陰謀の影
鈍色の壁に囲まれた無機質な部屋。
金属質な光沢が目につく磨き上げられた床。
その部屋は味気ないほど整然としていたが、どこか厳かで陰鬱な空気のせいで息苦しい。
そんなモノトーンの色調の中で特に目を引くのは、荘厳な造りの扉の前から続く真紅のカーペットだ。
そして、カーペットの先には帝国の主──女帝ネローネが鷹揚に待ち構えている。
「連合軍の動きはどうだ」
室内に淡白な女性の声が反響した。カーペットの上を杖を片手に跛行していた老人は、女帝に近づきながら下品に笑う。
「無関心を装っていても、やはり気になって仕方がないようですな。そんなにあの軍勢が恐ろしいですか?」
「馬鹿なことを抜かすな。貴様の減らず口にはほとほと嫌気が差すわ」
ネローネは露骨に顔を歪め、眼前でにやつく鷲鼻の老人を眺め回した。彼は骨と皮ばかりに痩せこけ、目は落ち窪み、常に不気味な薄ら笑いを浮かべていたが、目だけは獲物を狙う蛇のように冷えた光を宿し爛々と輝いていた。
それこそ、連合軍の若き参謀ガルアと同じように。
「随分と機嫌がいいのだな、スレイマン参謀長。今日はたんまり賄賂でももらったのか?」
老人こと参謀長セルジュ・スレイマンは、乾いた笑い声を上げネローネに向き直った。
「お察しが良いですな、陛下。ええ、仰るとおり、つい先ほど貴族共からちょっとばかり」
さらりと暴露したスレイマンを咎めることもせず、ネローネは興味なさそうに頷いた。ここ、帝国では、権力と地位の為に金を利用することは悪ではない──女帝に損害を及ぼさないのなら。
「それで、余の質問に対する返答はどうなのだ?」
ネローネが促すと、スレイマンはああ、と間抜けな声を零し、長く伸ばした真っ白な髭を撫でながら唸った。
「今のところ、動きという動きはありませんな。帝国に攻撃してくる気配は微塵もないですし、それならそれで無闇に刺激しないほうがいいでしょう」
「余が聞いているのは、そのことではなく」
「はて?」
ネローネは不機嫌を隠そうともせず告げたが、対するスレイマンはとぼけた表情を浮かべるばかりだ。ネローネは結い上げた金髪を苛立だしげにかきあげ、呆れの籠もった声音で説明した。
「今が皇国を潰す好機ではないかと聞いているのだ。なにしろ目障りな枢機卿は連合軍にかかりきりであるし、かなりの兵士がアルトネア方面に動員されている。このすきに皇都を落とせれば──」
「無理でしょうな」
スレイマンは無表情に一蹴した。ネローネは驚愕を孕んだ目でスレイマンを見つめたが、老人は女帝の失望などまるで気にしていない様子で、悲惨ともいえる自国の状況を分析し始めた。
「いくらアルトネアに兵力を裂いているからといって、皇国は今の我々が敵う相手ではありませぬ。先帝が始めたこの戦も今年で五十年目を迎えますが、その間に我々の戦力は半分以下にまで削ぎ落とされた。今の帝国は国境際を守るだけで精一杯だというのに、これ以上無謀な喧嘩をふっかけて勝算があるとお思いですか?」
そう、実際戦況はかなり厳しいのだ。参謀部の人間が、それも参謀長であるスレイマンがそう感じるのだからなおさらのこと。兵は終わらない戦いに憔悴し始めているし、無能な貴族が相も変わらず行政機関と軍上層部にのさばっているし、唯一の希望ともいえる優秀な参謀たちも戦死していくため全ての戦地には配属できず、最近は戦略がなかなか思い通りに運ばない。
しかしながら、スレイマン自身は帝国の有り様に対し悲観も義憤も抱いていなかった。彼はこの社会で上手く立ち回り権力も金も手に入れたし、参謀長の肩書きという名誉も得た。むしろ彼には、腐りきった帝国のほうが居心地が良く、自分のフレーザー一族らしい利己的な性に合っているとも思えた。
一方、ネローネはまだショックを引きずっているのか、やや青ざめた顔で俯いていた。スレイマンが指摘した事実は数年前から彼女も知っているはずだが、未だに認めきれていないらしく、悔しげに唇を噛み締めている。
──随分負けず嫌いな女だ。
スレイマンはそう思いながら優しげに微笑んだ。
「なに、皇国に降伏することに罪の意識を覚える必要はありませんよ。今の戦況を考えれば仕方のないことですし、誰も貴女を責めは致しませぬ」
