はい、初めの出会いは王女でした
どれほどの時間が経っただろうか。いや、数秒だけだったかもしれない。足元の感覚がふっと消え、体が宙へ放り出される。
「いきなり消えるのかよ! うわああああああっ!」
風が全身を叩く。
胃が浮くような浮遊感に襲われ、慌てて手足をばたつかせるが、もちろん飛べるはずもない。見下ろせば、どこまでも続く緑の草原が猛烈な勢いで迫ってきていた。
「異世界ってもっとこう……光に包まれて……ようこそ勇者様とか歓迎されるものじゃないのかよぉぉ!」
誰に文句でもなく叫ぶ。女神への苦情をぶつける相手は当たり前のようにいない。
次の瞬間。
「ぐえっ!」
背中から草むらへ突っ込み、その勢いのまま何度も転がる。
全身に草と土がまとわりつき、ようやく止まった頃には息が上がっていた。
「いてて……。そこまで高所から落ちたってわけでもなかったのか」
どうやら骨は折れてはいないらしい。痛みはあるが動ける。ゆっくりと立ち上がり、服についた草を払い落とした。
そこでようやく周囲を見回す。視界いっぱいに広がる青空。どこまでも続く草原。頬を撫でる風は少しひんやりとしていて、草木の匂いが鼻をくすぐる。
遠くには巨大な城壁都市。さらにその奥には、白く輝く城が小さく見えていた。
「おぉ……」
思わず声が漏れる。ゲームでも映画でもない。目の前に広がっているのは、本物の異世界だ。
さっきまで女神と話していたことが夢ではなかったのだと、ようやく実感が湧いてきた。
「本当に異世界だ……」
少しだけ胸が高鳴る。怖さよりも期待のほうが大きい。この世界では何が待っているのだろう。
勇者。魔王。冒険者。
そんなファンタジーの世界が、本当に始まるのかもしれない。
ーーそう思った、その時だった。
ドォンッ!
腹の底まで響くような轟音が、静かな草原を揺らした。
「ん?」
反射的に音のした方へ目を向ける。街道を一台の馬車が走っているのが見えたが、ただの馬車じゃない。車体には金細工が施され、四頭立ての馬が力強く駆けている。まるで絵本や歴史物語に出てくるような豪華さだ。
その周囲を十人ほどの騎士達が馬で護衛しており、銀色の鎧が陽光を反射し、槍や剣が一斉に揺れていた。
「王族か……それても貴族か?」
異世界に来て数分。いきなり身分の高そうな集団を見かけるとは思わなかった。これもスキルが関係しているのだろうか。
だが、その疑問が解ける前に。森の木々が大きく揺れる。地面が揺れ始めた。
「……なんだ?」
黒い巨体が木々をなぎ倒しながら飛び出してくる。
「イノシシ!?」
いや、違う。俺の知っているイノシシは、せいぜい大人一人より少し大きい程度だ。
目の前の化物は馬車と変わらないほど巨大で、鋼鉄のような牙を振りかざしながら一直線に突進していた。
あれは野生動物じゃない。紛れもないーー魔物だった。
馬車ほどもある巨体。
全身を黒い剛毛が覆い、その一本一本が針のように逆立っている。鋼鉄のような牙は陽光を受けて鈍く光り、踏みしめる度に地面が小さく震えた。
一直線に馬車へ向かって突進していく。
「敵襲!」
騎士の怒号が響く。護衛達は一斉に剣を抜き、馬車の前へ飛び出した。
「姫様をお守りしろ!」
誰一人として逃げない。全員が盾となる覚悟で魔物へと立ち向かう。
しかし、轟音が草原へ響き渡った瞬間、先頭の騎士が盾ごと吹き飛ばされてしまった。鎧がひしゃげ、十メートル近く宙を舞う。
二人目。三人目。まるで紙人形でも弾き飛ばすかのように、巨大な体は勢いを全く失わない。
「強すぎるだろ……!」
騎士達も決して弱くはない。それでも一撃。たった一撃で戦線が崩壊していく。
馬車が横転し、御者が投げ飛ばされる。四頭の馬は恐怖に耐えきれず、手綱を引きちぎって四方へ逃げていった。
