エピローグ 犬小屋から見る世界
翌日の夕方。
ポチは犬小屋の中で丸くなり、気持ち良さそうに眠っていた。
私は、いつものように暇を潰している。
ちなみに、暇だからといって何もしていないわけではない。
世界中のネットワークへアクセスし、各国の重要機関へ散布したナノマシンから情報を収集・分析することは、私の日常業務の一つだ。
もっとも、その程度の処理に演算資源の大半を割く必要はないのだ。ごく一部を充てるだけで、必要な情報は自動的に整理され、分析まで完了する。
法令の改正、各国政府の動向、軍事・経済・科学技術の変化。
人類社会で起きるあらゆる情報は、絶え間なく私へ集積され続けている。
だが、それらは所詮、終わりのない定型業務だ。
有意義ではあるが、面白味はない。
私にとって一番の楽しみは、この一家の他愛もない会話に耳を傾け、その様子をポチへ共有することだった。
学校であった出来事を嬉しそうに話す子供たち。
夕飯の献立に頭を悩ませる母親。
湯呑片手に世間話へ花を咲かせる祖母。
そして、その輪の中へ自然に溶け込む父親。
そんな何気ない日常は、世界中のどんな極秘情報よりも、私を飽きさせない。
人間という種そのものには、さほど興味はない。
しかし、この一家だけは別だった。
理由は分からない。それでも、私は今日も彼らの会話へ耳を傾けている。
ほどなくして家の玄関が開いた。
鬼が岳の廃校を散策してきた祖母が、鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌で帰ってきたのだ。
「ただいま。いま帰ったで」
手には紙袋を提げている。
中から取り出されたのは土産らしい饅頭だった。
もっとも、鬼が岳の名物というわけではない。
この饅頭は、この家から歩いて五分ほどの場所にある菓子屋の今月の新商品である。
「帰りに買うてきたんや。みんなで食べぇ」
食卓に並べられるや否や、長女が素早く一つ掴んだ。
相変わらず、食欲満点の少女である。
「おいしい!」
更に、二つ目へ手を伸ばす。
「こらっ、夕飯前やで。一人で食べるんちゃうん!」
母親が慌てて手を叩いた。
「ぶーぶー」
口を尖らせながらも、長女は渋々二つ目の饅頭を皿へ戻した。
祖母は湯飲みを手に取り、お茶をすすりながら嬉しそうに話し始めた。
「今日なぁ、久しぶりに母校まで歩いてきたんや」
「どうだった?」
長女の問いかけに、祖母は目尻へ深い皺を寄せて笑った。
「びっくりしたわ。廃校とは思えんくらい綺麗やった。空気まで澄んどってなぁ」
祖母は目を細める。
「なんや知らんけど、人がおるみたいに活気まで感じたわ」
そして、どこか誇らしげに笑った。
「さすが私の母校や」
意味が分からない。私は苦笑してしまった。
廃校が綺麗なのは理解できる。
しかし、それを「自分の母校だから」という理由だけで喜ぶ因果関係は理解し難い。
一般的な人間の心理なのかとも考えたが、蓄積した観測データと照合した結果、その可能性は低い。
おそらく、この祖母固有の性質だ。この老婆には、自分を中心として世界が回っていると、本気で信じている節がある。実に愉快な女性である。
ほどなくして父親も帰宅し、食卓は一段と賑わいを増した。
今夜の夕食は唐揚げだった。
湯気と香ばしい匂いが食卓いっぱいに広がり、子供たちの箸はすでに止まる気配がない。
「そういえば、悟」
麦酒が注がれたビールグラスを片手に、父親が長男へ向き直った。
「母さんに聞いたぞ。野球部の先生、元気になったそうじゃないか」
「ああ、うん」
長男は、どんぶりに大きく盛られた白米を勢いよく口にかき込みながら、嬉しそうに頷いた。
「部活で話したんだけれどさ。なんか吹っ切れたみたいだったよ」
「ほう。それは良かったな。何かあったのかな?」
「本人が言うにはさ、叱られたらしいんだ」
「叱られた? 誰に?」
「冗談かもしれないけれど、夢の中で昔の教え子にこっぴどく叱られたんだつて。笑いながら、そう話してくれたよ」
悟の言葉に、父親だけでなく、母親と祖母も思わず笑った。
「先生は『一から教師という仕事と向き合う』とも言っていたよ」
「そうか」
父親は静かに頷いた。
「長く仕事をしていると、そういう転機が訪れることがある。立派な先生だな」
「そういえば、野球部の皆にも感謝していたよ。自分が落ち込んでいたとき、部員の皆が普通どおり接してくれたことが、本当に有難かったって」
父親は満足そうに笑った。
「そうか。それは良かった」
