を擦るような音が漏れた。


おかしい。


配線なんて、とっくに切れているはずだ。


そもそも、この廃校に電気なんか通っているはずがない。


それなのに、スピーカーの向こう側で、誰かが静かに息を潜め、呼吸しているような音だけが、じわり、

じわりと廊下へ滲み出ていた。


「おいおい、マジかよ」


ユウイチが笑いながらも、後ずさった。


女の一人が悲鳴を上げてダイスケの腕にしがみついた。


俺は少し面食らったが、すぐに鼻で笑った。


「どっかで電気が生きてんじゃねえのか? 廃校と言ってもよぉ、管理してる奴がいるはずだぜ! そいつが俺たちをからかっているに違いねぇ! 見つけ出して、ぶん殴ってやるぜ」


そう言ってやると、一同は顔を見合わせ、不安げな表情を浮かべながらも、少しだけ気を取り直したようだった。もっとも、恐怖が消えたわけじゃない。


女たちは俺のすぐ後ろへ身を寄せ、ダイスケとユウイチも周囲を何度も見回しながら、おっかなびっくり後についてくる。


俺たちは、そのまま廊下を進み、突き当たりの階段を上がり始めた。


階段を半分ほど上った、そのときだった。


キィン。


また、あの耳障りな高い音が校舎に響いた。


今度は、さっきよりもはっきり聞こえた気がした。


反射的に振り返るが、そこには誰もいない。


ダイスケもユウイチも何も聞こえなかったらしく、懐中電灯で前を照らしたまま、何事もないように階段を上がっていく。


(……俺だけ、聞こえてるのか?)