騎士団は何度も立ち上がる。剣を振るう。槍を突き出す。だが、その刃は厚い皮膚に弾かれ、誰一人として魔物を止めることができない。
「おいおい……」
勝てる相手じゃない。頭ではそう理解していた。逃げろ。普通ならそうする。
異世界初日。武器は木の棒一本。レベルどころか、ステータスすらわからない。そんな人間が飛び込んで勝てるほど、現実は甘くない。なのに。
「くそ! 覚えてろよ、あの自称女神……!」
気づけば足が動いていた。考えるより先に、体が走り出していた。
「そこの人! 危険だ!」
騎士が必死に叫ぶ。だが、その声はもう耳に入らない。魔物は横転した馬車へ一直線に向かっている。
ギシ……と馬車の扉が開き、中から一人の少女が這い出てきた。
腰まで届く金色の髪。白を基調とした気品あるドレス。陽光を受けて輝く小さなティアラ。誰が見ても、一目で身分の高い人物だとわかる。
だが、その表情は恐怖に染まっていた。足を挫いたのか、立ち上がろうとしても膝から崩れ落ちてしまう。魔物との距離は、もう数メートルしかない。
「まずい!」
俺は木の棒を強く握りしめる。手の平には汗が滲んでいた。こんな棒一本で何ができる。そんなことは自分が一番よくわかっている。それでもだ。どんなに俺が腐った人間であったとしても、危険な目に遭おうとしている人を放っておくほどできてはいない。
「うおおおおお!」
叫びながら飛び出した。もちろん木の棒では何も起きない。
「……あ」
魔物がゆっくりとこちらを振り向く。巨大な瞳と目が合った。
終わった。本気でそう思った、その瞬間だった。胸の奥がざわつく。嫌というほど覚えのある感覚。
(不幸共有……?)
ズゴォォォン!! と突然、大地を揺るがす轟音が響いた。
「え? は!?」
近くの崖が音を立てて崩れ落ち、巨大な岩が坂を転がり始めた。それは一直線に魔物へ向かっていき、真正面から激突した。
巨体が大きく吹き飛ぶ。さらに勢い余った魔物の牙が大木へ深々と突き刺さった。
「ブギィィィィ!」
魔物は暴れる。暴れまくる。それでも抜けない。
巨体が暴れる度に木は軋むが、牙はびくりともしなかった。
「えぇ……」
俺だけじゃない。騎士達も口を開けたまま固まっている。
「魔物が……動けない?」
「偶然……なのか?」
騎士達は当然の疑問を口にする。
俺にもわからない。だが、これだけはわかる。俺のスキルだ。助かった代わりに、今度は俺へ不幸が返ってくる。
そう思った直後、バキッと足元から音が鳴った。
「嫌な音だな、くそ!」
足元の地面が音を立てて崩れた。穴へ真っ逆さまに落ちてしまう。顔から土を被り、全身泥だらけになってしまった。
「いってぇな!」
俺が情けない悲鳴を上げる一方で、騎士達は何故か感動していた。
「自ら崖を崩し、魔物の動きを止めた……?」
「しかも最後は敵の注意を自分へ向け、身を挺して姫様を救ったのか……!」
「まさか、全て計算ずくだと……?」
「英雄だ……!」
「違う違う違う!! 全部事故だから!」
俺は穴の中から全力で否定する。だが、その声は誰にも届かない。
騎士達は尊敬の眼差しを向けたまま、小さく頷き合っていた。その時だった。少女がゆっくりと立ち上がる。
乱れた髪を整え、ドレスの裾についた土を静かに払う。ついさっきまで命を狙われていたとは思えないほど、一つ一つの仕草が気品に満ちていた。
透き通るような青い瞳が、真っ直ぐ俺を見つめてくる。
「助けていただき、ありがとうございました」
少女は優雅にスカートを摘み、深く一礼した。いや、それよりも早く俺を引き上げてほしい……。
「わたしはフィリア・エルグランツ。この国の第一王女です」
「……」
俺の思考が止まる。口だけがゆっくりと動いた。
「え?」
「えっと……第一王女です」
「ええぇぇぇぇっ!?」
異世界一日目。最初に助けた相手はーーまさかの王女だった。