「だが我がベルギナ帝国が敗北を喫するなど、余の矜持が許さぬわ!」
ネローネが声を張り上げた。彼女は憤慨を露わに感情的に続ける。
「よいか、帝国はこの大陸で最も強く、最も偉大な国家でなくてはならぬ。我らに『敗北』という言葉は許されぬ。だからこそ、たとえどんなに厳しい戦いであっても、余は帝国の歴史と誇りを守るため最後まで戦い抜く! 必ずや憎き皇国を滅してみせようぞ!」
ヒステリックなネローネの声が部屋にこだました。その声でようやく我に返ったらしく、彼女は盛大に咳払いし体面を繕おうとする。スレイマンは相変わらず笑いをこらえながら、なおも親切な口調で気まずそうな女帝に語りかけた。
「やはりそう仰ると思っておりましたよ、陛下。誠に勇壮で貴女らしいご決断でございます」
「貴様もいい加減に余を愚弄するのをやめろ! 己が賢いからといって、余を見下しおって! 余がこの戦争を止めぬことも、どうせ貴様には子どもじみた愚行としか映っておらんのだろう……!」
スレイマンは女帝の言葉に微かに目を開く。
どうやらこの高慢な女帝は、皇国との戦争がいかに無謀で己がいかに無能かを理解しているようだ。なるほど確かに、スレイマンはネローネがまだ幼い頃から参謀として彼女に仕えてきたが、ネローネは決して自国の状況を把握できないほど愚昧ではなかった。むしろ追い込まれていく自国のことを憂いていたからこそ、派手な侵略を繰り返し帝国を強大に見せようとしていたのではないか。
ただ、如何せん自尊心が強すぎる。
だからこそ降伏という無様な真似もできず、帝国が最強の軍事国家であるという矜持から皇国と和平協定を結ぶということもできず、ここまで戦ってきたのだろう。
ネローネの内情を垣間見、やはりこの女は愚かだという蔑みと冷笑がスレイマンの内に沸き起こる。そんなスレイマンには気づいていないらしく、ネローネは彼に腹を立てたような縋るような眼差しを向けた。
(やはり、己が能力に頼らざるを得んか。本当にどこまでも愚かで無智な女よ……)
悔しげに歪む女帝の顔を満足げに眺め回したあと、スレイマンはふと長い息をついた。
「安心なされ、陛下。既に手は打っております」
参謀長のその言葉に、ネローネの目が輝きを取り戻していく。スレイマンは素直な彼女の反応に嘲りにも似た愉快な感情を覚えながら、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「連合軍。あれはもはや、我らの手中にあります。そして、枢機卿の命も──」
ネローネは絶句し、平然と言い放ったスレイマンを畏怖を含んだ表情で見つめた。スレイマンはおよそ老人らしからぬ鋭い眼光でネローネを射抜くと、ゆっくりと酷薄な笑みを浮かべた。
「ガルアは今のところ、非常に優秀な駒として動いてくれておりますよ──私の命令でね。尤も、この事実を知っているのは参謀部の中でも数人だけですし、貴女には今初めて申し上げましたが」
「……ま、まさか、あの男、ガルアの謀反は……枢機卿を陥れるための、策略であったと申すか……」
ネローネは震えながら玉座を立ち、スレイマンに潤んだ目を向けた。それは、参謀長の詐術に対する生理的な恐怖心と畏敬の念とがないまぜになった涙だった。
「なんということだ……。我が帝国は、お前のような参謀がいる限り滅びはせぬ。そう、参謀部があるからこそ、我が帝国は不滅なのだ。スレイマン、お前に、そしてお前が率いる帝国参謀部に、余は心から敬服する。どうかその才知をふるい、我が帝国を導き守り抜いてくれ……!」
感極まり声を揺らすネローネを前に、スレイマンは上辺だけの笑みをたたえた。
「もちろんそのつもりでございますよ、麗しき女帝陛下。我ら参謀部は今後いかなる危機が訪れようと、愛しき母国を守り、気高きフレーザーの血を栄えさせることを誓います」
そう述べ頭を垂れたスレイマンの脳裏には、眩いばかりに輝く金貨が映し出されていた。この件で更に女帝からの信頼を厚くした自分の元には、一体どれだけの報酬が舞い込むのだろうと考えると今から楽しくて仕方がない。彼はそんな愉悦に浸りながら、歓喜に涙する女帝の前で伏せた顔一杯に欲に歪んだ笑みを広げていた。




