残された手がかり
「確かに北部訛りだったのか?」
「……ああ。俺の耳がいかれてたんじゃないなら、あれは絶対アルトネアの訛りだ」
険しい表情で返答したナスカを見て、パラディオとトロギルが顔を見合わせる。三人の前で難しい顔をしていたヴァルカモニカが、それまで閉じていた重い口をようやく開いた。
「やはりアルトネアの人間か。それも“ゼルカロ”とは……」
パラディオは、ヴァルカモニカが零したゼルカロという言葉に改めて戦慄した。
──それもそのはず。
リンド大陸の魔術師において、ゼルカロという言葉は、それ自体が伝説とも言える代物なのだ。
「まさか実在したなんて……」
パラディオは小さく呟き、この事実を知ることになった今朝のある出来事を思い返した。
「パラディオ様、少しご報告したいことが」
兵士の一人が虫飼いのテントを訪れたのは、まだ空が白み始めて間もない頃だった。
「何かあったのかい?」
報告に来た兵士の顔に焦りの色はなく、ただ純粋に不思議そうな表情が浮かんでいたので、パラディオも特に慌てることなく返した。パラディオが日課である早朝の虫の餌やりの最中だったため(彼は普段から数種類の虫を壺に入れて持ち運びしている。いつも行く先々に都合良く任務に適合した種がいるとは限らないので、保険の意味も兼ねて特に利便性の高い数種を携帯しているのだ)、壺から溢れんばかりに蠢く虫を見た兵士は顔色を悪くしたが、その一般的な反応を見慣れたパラディオはむしろ兵士の態度を愉快にさえ思った。
「済まない、虫は嫌いかな。とりあえず、僕が外に出よう」
「いえ、そういうわけではありませんが……。その、申し訳ありません」
兵士は気まずそうに目を伏せたが、パラディオが垂れ幕をくぐり抜けてくると明らかに安堵していた。
兵士は安心ついでに伝えにきたことを忘れていたのか、ハッとしたようにパラディオに告げた。
「そうだ、パラディオ様。ご報告したいことというのは、見回りの者が見つけた姿見のことでして」
「姿見?」
頓狂な声で返したパラディオに、兵士は困惑の籠もった眼差しを向ける。
「ええ、姿見です。あの丘の向こうに、一つだけぽつんと倒れていたそうで」
兵士は連合軍が背にするなだらかな丘を指差しながら、『ぽつん』という部分を妙に力を込めて言った。なるほど確かに、凍りかけた丘陵地に姿見が一つだけ落ちているというのはなかなか滑稽で不思議な眺めに違いない。
「姿見の他には、特に不審な物は見当たりませんでした。武器や馬具もなく、誰かが争ったりした痕跡なども全くありません。本当に、姿見だけが無造作に置かれていました」
「それは興味深いね。で、姿見はどうしたんだ?」
「今はまだそのままにしています。もしかしたら、何か魔術が絡んでいるかもしれないと考えたので」
真面目に答えた兵士に、パラディオは思わず小さく笑んだ。魔術が使えない者は、何か理解できないことや不審なことがあると、すぐに魔術師の仕業だと思い込む節がある。それは一概に愚考だとはいえないが、魔術師を友に持ち自身も奇術をてらうパラディオにとっては、姿見一つにあたふたする彼らが少し間抜けでかわいく思えてしまうのだ。
幸いにも兵士がパラディオの笑みに気づいた様子はなく、彼は丁寧にも「そこまでご案内しますね」と言って歩き始めた。パラディオはまるで貴族に接するかのような兵士の態度に未だにむずがゆさを覚えながらも、黙ってついていくことにした。
今現在パラディオの肩書きは、一応『枢機卿の腹心』である。ナスカが聞いたら激昂するかもしれないが、それでも暗殺者であるナスカはあくまで枢機卿の影なので、兵士たちから見てヴァルカモニカの右腕と映るのはやはりパラディオの方だ。
実をいうと、パラディオが皇国に仕え始めてからまだ三年しか経っていない。だが、全国民から人望を集めるヴァルカモニカがパラディオを側近に登用したことにより、兵士はこの異能の才を持つ男に畏敬の念を抱き、年々信頼を厚くしている。そのため兵士たちは、実際は軍人でもアクロポリスの皇族でもないパラディオに対し、やけに恭しく接してくるのだ。
僕自身はそんなこと望んでいないんだけどね──。
パラディオはお決まりになってしまった台詞を心の内でぼやき、小さく苦笑を浮かべた。兵士に悪気がないことはわかっているし、枢機卿の腹心という栄光を得た自分の愚痴が贅沢であることもわかっている。だからこそ、この悩みを打ち明けることは難しい。
「ほら、あれが例の姿見ですよ」
丘を登りきったところで、兵士が立ち止まり前方を手で示した。ぼんやり考え事をしていたパラディオは現実に立ち戻り、数人の皇国軍人が取り囲んでいる噂の物体に目を凝らす。
が、