◇
草原を、穏やかな風が吹き抜ける。
先程までの戦闘が嘘のように、辺りには静けさが戻りつつあった。空には、まだ薄く土煙が漂っている。風がそれを撫でる度に焦げた草の匂いと、湿った土の匂いが入り混じり、鼻の奥に残る。
さっきまで地鳴りを響かせていた魔物は、大木へ牙を深々と突き刺したまま、情けない声を漏らしていた。
「ブギィ……」
前足で地面を掻き、首を左右に振る。振る度に鱗の擦れる乾いた音が響いた。だが、牙はびくともしない。
巨体が暴れる度に木々が揺れ、葉が雨のように降り注ぐ。ひらひらと舞い落ちる葉の一枚が俺のすぐ横の地面に音もなく着地した。それでも牙は木の幹に食い込んだまま、抜ける気配は全くなかった。
俺は穴の底からその光景を見上げ、小さく呟く。
全身が土まみれで、擦り傷がじんじんと痛む。腕を動かす度に皮膚が引き擦れるような感覚が走った。それでも目の前の間抜けな姿を見ていると、何故か緊張が少しずつ緩んでいく。なんでだろう。もがき苦しむあの姿は社会人の姿を見ているみたいで悲しくなってくる。
「あいつも大変なんだな……」
「敵に同情しないでください!」
騎士の一人が即座にツッコんだ。
鎧は泥だらけで、兜も半分ずれている。それでも真面目な顔は崩さない。その生真面目さが、逆にこちらの緊張を解いてくれるようだった。どこが場違いな安堵感あが胸に広がる。
「いや、だってちょっと可哀想じゃーー」
「可哀想なのは我々です!」
「……ですよね」
確かに、ついさっきまで命懸けで戦っていたのはこの人達だ。俺なんて走って穴に落ちただけである。あの絶叫にも似た悲鳴をあげながら地面に叩きつけられた瞬間のことを思い出し、腰の辺りがまだ鈍く痛んでいることに気づく。自分で言って情けない。
騎士達は剣を構えたまま周囲を警戒しつつ、横転した馬車へ駆け寄っていく。革の匂いと土煙が混じり合う中、彼らの足音だけが規則正しく響いていた。
「姫様!」
「怪我人を確認しろ!」
次々と飛び交う指示。訓練された動きだ。混乱しているように見えても、動きに無駄がない。誰かが馬車の扉を開け、誰かが周囲の茂みへ視線を走らせ、誰かが仲間の様子を確認する。役割分担が、言葉を交わさずとも自然と機能していて、さすが王族を護衛する騎士団というべきか。
「ご安心ください」
フィリアは小さく微笑み、ドレスに残っていた土を丁寧に払った。命を狙われた直後とは思えないほどの落ち着きがあった。
「少し転んでしまっただけです」
その声は驚くほど落ち着いている。
夕日を背にしたその姿は、傷一つ負っていないかのように涼やかだった。風に揺れる金の髪の隙間から夕日の光が漏れ、彼女の輪郭をぼんやりと縁取っていた。
……いや。普通もっと取り乱さない? 俺だったら泣きながら土下座してるぞ。
王女ってみんなこんなに肝が据わっているのか。俺は内心で首を傾けながら、彼女の落ち着きぶりを眺めていた。
目の前で起きたことが、まるで日常の些細な出来事であるかのように。
そんなことを考えていると、一人の騎士がこちらへ歩いてきた。
白髪混じりの髪。口ひげを蓄え、年季の入った鎧を身に着けている。その鎧の表面には、無数の擦り傷や凹みが刻まれていた。長年の実践を潜り抜けてきた者だけが持つ重みが滲み出ているようだった。
一目でわかる。この人が隊長だ。
男は俺の前まで来ると、胸へ拳を当てて一礼した。金属同士がぶつかる硬質な音が、静まり返った草原に小さく響く。
「お名前を、お聞かせ願えますか」
「神崎悠斗です」
「カンザキ……?」
隊長は眉をひそめる。頭の中で貴族名鑑でもめくっているのだろうか、視線が一瞬だけ宙を彷徨った。眉間に刻まれた皺が更に深くなる。
「聞いたことのない家名ですな」
「遠くから来たもので」