そんな嫌な考えが頭をよぎり、俺は無意識のうちに警戒心を強めながら、二人の後を追って階段を上った。


二階は一階よりも荒れていた。


窓ガラスはほとんど割れ、廊下には落ち葉や小枝が吹き込んでいる。


壁に貼られた習字や絵も、湿気で波打って原型を失っていた。


音楽室は廊下の一番奥だと、ダイスケが俺に告げた。


俺たちの靴音は、廊下にばらばらと響いていた。


ダイスケは歩くたびに床板を軋ませ、ユウイチは懐中電灯を振りながら先を急ぐ。


女どものブーツも、こつ、こつ、と乾いた音を刻み、俺自身の足音も鈍く廊下へ反響していた。


ふと、俺は奇妙なことに気が付いた。


一行の人数より、足音が多いのだ。


俺たち六人の足音に混じって、小さな足音が廊下のあちこちを走り回っている気がする。


いや、気のせいじゃねぇ。確かに聞こえる。


ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。


裸足の子供が、板張りの廊下を駆け抜けるような軽い音だった。


しかも、音は一つじゃない。


二人、三人、四人……いや、それどころじゃねぇ。


姿は見えねぇが、十人以上の子供が、俺たちの周りを走り回っているように聞こえた。


足音にも癖がある。


急に立ち止まる奴。


そこから勢いよく駆け出す奴。


早足の奴もいれば、足を引きずるように歩く奴もいる。


一番やべぇと思ったのは、笑いながら走っていく奴だった。


断じて、気のせいなんかじゃねぇぞ。


薄気味悪ぃ連中が、廊下中を跳ね回っていやがる。


「……何だ、今の?」


女どもが青ざめるのも無理はなかった。


俺も正直、背筋に冷たいものが走ったが、これが初めてって訳じゃねぇ。


不動産の仕事をしてりゃ、こういう説明のつかねぇことに出くわすことは、実は何度かある。


誰も住みたがらねぇ家、原因不明の物音がする部屋、内覧に来た客だけが気分を悪くする土地。


最初はくだらねぇ噂だと思っていたが、中には笑い飛ばせねぇものも確かにあった。


だからといって、幽霊だの呪いだのを信じる気はねぇ。


相手が人間だろうが、人間じゃなかろうが、気後れして腰を抜かした方が負けだ。


喧嘩でも営業でも、それは変わらねぇ。


俺は耳を澄ませながら、廊下の奥を睨みつけた。


何がいるのかは知らねぇが、出てくるなら出てこい。


そう思っていた。


俺が覚悟を決めた直後、くすくす、と、どこからともなく、子供の笑い声が聞こえてきた。


女どもが震えた声を漏らした。


どうやら、子供の笑い声は俺だけに聞こえている訳ではないらしい。


子供の笑い声も、一人分のものではない。何人もの子供が、小さく笑い合っている。


その声は教室の中から聞こえたかと思えば、次の瞬間には廊下の反対側へ移り、さらに天井裏へ逃げていく。校庭からも聞こえてくる気がした。


姿は全く見えない。


音だ。


とにかく音だけが、校舎の中を自由に歩き回っていた。


「し、新弥さん……」


ユウイチの声が震えている。何て情けねぇ声を出しやがる。根性無しが。


さっきまで音の前で強がっていたダイスケも、今は顔を引きつらせて懐中電灯を握り締めていた。


女どもを置き去りにして足早に進んでいきやがる。


女共は完全に腰が引け、一人は嗚咽を堪え、もう一人は涙を浮かべながら俺の背中へ縋りつき、必死についてきている。


正直、鬱陶しくて仕方がねぇ。


俺は舌打ちした。


幽霊なんて信じちゃいねぇ。


だが、この状況は明らかにおかしいぜ。


喧嘩に明け暮れ、いくつもの修羅場をくぐってきた俺には、嫌な空気ってのを、身体で察知することができる。


理由や理屈が分からなくても、「ここはまずい」と感じる瞬間がある。そういうときに慌てて動く奴は大抵潰れちまう。俺は、それを経験で嫌というほど知っていた。


本当なら、ここは、一度外へ出るのが正解なのかもしれねぇ。


だが、それはできねぇ。


ここで俺が逃げる姿を見せたら終わりだ。


舎弟共は、自分たちの腰抜けぶりを棚に上げ、一生、俺のことを「ビビり」と陰口を叩くだろう。そんな格好悪い真似だけは死んでもできねぇ。


これは意地であり、見栄でもある。


「固まってんじゃねぇ!」


俺は腹の底から怒鳴った。


「とりあえず二階の音楽室だ! 一本道だから迷わねぇ! 泣く暇があったら足を動かせ!」


その怒鳴り声に、ダイスケとユウイチ、それと女共が、半ば反射的に身体を動かした。


ユウイチは歯を食いしばりながら先頭を駆け、ダイスケも青ざめた顔で二人の女どもの腕を引っ張った。


女どもは泣きながら悲鳴を漏らし、それでも俺の声だけを頼りに必死についてくる。


俺はさりげなく一行の最後尾へ回り込み、廊下の奥を警戒しながら階段へ向かった。


危険な場所では、周囲を見渡せる位置を確保するのが基本だ。自分の身を守ることも、そのための判断にすぎない。


臆病なのではない。危機管理意識が高いだけだ。


ダイスケやユウイチには、一生理解できねぇだろうがな。


俺たちが全力疾走している間も、子供たちの笑い声は止まらない。


それどころか、だんだんと近づいてきやがる。


楽しそうな子供の笑い声が、階段の上からも、教室の中からも、床下からも聞こえてきやがる。マジで勘弁して欲しいぜ。


まるで、この校舎そのものが、俺たちを『歓迎』してくれているみたいだったが、とても応じる気にはなれなかった。


その中で、ナミだけは違っていた。


あいつだけは恐怖の欠片も見せず、まるで待ち望んでいた場所へ帰ってきたみたいに、静かに校舎を見回しながら、俺たちと並走していやがる。


軽い足取りだ。まるで足がねぇみたいだ。


そして、ナミはくすりと笑った。


その小さな笑みが、俺にはさっきまで校舎中に響いていた子供たちの笑い声よりも、よほど不気味に感じられた。


「……おい、状況を分かってんのか!? 何笑ってやがんだ!」


思わず吐き捨てたが、ナミは何も答えなかった。


ただ、その笑みだけが、さっきより少しだけ深くなったように見えた。

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