「……本当にただの鏡だね。虫も反応しないし、あれが魔術に必要な道具だとは思えないけど……」
念のため魔術の気配を関知できる蜘蛛も上着に忍ばせてきていたが、まるで反応しないので、恐らくあれは本当にただの鏡である。
パラディオから姿見の正体を明かされ、隣の兵士がほっとしたように表情を緩めた。
「やはりそうですか。確かに、なぜあんなところにあったのか不思議ではありますけど、魔術が絡んでいないのならひとまず安心ですね。処分してもよろしいですか?」
パラディオはしばらく思案したのち、問題ないだろうと考え口を開いた。
「ああ、大丈夫だと思うよ。処分して──」
「全く、朝っぱらから騒々しいな」
鬱陶しげな声がパラディオの言葉を遮った。
真後ろから響いたその声に、隣の兵士が度肝を抜かれたように跳ね上がる。
「ナ、ナスカ様。お早うございます」
ヴァルカモニカの影の腹心──ナスカの登場に、兵士は慌てて敬礼をした。どうやら隠密という職業柄ナスカは仲間からも恐れられているらしく、兵士はパラディオを前にしたときとは違って緊張しているようだ。
そんな強張った兵士を興味なさげに一瞥し、ナスカがパラディオに冷めた笑みを向けた。
「で、何か面白いことでもしてるのか?」
パラディオは神出鬼没な少年に疲れた目を向け、追い払うようにはたはたと手を振った。
「君が面白がりそうなことは、何も。ただ、突如現れた謎の鏡の正体について、熱く語り合っていただけだよ」
パラディオはもちろん茶化して答えただけだが、ナスカは予想外の反応をした。少年は小さく目を見開き姿見の位置を確かめると、
「丁度あいつが来た方向だな……」
と呟いた。
「何が来たって?」
ナスカは独り言で言ったつもりだったらしく、パラディオに鋭く追求され一瞬しまったという顔をしたが、すぐに白々しく「ただの勘違いだ」と返した。
しかし、ナスカのことをよく知るパラディオの目をごまかせるはずもない。
「君、何か隠してるだろ? 今、それだけははっきりわかったからな」
パラディオは更に質問し、ナスカの方へ軽く身を乗り出した。年の割に小柄なナスカは長身のパラディオのその動作が嫌だったらしく、パラディオから逃げるように後退する。
「待て、俺も今からヴァルカモニカ様のところに報告に行くつもりだったんだ。そしたら、丘を登っていくお前が見えて」
「報告って、何の報告だ?」
尚も問いただすパラディオに舌打ちすると、ナスカは側で事の成り行きを不安げに見ていた兵士を手で追い払った。兵士が慌てて遠ざかっていくのを見ながら、ナスカは囁くように小さな声で告げた。
「昨日の夜、ヴァルカモニカ様のテントの裏手で、アルトネアからの密偵らしき男を見かけた。だから、それを報告に」
さらりと答えたナスカに、パラディオは喫驚する。
「アルトネアの密偵だって? おい、なんでそんな大事なことをすぐに報告しなかったんだ!」
「だから、夜が明けるまでヴァルカモニカ様のテントを見張ってたんだよ! 奴が戻ってくる可能性は皆無じゃなかったし、そうでなくともヴァルカモニカ様の警備は俺の仕事だ。俺は俺の仕事を遂行したまでだ!」
ナスカは怒ったように返したが、なぜそこでヴァルカモニカを叩き起こすという考えに至らなかったのか。どうせ猊下の安眠を妨げたくなかったとかなんとか言うのだろうと思い、パラディオは呆れを隠しきれずうなだれた。
「ナスカ、前にも言ったよな? 君は枢機卿を一番に考えるあまり、最善を見過ごすことがあると。それは結果的には猊下のためにはならないし、君のためにもならないんだ。だから今回は、猊下を叩き起こしてでも知らせるべきだったと思うし、すぐに警備を強化して密偵を捕らえなければならなかったんだよ」
「でも、奴はガルアに──」
そこまで言って、ナスカはまたしても息を呑んだ。
「ガルア? ガルアがどう関係してるんだ?」
未だに呆れた調子のまま問いかけたパラディオに、ナスカは苦い表情を向けた。しかし、真っ直ぐに睨みつけるパラディオに折れたのか、素っ気なく肩を竦める。
「奴はガルアに伝言があると言っていた。だから泳がせておけば、あの不愉快な参謀副長ごと仕留められるかと」
「そして見失ったのか」
ナスカは澄ました表情で曖昧に頷くと、急に目をぎらつかせ不敵に微笑んだ。
「だが、奴がガルアのテントに入っていくのを見たぜ。アルトネアの密偵が……だぞ? おまけにガルアは平然と生きてるし、アルトネアからの接触があったことを皇国に知らせていない。普通なら、味方である俺たちに知らせるのが道理のはずなのに。だからこれはもう、十分に謀反の兆候だろう?」
ナスカはまるでもうガルアの処分が決定したかのように、愉しげにダガーの刃に指を走らせた。