こちらの世界に転生しました、とはさすがに言えない。言ったところで信じてもらえないだろう。そもそも自分でもまだ実感が追いついていないのだ。つい数時間前まで自分が居た場所の記憶が、まだ生々しく脳裏に焼き付いている。
隊長は小さく頷くと、真剣な眼差しを向けてきた。夕日の逆光が、その表情をより一層厳めしく見せていた。
「それにしてもお見事でした」
「いや本当に偶然でーー」
「崖の崩落まで計算に入れた戦術」
「入れてませんし、戦術もくそもないです」
「自ら囮になる勇気」
「穴に落ちただけです」
「魔物の牙を木へ固定する誘導」
「向こうが勝手に刺さっただけ!」
否定する度に騎士達の表情が更に感心したものへ変わっていく。困惑と焦りで、額に嫌な汗が滲むのが自分でもわかった。
「なるほど……。なんという謙虚なお方だ」
「真の英雄とは、功績を誇らないものなのですな」
「だから違うってば!」
俺の叫びは誰にも届かない。
この人達、俺の言葉を都合よく変換するスキルでも持っているんじゃないか? そう本気で疑いたくなるほど、会話が一方通行だった。声を張り上げれば張り上げるほど、逆にその謙虚さを証明する材料にされていくような、奇妙な徒労感だけが積み重なっていく。
その様子を見ていたフィリアが、思わず口元を押さえて笑った。
「ふふっ……」
鈴の音のような笑い声だった。
だが、その一言だけで騎士達の空気が変わる。先程までの興奮した様子が、一瞬で静まりが返った。まるで、その笑い声一つに場を制する力が宿っているかのようだ。
「皆さん」
穏やかな呼びかけにも関わらず、騎士達は一斉に背筋を伸ばす。号令をかけられたかのような、見事な統率だった。
「この方がお困りのようでしたら、お礼をしなければなりません」
「もちろんでございます、姫様!」
隊長は力強く頷き、再び俺へ向き直る。その目には先程とは違う、確かな敬意のようなものが宿っていた。
「カンザキ殿。どうか王城までお越しください」
「え?」
予想外の申し出に間の抜けた声が漏れる。頭の中が一瞬真っ白になった。
「姫様の命の恩人を、このまま帰すわけには参りません」
「そんな大げさな……」
「大げさではありません」
隊長は一歩も引かない。その声には、有無を言わせない重みがあった。
「あなたは王国第一王女を救われました」
……いや、本当に偶然なんだけど。
言葉を重ねるほど、状況が自分の意図しない方向へ転がっている気がする。俺が返答に困っていると、フィリアがこちらへ歩み寄ってきた。
一歩ごとに、その髪がふわりと揺れる。ドレスの裾が、草を撫でるように静かに流れていく。
「カンザキ様」
「はい」
「あなた……お腹は空いていませんか?」
「……」
その瞬間、空気を読まない俺の腹が盛大な音を立てた。辺りにしんと静寂が満ちる。風の音すら一瞬止まったように感じられた。
騎士達の視線が一斉に集まる。
恥ずかしい。今すぐ穴に戻りたい。さっきまで入っていた穴が、今は無性に恋しかった。あの暗く狭い穴の底なら、少なくとも誰の視線も浴びずに済んだのに。
顔が一気に熱くなるのを感じながら、俺はどこにも逃げ場のない視線の中で立ち尽くすしかなかった。耳の先まで、じわりと熱が広がっていく。
フィリアは口元へ手を添え、小さく笑った。その笑い方には、からかうような色は一切なく、ただ純粋な親しみだけが滲んでいた。
「ふふっ。では決まりですね」
「何が」
「まずは、美味しいお食事をご用意いたします」
その笑顔に打算はない。純粋な善意だけが込められていた。
夕暮れの草原に、王女の柔らかな声が溶けていく。遠くで鳥の鳴き声が一つ、二つと響いた。空の色は深い藍色へと移り変わり始めている。
この王女との出会いが、俺の平穏とは無縁の異世界生活の始まりになるのである。