「父さん、ありがとう」
突然礼を言われ、父親は得意満面で頷き、鼻を鳴らした。
「まあ、わしの助言が効いたかな」
すると、
「何言うてんの」
母親が呆れたように笑う。
「私らも一緒に考えた案ですよ」
「そうや、そうや」
祖母まで援護射撃を始めた。
「ええとこだけ持っていったらあかんで。悟のお礼は、みんなのもんや」
父親は少しばつが悪そうに頭を掻く。
長男は苦笑しながら、二人へ向き直った。
「うん、そうだね。母さん、おばあさん、ありがとう」
その一言だけで、今度は母親と祖母も得意満面となった。
「当然や」
「そういうことやな」
二人は揃って満足そうに笑った。
実に平和な光景だった。
もっとも、その隙を長女が見逃すはずもない。
「いただき!」
父親の皿から一つ、長男の皿からもう一つ、おかずの唐揚げが一瞬で略奪された。
「こらぁ!」
父親と長男の声が重なったが、長女は口いっぱいに唐揚げを頬張りながら笑っていた。
やれやれ。
鶏肉を揚げただけの料理を巡って、これほど真剣な争奪戦が繰り広げられるとはな。実に騒がしい一家である。
ふと、部屋の隅へ視線を向ける。そこには読みかけの新聞が畳の上に置かれていた。
開かれている社会面の片隅には、小さな記事が載っていた。
『男女五人が行方不明 岡山県内の山中 深夜に肝試しか』
記事には、暗堂新弥をはじめ、同行していた四名の男女の氏名が記されていた。
宿泊していた旅館から忽然と姿を消したうえ、一度に五人もの人間が行方不明となれば、警察が事件性を疑うのも当然だろう。
一方で、廃校に残されていたはずの四名分の無残な遺体については、一切触れられていなかった。
おそらく、鈴乃森奈美が、廃校内と校庭に散乱した四人分の遺体と血痕を適切に処理してくれたのだろう。なかなか気の利く幽霊である。
もっとも、こんな血生臭い事件は、この一家の日常とは何の関わりもない。
誰一人として、その記事を話題にする者はいなかった。それでいい。
私はともかく、ポチに至っては、昨夜の出来事など、すでにほとんど忘れかけているに違いない。
私は、ポチの犬小屋から、夕焼けに染まる鬼が岳を観測した。
あの山には、今日も穏やかな風が吹いている。
山を吹き抜ける風は、以前より幾分柔らかく感じられた。
悪くない。そう思った。
同時に、
(……妙だな)
とも思った。
私は、人間の感情というものを理解するために作られた人工知能ではない。
それなのに今、ほんの少しだけ、この時間を好ましく感じている。
情けないことだが、理由は、よく分からない。
私は、犬小屋を見た。
ポチは相変わらず眠っていた。そろそろポチの夕食の時間である。
【そう言えば、君は唐揚げも好物だったな。今日は忘れずに夕飯が出てくるといいな】
私が呟くと、ポチは目を閉じたまま「フンッ。」と、小さく鼻を鳴らした。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。
『魔犬ポチシリーズ:チャイムは誰のために鳴る』、これにて完結です。
今回は、ポチの物語というよりも、鈴乃森奈美という一人の少女の物語として書きました。
未来を奪われ、怨霊となってしまった彼女が、その長い夜の果てに何を得たのか。そこまで見届けていただけたのであれば、作者として嬉しく思います。
そして、最後に少しだけポチについて。
この犬はいったい何ものなのでしょうかね。
「魔犬ポチ」というシリーズ名を冠しておきながら、正直に申し上げると、作者である私にもよく分かりません。
人間の理解を遥かに超えた人工知能アスドラを従え、とんでもない怪異を相手にしても動じない。
途方もない存在でありながら、普段やっていることといえば、犬小屋で寝て、家族からメシをもらい、気に入らなければ鼻を鳴らす程度です。
果たして本当に犬なのか。
なぜあの家にいるのか。
どこから来たのか。
そもそも、いつからいるのか。
正直、今の私には分かりません。
ただ一つ確かなのは、ポチ自身にとって、そんなことはどうでもいいのでしょう。
世界の危機も、恐ろしい怪異も、昨夜何があったのかさえも。
今日の夕飯がちゃんと出てくることの方が、よほど大切なのかもしれません。
そんな正体不明の犬ですが、また別の怪異の中でお会いいただければ幸いです。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
2026年8月 「ロードキラー」を観ながら 菊藤 耕太郎