「『参謀副長はアルトネアと密約を結び、ヴァルカモニカ様を暗殺しようとしている。それを未然に防ぐため、俺がガルアを仕留めたんです』──事実はどうであれ、完璧な筋書きだろ? それに、俺らを嵌めてアルトネアを騙し討ちしたような下衆には、相応しい死に様じゃねぇか」
「ちょっと、ちょっと待て。早まりすぎだ」
パラディオは額に手を当て、喜々とするナスカに真剣な眼差しを向けた。ナスカは煩わしそうにパラディオを見上げたが、続くパラディオの言葉に顔を歪める。
「第一、謎の人物に接触したのは君だけで、その人物がガルアのテントに入ったと知っているのも君だけだ。真実であれ偽りであれ、それはガルアを糾弾する十分な証拠にはなりえない」
「てめぇ、俺の言葉が嘘だっていうのか! ふざんな、確かにこの目で見たんだよ!」
「落ち着けよ。確かに僕には君が嘘を言っているようには見えないし、君を信じたい気持ちも当然ある。だけど、猊下や他の人間がそれを信じるかどうかが問題だ。それに、もし信じたとしても──」
パラディオは言葉を続けることを躊躇ったが、ナスカが苛立ちながら先を促した。パラディオは深く息を吸って頭の中の考えをまとめると、ゆっくりと自分に言い聞かせるように話し始める。
「あの男の才は捨てがたい。勘違いで暗殺するようなことがあってはならない。それは、猊下も同じはずだ」
パラディオが告げた内容が信じられないというように、ナスカは彼の目を見つめた。
「お前、まさか本当にあの男を信用してるのか? いや、あの男の能力を買ってるのか? 嘘だろ、ヴァルカモニカ様もお前もなんで、あんな奴を……!」
「確かに、純粋に彼の才能を評価しているとは言い難い。ただ、重要なのは、彼が僕らを見事に欺いたことがあるという事実だ」
そう、ヴァルカモニカが嵌められガルアと手を結ぶことになったファンブリーナ制圧任務。あの事件により、ガルアの権謀術数がヴァルカモニカのそれを上回るのだということをパラディオは痛感したのだ。確かにアルトネアという不確定要素も絡んでいたが、ガルアが仕掛けた謀略に自分たちはなす術もなく翻弄されただけ。
だからこそ、そんな男に迂闊に攻撃を仕掛けていいのか。
またしても、彼の掌で踊らされるだけではないのか。
そんな懸念がパラディオの胸中に──恐らくヴァルカモニカの中にも──渦巻いているのだ。
「今のこの関係を維持できるなら、僕はそれが最善だと思う。僕は、ガルアを敵に回したくないんだ」
静かに言い切ったパラディオを、ナスカは呆然と見つめていた。
やがて、
「…………腰抜けが……」
ナスカはどこか弱々しく呟いた。
「わかったよ、そう言うならあの密偵を捜し出してお前の前に突き出してやるよ。そうすれば、ヴァルカモニカ様も俺の言い分を聞いてくれるだろうし、ガルアを処分するための揺るがぬ証拠になるだろ」
おいおい、どれだけガルアを殺したいんだよ。お前にとっちゃ、ヴァルカモニカがガルアを贔屓するのが不愉快でたまらないんだろうけど──。
そこでふと、パラディオはある疑問に行き当たった。
「なあ、その密偵を捜すと言っても、そう簡単にいくわけないだろ? 何か手がかりがあるのか?」
「身長だ。たぶん、2メートル近くはあった。それにまだ半日も経ってねぇし、ここら辺は徒歩で移動するしかねぇからそう遠くには行ってないはずだ」
確かに、この丘陵地帯を抜ければ荒原になり、更に険しい山脈を越えなければアルトネアには帰れないはずだが。
しかし、パラディオは何かに引っかかった。何かをまるっきり見落としているような、そんな気が──。
ああ、この感覚はあの時と同じだ。
地下道の存在を思い起こそうとしていた時と、同じ──。
だが、まさか。
パラディオは辿り着いた可能性を頭の中で反芻し、そして、無意識に零していた。
「鏡……」
──そう、鏡だ。
不自然としか思えないあの鏡だ。
「…………ナスカ、ちょっといいか」
パラディオは疑惑が確信に変わっていくのを肌で感じながら、早速身支度を整えようとしていたナスカに話しかけた。
「君、どこら辺で密偵を見失ったんだ? 見失ったというか、どこら辺で気配を探れなくなった?」
ナスカはその時のことを思い返しながら、不可解そうな表情を浮かべる。
「はじめは、奴に気取られないよう結構距離を空けて追っていた。そんで、丘を下る勢いを利用して一気に仕掛けようと思って走り出したんだが、そん時は既に逃げられてたな」
それはつまり、密偵は丘の向こうで気配を消したことになる。ナスカが密偵をどれくらいの距離を空けて追跡していたのか定かではないが、この仮説は不可能ではない──。
“密偵は、鏡を利用して逃亡した”。
それ即ち、“ゼルカロ”の力だ──と。




